ハリスの考える進化3

典型的な狩猟採集民族や村落社会では、どの社会でも人間の赤ちゃんは生後六カ月ごろまでには赤ちゃんも自分の属する地域社会のメンバー全員と一度は顔を合わせることになるため、見知らぬ人の存在はそれだけでも十分懸念すべきこととなるのです。そこで、人見知りをはじめます。彼は何をしにきたのか。私をさらおうとしているのか。私を奴隷にしようとしているのか。まさか私を食べてしまうのではないだろうか。その答えのヒントを求めて赤ちゃんは母親の反応を観察します。母親がその見知らぬ人を大丈夫であると思っている様子を見ることができれば、赤ちゃんは安心するのです。この経緯は、私も再三現場で見て、同感します。人見知りは、親以外の人にするのではなく、それまで見知らない人にするのです。と言うのは、進化の過程でそれまでにおおむね同じ民族間では、見知った人になるからです。園でも、それまでに園全体の職員は、皆見知った人になることが必要な気がしますし、人見知りが起きてからも、多くの人と接することで、皆安心した存在であることを知ってもらった方がいいと思っているのです。

この赤ちゃんの見知らぬ人への反応を、アイブル=アイベスフェルトは「幼児ゼノフォビア(外国人など未知の存在に対する嫌悪・恐怖を指す概念)」と呼び、それは人が世界を〈われわれ〉と〈彼ら〉とに分けて考える生得的な気質の存在を示すはじめての徴候であるとしています。

子どもは教えられなければ憎悪は覚えないと考える人が多いそうです。しかし、アイブル=アイベスフェルトもハリスも決してそうは思っていないそうです。他集団のメンバーに対して憎悪をいだくのはある意味で人間(チンパンジー)性であり、その中でも最も醜いものであると言うのです。子どもたちに教えるべきことは憎悪をいだかない方法だと言うのです。ドーキンスは、人間は生まれながらにして利己的であると言いましたが、そうではないと考えているのです。そうではなくて、私たちは生まれながらにして見知らぬものに対して恐怖をいだくようにできているのだというのです。

生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドによると、進化とはゆっくりと、細かな変化が徐々に積み重なりながら進むものではないと言います。種には安定期があり、それが何百万年もつづくこともありますが、それを経て、進化の時間基準から考えるとむしろ突然に姿を消し、新しい種と入れ替わります。種分化は、種に属していた副次集団が枝分かれし、一般的には地理的な孤立のために母集団と交配できなくなったときに生じます。この小集団は新たな特徴を進化させ、その変化によって母集団よりも順調に増殖が図れれば、最後には適者生存の競争を勝ち抜き、母集団と入れ替わることになると言うのです。

小集団は必ずしも大集団から地理的に隔離されなければならないというわけではありません。なぜなら交配しなくなる理由は他にもあるからだと言うのです。ともにヨーロッパに生息する二種類のバッタは、外見も同じで実験室では交配もするそうですが、野生下では交配しないことから別の種類とみなされているそうです。彼らが交配しないのは鳴き声が違うからです。こうしたわずかな行動の違いが彼らを引き離しているのです。

ハリスの考える進化3” への9件のコメント

  1. 新入園の赤ちゃんがお母さんに抱かれながら、園の先生とお母さん双方の顔を見比べている動画を観たことがあります。園の先生が果たして信頼できる人なのかどうか、お母さんの顔から判断しようとしているのでしょうか。その子のお母さんも先生も笑顔で会話しています。赤ちゃんは安心したのでしょうね。その後は、その時の先生だけではなく、他の保育士さんはもとより、栄養士の先生に抱かれても平気のようでした。栄養士の先生はその子が特にお気に入りだったようで、調理業務の手が空くと、その子に関わっていました。大人同士の良好な関係は子どもにとって安心材料なのでしょう。所属感を持てることに繋がるのでしょう。生物学者スティーヴン・ジェイ・グールド博士が「進化とはゆっくりと、細かな変化が徐々に積み重なりながら進むものではない」、どころか「突然に」進化が起こり得る、すなわち「姿を消し、新しい種と入れ替わ」るということは自分自身の時間尺度で考えると驚きです。もっとも「突然」とはどのくらいの時間に対して言われていることか?小集団が母集団にとって替わる。このルールは日本の保育界にも当て嵌まるか?101匹目の猿現象。閾値を超える。よ~し、頑張りましょう。

  2. 「私たちは生まれながらにして見知らぬものに対して恐怖をいだくようにできている」生き残る為の戦略として本能的にこのような能力を携えていると思うと、大人になってからも見られる人見知りもまた本能的なものなのかもわからないと思えてきます。良い、悪い、ということではないのですね、それを知識として手に入れた時、湧き出てくる恐れや不安感をどう活用するか、ということなのだと改めて思います。もしかすると、考える、という行為もまた、心配事や悩みなど本能的に浮かんでくるものをそのままにしておくという状態のことを指すのではなく、備えたり、計画をしたり、好転的に捉え直したり、そう頭を働かせることを考える、というのかもわかりません。

