ふたつのグループ

敵対した二つのグループを非競争的な状況で一緒にさせるという方法を取ろうとしたのですが、彼らの敵対心は全く解消されませんでした。最後の方法は、敵対した二つのグループを両者が協力しなければ克服できない共通の敵を、「上位目標」として設定することでした。実はしかし、そのような状況をつくり出すのは研究者の得意とするところだそうです。キャンプ内の水道設備が故障したことにし、いじくりまわした犯人は外部の者だと思うと少年たちに伝えました。水道設備全体を検査する必要があり、両グループの少年たち全員がかり出されました。また、食料を運ぶトラックが故障し、動かなくなってしまうという設定もありました。しかも上り坂なため、全員の力を合わせなければ引き上げることができません。研究者たちは少年たちを今までの慣れたキャンプ地、ラトラーズとイーグルズが戦いを繰り広げたそのキャンプ地から別の湖の近くのキャンプ地へと移動させました。最後には、第二段階での激しい交戦状態は危なげながらも休戦状態に移行しました。しかしもしラトラーズの一人が間違ってイーグルズの一人の足を踏んだり、もしくはイーグルズの一人がうっかりラトラーズのスポーツドリンクをこぼそうものなら、一触即発、両者はすぐに交戦状態へと舞い戻ってしまったことでしょう。

ロバーズ・ケイヴでの研究チームを率いていた社会心理学者ムザファー・シェリフにノーベル賞が授与されることはありませんでした。もっとも、心理学や社会学はノーベル賞の対象にはなりません。とはいえ、彼の研究は今もなお心理学や社会学の参考書に例証として掲載されつづけているそうです。この実験は繰り返されることはありませんでした。第一危険すぎますし、その必要もなかったからです。シェリフの研究は見事にその目的を果たし、説得力にも富んでいました。何人かの少年でグループを形成し、集団同一性を養えるだけの十分な時間を与えた上で、彼らが「われわれのもの」と認識している領地の支配を競う別の集団の存在を知らせると、必然的に集団間には敵対感情が生まれるようです。

とはいえ、後進の研究者たちに託された仕事もあります。もし時間が足りずに少年たちが集団同一性を養うことができなかったらどうなるでしょうか。争うべき領土がなければどうなるのでしょうか。オクラホマの南東部の大自然の中でシェリフたちは、石のつまったソックスは言うまでもなく、蛇、蚊、ウルシなどへの対処に追われましたが、その後の追跡調査は安全で快適な研究室内で行なわれたそうです。

社会心理学者へンリー・タジフェルの実験の被験者はイギリス、プリストルの学校から選抜された14歳と15歳の生徒たちでした。タジフェルの研究室で彼らは八人ずつのグループに分けられましたが、その前から彼らは皆互いに面識がありました。研究室では「視覚判断」テスト、すなわちスクリーン上に点の集合を点減させ、各集合ごとの点の数を当てるというテストが行なわれました。与えられた課題をこなした後、点の数を多く見積もる傾向のある人と少な目に見積もる人がいることが少年たちに告げられました。その後、もっともらしく彼らの結果表が「採点」され、少年たちは一人ずつ別室に呼ばれ、自分が過大評価グループと過小評価グループのどちらに属するのか個別的に知らされました。実際にはこの振り分けは無作為に決められ、半数が過大評価グループに、残り半数が過小評価グループに振り分けられました。ドット・テストの結果はなんら関係なかったのです。

ふたつのグループ” への9件のコメント

  1. 「何人かの少年でグループを形成し、集団同一性を養えるだけの十分な時間を与えた上で、彼らが「われわれのもの」と認識している領地の支配を競う別の集団の存在を知らせると、必然的に集団間には敵対感情が生まれるようです。」これがつまり人間の本性とも言える、ある一側面と理解して差し支えないでしょうか。そういった性質を理解して、例えば人材を管理するような仕事、マネージメントなどが行われているのではないかと察します。人の心理に基づいた上で成り立つ組織というものが強固である理由がわかるような気がします。同時に、人の心理、人の進化に基づいた保育に揺るぎがないこともまた理解するに至ります。見守る保育Fujimori methodが受け入れられる理由に触れるようなこの度の内容です。

  2. 何はともあれ、オクラホマで行われた実験によって死者等が出なかったことは幸いでした。第三項の存在がこれまでの二項関係を緊張や葛藤から協調や協力へと結びつける可能性が高いことがわかりました。もっとも、二項関係がオクラホマ実験的なものであれば、確かに、ちょっとしたはずみで一触即発の事態を招いたことでしょう。やはり今回も「われわれ」と「かれら」という構図で事態の推移を伺う、私たちホモ・サピエンスの特徴を垣間見たような気がします。「敵対感情」。平和な闘いであるスポーツも時にサポーター等の集団を暴徒化させることがあります。2割の働かないアリを潰そうとする「われわれ」「かれら」は確かに存在しています。ここでは「働かないアリ」として認識されていても、別組織であったり別グループでは立派な働きアリになる可能性もあるでしょう。決めつけずに、臨機応変、柔軟に、事にあたっていきたいものですね、集団として。

