利己的

「利己的な遺伝子」論とも呼ばれているこの考え方は、進化するものは利己的でなければならないとの印象を与えかねません。生物学者リチャード・ドーキンスは次のように訴えました。

「もしあなたが、私と同様に、個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうような社会を築きたいと考えるのであれば、生物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう。われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みてみようではないか。」(日高敏隆他訳『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店)

しかし、利己的な遺伝子を保有するからといって、利己的な存在であるとは言えません。遺伝子はまぎれもなく利己的であっても、その遺伝子の進化過程で生き延びるために必要とされれば、その中に立派な利他主義者をつくり出す指令が組みこまれることになるというのです。

人類は立派な利他主義者でもなければ、まったくの殺し好きのサルでもありません。実際にはそれぞれを少しずつもち合わせているのだと言います。だからこそアシュレイ・モンタギューのように人間を、愛と平和の象徴であるフラワーチャイルドとして描く者もいれば、リチャード・ランハムのように人間は殺すために生まれてきたとする者もいます。人間がどのような存在であるか、それは人間のどの行動を見るか、自分の所属集団の個々人に向けられた行動か、それとも別集団に向けられた行動かによって評価されます。数百万年もの間、自分と子どもたちの生活は自分と同じ集団のメンバーによって支えられてきました。だからこそ人間は生まれながらにして彼らには親切なのです。そして600万年の歴史によって人類は別集団のメンバーは危険な存在だと教えられました。だからこそ別集団に対しては生まれながらにして敵対心をいだくのだと言います。

戦闘中は自分と同じ集団のメンバーは盟友であり、武装した戦友でもあります。戦いの合間には食料や魅力的な相手を求めて競い合いました。よい時にも、悪い時にも互いに協力し合いました。それを利他行動と呼ぶことができるのかもしれませんが、結局は協力こそが生き延びるコツだったのです。明日手伝ってくれるのなら、今日私があなたを助けましょう。このようなシステムにおいては概して横着者が出現するものです。恩を受けるだけ受けて、それに報いません。しかし心は道具や武器を考案するためだけのものではありません。数千年もの間に人間は彼らを警戒することを覚えました。そしてそのような連中に警戒するようにと友人に忠告することさえできるようになりました。その間横着者の側もその巧みさを増していきます。横着者を見抜く方法を思い描いている間にも、彼らは私たちの考案した探知法の裏をかくような方法を編み出していました。それによって次にはその探知法の裏の裏をかく手段が生み出されることになります。この連鎖を「頭脳戦」と呼ぶ者もいるそうです。

利己的” への7件のコメント

  1. 業界において、会社同士が競争し合うからこそ改善があり、進歩があり、その恩恵が顧客にもたらされるのだとすれば、企業間が競争することは社会にとって大切なことであると考えることができるように思います。転んでいる人がいれば起こしてあげることを助けることと言えるように思いますが、そうでない場合の助け合いというのはもしかすると競争することではないかと考えた時、競争することの捉え方が変わるような気がすると同時に、この度の題目の利己的という言葉の捉え方も、少し違って感じられるように思いました。

  2. リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)。日本語版のみならず、原書も買って読みました。今から10数年前。もちろん、藤森先生に紹介されて。私たちの遺伝子は自分の遺伝子を存続させるため、存続させる可能性の高い方法を選択するようです。その意味では極めて「利己的」。ところが、ここで注目すべきは、利己的であるがゆえに「利他主義」に遺伝子は走る。利己と利他は基本、対立概念であるはずですが、実は遺伝子レベルでは「絶対矛盾の自己同一」になっている。これは驚くべきことです。「その遺伝子の進化過程で生き延びるために必要とされれば、その中に立派な利他主義者をつくり出す指令が組みこまれることになる」ということです。遺伝子によって今の私があるのに、遺伝子のことをちっともわからず、ボーっと生きている自分に反省しきりです。「愛と平和」と「殺戮」の両者をもつ私たちホモ・サピエンス。協力し合って平和を築き上げる一方、協力し合って殺戮を実行する。「協力」にもポジとネガがあるとすれば、私はポジとなるための訓練、練習を積んでいきたいと思うのです。私はやはり争いは好みませんし、闘いからは逃げたいと思っています。負けたくないし、倒されたくないし、殺されたくないから、逃げるしかない。勝ちたい、倒したい、殺したいと思わない。やはり逃げる。いわゆるガチな勝負からは逃げる。

  3. 横着者の存在が、私たちの文明や社会をより高度で知的なものにしてきたのかもしれませんね。犯罪もそうなのかもしれませんが、正攻法の裏をかこうとする者を取り締まるために新たな方法が産み出される、しかし、その更に裏を書く方法を考えだすのでまた新たな方法を産み出すしかないというイタチごっこの状態が実際に起こってしまう。この繰り返しが新たな発想や発見、システムの構築に繋がるのであれば、横着者の存在は意義があり、ある意味で社会にとって必要な役割をなしているのではないかと思えてきます。

  4. 横着者とのいたちごっこの状態は、こと犯罪なんかにおいて、現代ではほとんどがそのようなことになっている印象があります。ですが、読んでいてその横着者がいるから今日の社会は高度なシステムや文化の繁栄があるのかもしれないなと思いました。そのように考えていくと、犯罪者と呼ばれている人でも何か社会に貢献しているんだなと思えます。たまにテレビなどで、犯罪者側からの話しがあり、「なるほど」と感心してしまう話しもあります。
    「人は何かの役目をもって生まれてくる」という言葉を聞いたことがありますが、全くその通りであるんですね。

  5. 同じ集団でいるからこそ、利己的である、そう考えると、皆に平等のように利己性をもちかかわることは困難をきわめる、違う集団であるならば、敵対心をもち、自己の集団のために、利己的になる、”人類は立派な利他主義者でもなければ、まったくの殺し好きのサルでもありません。実際にはそれぞれを少しずつもち合わせている”ということを考えることができます。生きるなかで、様々な人がいて、その人に対する構え方というのがあると、遺伝のように受け継がれるものだと思うことができるからこそ、人は、集団以外の人に警戒心をもち、様々な駆け引きのなかで、自己、遺伝的につながりのあるものにとって、マイナスにならない行動をするのかなとも考えることができました。

  6. 「遺伝子の進化過程で生き延びるために必要とされれば、その中に立派な利他主義者をつくり出す指令が組みこまれる」とあり、利己的があるから利他が存在するような表裏一体といいますか、そんな存在かもしれないと感じます。かなりの奥深さを感じ、理解できているかは不安ですが、利己的な遺伝子がありながらも利他を必要とすればそれが組み込まれていくのですね。その過程を経て「頭脳戦」と言われるようなことが起こるわけですね。横着者から生まれる頭脳戦。これは結局は利己的なのか。そんなことも考えてしまいますね。

  7. 話がそれるかもしれませんが、つい仕事をする上で「横着」してしまうときがあります。片付けるのが面倒で、その辺に置いておいたり、早く終らせようと適当にしてしまったり、その瞬間はいいかもしれませんが、大体は後でしっぺ返しを喰らい、仕事量が増え、時間が2倍、3倍とかかってしまいます。「利己的な遺伝子」も持ち合わせており、協力こそが生き延びるコツと書かれています。まさに、その通りかもしれませんが、面白いのは「横着者」が現れると言うことです。全ての人間が完璧で利己的だったら、平和なのかもしれませんが、完璧ではない、ここで言う「横着者」の存在が出てくるから、それに対する警戒や作戦を互いに練り、それこそ「頭脳戦」を繰り広げることで進化といっていいのか分かりませんが、脳が拡大してきたのですね。

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