人間行動

ラトラーズとイーグルズは以前の生活を脱ぎ捨ててキャンプに参加したわけではありませんでした。彼らは皆熱心に教会に通う家族の一員であったことから、両集団でも食事の前に祈りを捧げる習慣が自発的にはじまったのです。両集団はいがみあっていたにもかかわらず、ラトラーズがイーグルズに野球で勝った後には、「イーグルズの健闘に万歳三唱」をしました。敗者にエールを送るのはまさにオクラホマの学校の伝統だったのです。新しい集団が形成されるとき、メンバーたちはまずメンバー間の共通点を探り、大概はそれを生かしつづけます。

小説家に社会心理学者になれとは言わないまでも、彼らには人間行動のよい観察者になってもらいたいとハリスは言います。彼女は、ゴールディングは間違っていたと言うのです。それは、集団暴行など存在しないと言っているのではないと念を押しています。集団が個人を襲撃して、殺害することも時にはあるでしょう。しかし一般的に被害者は、彼らのうちの一人として設定されます。集団内では権力闘争やいじめが横行するかもしれませんが、こうした内輪もめは、敵となる可能性を秘めた別の集団が登場すると見られなくなるのです。ゴールディングの架空の島でも本来ならそのように展開したはずだと言うのです。グループ内ではそれぞれメラネンアの子どもたちのように平和で、グループ間ではラトラーズとイーグルズのような状況だったのではないかと言うのです。コールディングの小説に唯一欠けていたのは、窮地を救ってくれる指導員の存在だったのです。

言語学者・S・ハヤカワは「われわれが何かに名をつける時、われわれは分類している」と言っています。人やものを分類する、カテゴリー化する、分別する、仕分ける、言い方はいろいろありますが、これらはごく日常的な行為です。私たちの脳はそうするように創られているとハリスは言います。もの、動物、人をどう扱うか、それを個別に学ぶのでは効率が悪いので、カテゴリー化します。たとえば対象を「車」「牛」さらには「政治家」というようにカテゴリーに分類すれば、あるものに関して学んだことをそれと同じカテゴリーに属する他のものにも適用できます。後に政治家となった日系アメリカ人のハヤカワは、カテゴリー化にひそむ危険性を懸命に説きました。「牛1と牛2は違う」ように、「政治家1と政治家2は違う」のです。

ハヤカワは「ウォーフの仮説」と呼ばれている理論を信じていました。それは、「万事をカテゴリーに分けるあり方はまったく恣意的であり、カテゴリーに名前をつけることで物事を特定の方法で分類・整理できるようになる」というものです。ハリスは、この理論は真実を含んでいなくもないと言います。ヘンリー・タジフェルがブリストルの少年に、例の「過大評価」を知らせたとき、少年の頭の中でタジフェルの研究室に入る前には存在しなかった新しいカテゴリーが設定されたのです。

もっとも心理学の「法則」の多くがそうであるように、ウォーフの仮説もまた、いつでも誰にでも当てはまるものではなく、当てはまることが多いとさえも言えないとハリスは言います。

人間行動” への9件のコメント

  1. ハロウィーンの今日、というかこの所、渋谷駅の近くでは、コスプレの若者たちが真夜中、お祭り騒ぎです。そして、群衆心理とでもいうのでしょうか、何かをきっかけにその心理状態がエスカレートすると、軽トラックをも横転させてしまう、という事態に至るようです。かつて我が国においても学生運動時、あちこち暴力事件が起きました。世界では、負の状況が暴動を誘発することもあるようです。集団でしか生きられないのに、集団はある意味怖い。大人は分類したがります。白黒もつけたがります。一方、赤ちゃんを頂点とする子ども世界では、大人がいうカオスこそがワールドであり、ゆえに、好奇心探求心がくすぐられ、あれこれ活動します。「遊びのBGM」環境で生きています。まぁ、いろいろあっても、最後は笑っておしまい。大人の私たちはこのことを学び直さなければならないと思います。個人を責めたり、集団を責めたりしますが、結局のところ、そして厳密に考えるならば、私たちの生きている世界は、ある一定の個人や集団、出来事に責任を転嫁できるほど単純ではない、という単純な事実を私たちは認めたいものです。

  2. 「集団内では権力闘争やいじめが横行するかもしれませんが、こうした内輪もめは、敵となる可能性を秘めた別の集団が登場すると見られなくなる」敵の敵は味方、この言葉が立証されるようで、そして、そうして人類は進化してきたということが考えられるように思えてきます。敵を敵としながらも尊ぶ、というのでしょうか、その方法を、「敗者にエールを送る」ことや、敵に塩を送る、などしながら、人間は集団になるとどうも幼くなってしまいそうなところを、その集団のリーダーを筆頭に、知性を発揮しながら、保ち、発展させてきたのではないかと推測します。