  3. この研究結果によれば、有事の際はどれだけ敵対している集団同士でも、生存に関わることであれば力を合わせることは可能ですね。しかし、そのように一時的に団結や協力ができたとしても、目的が果たされ、問題が解決してしまえば、その団結もそう長続きはしないのではないでしょうか。今日、世界では様々な国同士が争い、歪み合っていますが、SF小説や映画のように人類全体に対する敵が出現した場合は、このラトラーズとイーグルズのように手を取り合い、団結をするのでしょうね。悲しいことですが、人類全てが団結するのには、それに対する脅威が出現するしか方法がないように思えてきます。

  4. かつて、幕末に薩摩と長州の手を結ばせた坂本竜馬は幕府を倒すということではなく、もっと大きな欧米に対抗するためにだということをこの2つの藩に説き伏せたのだと記憶しています。いがみ合っていたお互いがどちらも危機に瀕してしまうと途端に団結するというのは歴史的に見ても証明されているようですね。
    そして、この集団同一性を巧みに利用した薩長同盟で明治という新しい世の中がはじまり、今につながっていることを考えると、これは人間の本能の側面の一つになるのでしょうね。

  5. このような集団のなかで見られるような人の持つ特性
    性質となるものを見いだす実験というものには、危険が隣り合わせにあるのですね。人の持つ、集団の中に入ると、
    他集団に対して敵対感情が生まれる、こうしたものは、子どもたちに見られる仲間意識の強さからも改めて感じることがあります。人はなぜ集団を作るのか、そして、集団同士で争うのか、こうしたことを紐解いていくことの実験が、ホモサピエンスがどのように生き抜いてきたかにつながるきっかけにもなっているのでしょうね。

  6. 「集団同一性を養えるだけの十分な時間を与えた上で、彼らが「われわれのもの」と認識している領地の支配を競う別の集団の存在を知らせると、必然的に集団間には敵対感情が生まれるようです。」とあります。これが研究の結果であることがわかります。その集団が無数に存在していたのが人類なのでしょうね。そしてそれが人類の本能であるようですね。また「この実験は繰り返されることはありませんでした。第一危険すぎますし、その必要もなかったからです」ともあり、確かに危険性が伴いますし、死者が出なかったことがすごいことですね。集団の在り方として集団のコントロールについて考えさせられます。

  7. 「上位目標」を設定する事で、いわゆる共通の敵を作り出す事で、敵対していた集団が必然的に協力することになる。確かにそうかもしれませんね。よくアニメなどで、敵対していた者同士が、自分たち以上の力を持った存在が現れる事で、協力してその存在を相手するという、ありがちなシーンがあります。子どもながらに、そういうシーンを見て興奮していたのを思い出します。ドラゴンボールなんかは、まさにそうですね。
    そんな2つのグループの実験で過大評価と過小評価で分けられた場合はどうなるのか?個人的なイメージで、過小評価された方は過大評価された方に対して、やはり良いイメージというか、キャンプ同様に敵対心を持ちそうな気がします。

  8. この実験から見ても、人は協力と争いという相反する両面を持っているということがわかります。「集団同一性を養えるだけの十分な時間を与えた上で、彼らが『われわれのもの』と認識している領地の支配を競う別の集団の存在を知らせる」とあります。仲間という利他性とわれわれのものという利己性、どちらも人間としての本質であり、生物としての本質なのかもしれませんね。そして、二つの集団をまとめるためには協力しなければいけない目標や目的があることでまた、まとまることができる。こういった昨日の敵は今日の味方というのはこれまでの歴史でもたびたび起こったことだと思います。人は敵がいないとまとまらない。これからのグローバルな社会で人がまとまっていくにはどうしていくことが必要なのでしょうか。大きな戦争がなくなって久しいですが、まだまだ、紛争はなくならないです。しかし、そのテロのために国同士が協力し合っている側面もあります。災害において、国難に陥った国を助け合うような国の協力もあります。そう考えると国連など国際機関はとても大切な集団なんだなと改めて感じます。

  9. 『敵対した二つのグループを両者が協力しなければ克服できない共通の敵を、「上位目標」として設定することでした』とありました。なんとも考えさせられるような内容です。これと似たことというのは多くの人が経験していることではないでしょうか。敵という対象を作ることで、集団が団結する。噂話などはこのようなことを強化するためにもあったりするのかもしれませんね。「われわれ」という意識がうまれるということでしたが、このような意識は集団を形成するうえでは必要な性質なのでしょうか。だとするとそれは敵対というよりも集団の結束のために必要な意識ということになるのでしょうか?

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