  3. 私たちは生まれながらにして見知らぬものに対して恐怖をいだくようにできており、その最初の徴候が赤ちゃんに見られる人見知りなのですね。このことは本能に刻まれた種としての生存するための手段であり、だからこそ、今の私たちが存在していると考えると、「人見知り」の奥深さと意義を感じます。入園したばかりの子に置き換えてみると、家族という集団から園という見知らぬ集団にあずけられるのですから、不安がったり泣いたりするのも当たり前ですね。それが無くなった時、安心できる集団であると認め、その集団に対して帰属意識がうまれたことになるのでしょうか。そのことが9月に入園した0歳児が、最近になってニコニコしながら登園してくる姿と重なります。

  4. 〝私たちは生まれながらにして見知らぬものに対して恐怖をいだくようにできているのだ〟とあり、それが最初に現れるのが赤ちゃんの「人見知り」であるんですね。自分はかなりの人見知り人間ですが、ある意味でこの本能ともいえる、もっている能力を駆使しているということなんでしょうか。もしかしたら、自分は他の人よりも危機管理能力が高いのかもしれませんね。
    そのように考えていくと、人間にとっての負の感情も根幹にはこのような人間の進化に関する理由があるのではないかと想像してしまいます。決して人間を陥れるために負の感情を抱くわけではないのですね。

  5. 生後六ヶ月ごろに見せる赤ちゃんの反応、人見知りというものが、社会的参照によって、違った反応となることは、実際の姿から経験がありました。それが”人が世界を〈われわれ〉と〈彼ら〉とに分けて考える生得的な気質の存在を示すはじめての徴候である”とあり、これは、対人に対する生得的に持ち合わせた気質であることを考えると、そういった経験により、社会的集団の広がりが見られていくように感じました。また、その生得的に持ち合わせた気質にこそ、対人を感じる、そこではじめて観る人に対して警戒心を抱き、それが、恐怖を抱くことへと繋がっていることを人もつ生きる力とも感じます。

  6. 「私たちは生まれながらにして見知らぬものに対して恐怖をいだくようにできているのだというのです。」というのが本能としてあるのですね。今現在一時保育を担当させてもらっていますが、親御さんは初めて預けるときに必ずといっていいほど泣いてしまう我が子を心配そうに見つめて出て行かれます。やはり受け入れの際になるべく多く親御さんと仲が良いように笑顔でお話を心がけています。子どもが慣れてくれる一番の近道を我々は子どものために初めはしなくてはならないですね。一時保育はその様子が多いため、そんなところを気遣うことは多いかもしれないですね。

  7. 「私たちは生まれながらにして見知らぬものに対して恐怖をいだくようにできている」確かにそうかもしれません。私の場合、両親と離れているため、滅多に会うことができません。なので実家に帰ると次男はまずは警戒して、なかなか私たちの元を離れませんが、長男は慣れているので、すぐに遊び始め、おじいちゃんとおばあちゃん、従兄弟と楽しく過ごす姿を見て、次男も「ここは安心できる場所、安心できる人達」と認識すると、後は平気に過ごしていました。子どもが親の顔を見て、判断するように、兄弟だったり、友人などを見ても社会的参照を行っているようにも感じた瞬間です。

  8. 「人見知りは、親以外の人にするのではなく、それまで見知らない人にするのです。」確かにその通りかもしれませんね。慣れているか慣れていないかによって起きることはありますし、何度も見知っていくと人見知りで泣かれることもなくなってきます。そう考えると園でも皆見知った人になるような環境作りは必要になってくるのでしょうね。「子どもは教えられなければ憎悪は覚えない」と考える人が多いのですね。感情のことなので、誰かに教えられるというのは想像しづらいのですが、赤ちゃんの時にその様子が見られないからそう思われているのでしょか。憎しみや怒りというのは人においても確かに厄介な感情なのかもしれません。「子どもたちに教えるべきことは憎悪を抱かない方法だという」のも分かる気がします。今の社会においてもこのことは言えますし、我慢できない大人ということが昨今で言われている中、赤ちゃんは様々なことをその小さな体で表現し、感じ、学んでいるということをより感じます。

  9. 人見知りがはじまる前に地域社会のメンバーと顔を合わせることになるとありました。このことからも、赤ちゃんが日々の中でたくさんの他者と接していたということを感じさせます。現代の感覚からいくと生後6ヶ月までに地域社会のメンバー全員と顔を合わせているというのはなかなか理解しづらいかもしれませんね。それくらい、かつては社会で赤ちゃんを育てていた、面倒を見ていたということを感じました。現代では生まれたばかりの赤ちゃんが多様な人と関わるということが普通ではない世の中になっています。そのことに対してもしかするとあまり違和感も持てなくもなってきているのかもしれません。だからこそ、「園でも、それまでに園全体の職員は、皆見知った人になることが必要な気がしますし」という藤森先生の言葉が大切になってきますね。

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