  3. 共通点を探り、それを生かすというのは集団形成の際にごく自然に行われていますね。特に初対面の人に対しては、会話を通じて自分との共通点を探り、通じ合えるものがあれば仲間としての意識が芽生えるように思えます。それは同じ集団に属すのかどうかを探り、「われわれ」か「彼ら」かの区別をするため本能的な人の行動だと思えます。週末からとある大きな集団のフォーラムに参加をするのですが、そこにおいて私も区別をするための行動をとっていることでしょう。そこでどのような集団が生まれ、私がどのような集団に属しているのか・・・ある意味で楽しみです。

  4. 〝集団内では権力闘争やいじめが横行するかもしれませんが、こうした内輪もめは、敵となる可能性を秘めた別の集団が登場すると見られなくなる〟という文章で、自分が思い出したのは「ルーキーズ」という漫画です。よくある話ですが、不良たちだらけの野球部が、のちに甲子園に行こうとする話ですが、明確なライバルが見つかると一気に野球が上手になっていったのを覚えています。いじめみたいなものもなくなり、協力していろんなことに取り組んでいくようになっていきます。
    ということは、現代の学校の問題である「いじめ」などは明確に敵対する集団の登場でなくなっていくということでしょうか。いじめの本質とはまた違い、根本を解決するということではない気がしますが、そんな方法も考えられるのではないかと思いました。

  5. “「われわれが何かに名をつける時、われわれは分類している」”という言葉から、私たちは自然とカテゴリー分けをし、その分けられたカテゴリーに対する対応を即座に実行されていることがわかります。そう思うのは、人がもつカテゴリーの分け方が案外、他者とにている点が多く、そのなかで、同じ解釈をすることが、互いに同じ意識をもっているということから共通点をもち、集団として過ごしているとを感じました。

  6. 「集団内では権力闘争やいじめが横行するかもしれませんが、こうした内輪もめは、敵となる可能性を秘めた別の集団が登場すると見られなくなるのです」とあります。こうした生きたかをしてきたのが人類なのですね。最近初めて息子の保育園のお友達と遊ぶ機会がありました。そこでお互いを知るために質問をして、共通点があれば喜び、知らないことを教えてもらえたりすることで喜びといった感じでした。そこでも自然とカテゴリー化されていたのですかね。人の行動を改めて考えると不思議ですね。

  7. 「集団内では権力闘争やいじめが横行するかもしれませんが、こうした内輪もめは、敵となる可能性を秘めた別の集団が登場すると見られなくなる」と書かれています。異年齢の集団では子ども同士のケンカはありますが、イジメなどは起きにくいように思います。年齢が違う者を敵と認識しているわけではありませんが、自分達の年齢と違う存在が身近にいる事が、年上は自分よりも幼い存在がいること、自分よりも弱い存在を知る経験、また年長児になるまでのプロセスの中で年上の存在を知り、憧れや、尊敬を持つ経験が相手を敬う気持ちが子ども達の中で芽生え、仲間という意識が強くなるように思いました。

  8. 「集団内では権力闘争やいじめが横行するかもしれませんが、こうした内輪もめは、敵となる可能性を秘めた別の集団が登場すると見られなくなるのです。」とあります。以前も、ブログの内容において、いじめについてのコメントがありました。自分自身もそのコメントを見て「たしかに」と感じることがあったのですが、今の時代、いじめが頻繁に起きるようになったのは、集団として一つの目標に向かうような活動が少ないからということなのでしょうか。確かにそう考えると、勉強がしなければいけないものであり、みんなで学ぶというよりも、一人で知識を広げるといったことが多いように思います。集団で何かをするという機会もすくないのでしょう。海外が日本の班活動を評価するというのもこういったことが根底にあるからなのでしょうか。藤森先生がこれからの時代は「競争ではなく、協力」といっていたのを思い出しましたが、こういった経験を多くすることが必要なのですね。今の時代、便利になりすぎて、協力する機会というものが社会において少なくなってきているのも、大きな問題になっているのだと思います。とても考えさせられます。

  9. 「カテゴリーに名前をつけることで物事を特定の方法で分類・整理できるようになる」とありました。確かに物事を分けて考えることで、考えやすくなるということがあるのかもしれません。しかし、それは同時に見やすくなるように思えて、そうしてしまったことで見えなくなってしまう部分がたくさんあるのかもしれませんね。『「牛1と牛2は違う」ように、「政治家1と政治家2は違う」のです。』とあるように、同じリンゴであっても大きさ、味、形、匂いいなどは異なるはずです。ですが、それをひとくくりに「リンゴ」や「果物」と分類してしまうこと。それは人間にしかできないことなのかもしれませんが、そうすることで、それぞれを見るという見方が薄れてしまうのかもしれませんね。「子ども」といっても、やはり個々に違いますね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です