人間行動

ラトラーズとイーグルズは以前の生活を脱ぎ捨ててキャンプに参加したわけではありませんでした。彼らは皆熱心に教会に通う家族の一員であったことから、両集団でも食事の前に祈りを捧げる習慣が自発的にはじまったのです。両集団はいがみあっていたにもかかわらず、ラトラーズがイーグルズに野球で勝った後には、「イーグルズの健闘に万歳三唱」をしました。敗者にエールを送るのはまさにオクラホマの学校の伝統だったのです。新しい集団が形成されるとき、メンバーたちはまずメンバー間の共通点を探り、大概はそれを生かしつづけます。

小説家に社会心理学者になれとは言わないまでも、彼らには人間行動のよい観察者になってもらいたいとハリスは言います。彼女は、ゴールディングは間違っていたと言うのです。それは、集団暴行など存在しないと言っているのではないと念を押しています。集団が個人を襲撃して、殺害することも時にはあるでしょう。しかし一般的に被害者は、彼らのうちの一人として設定されます。集団内では権力闘争やいじめが横行するかもしれませんが、こうした内輪もめは、敵となる可能性を秘めた別の集団が登場すると見られなくなるのです。ゴールディングの架空の島でも本来ならそのように展開したはずだと言うのです。グループ内ではそれぞれメラネンアの子どもたちのように平和で、グループ間ではラトラーズとイーグルズのような状況だったのではないかと言うのです。コールディングの小説に唯一欠けていたのは、窮地を救ってくれる指導員の存在だったのです。

言語学者・S・ハヤカワは「われわれが何かに名をつける時、われわれは分類している」と言っています。人やものを分類する、カテゴリー化する、分別する、仕分ける、言い方はいろいろありますが、これらはごく日常的な行為です。私たちの脳はそうするように創られているとハリスは言います。もの、動物、人をどう扱うか、それを個別に学ぶのでは効率が悪いので、カテゴリー化します。たとえば対象を「車」「牛」さらには「政治家」というようにカテゴリーに分類すれば、あるものに関して学んだことをそれと同じカテゴリーに属する他のものにも適用できます。後に政治家となった日系アメリカ人のハヤカワは、カテゴリー化にひそむ危険性を懸命に説きました。「牛1と牛2は違う」ように、「政治家1と政治家2は違う」のです。

ハヤカワは「ウォーフの仮説」と呼ばれている理論を信じていました。それは、「万事をカテゴリーに分けるあり方はまったく恣意的であり、カテゴリーに名前をつけることで物事を特定の方法で分類・整理できるようになる」というものです。ハリスは、この理論は真実を含んでいなくもないと言います。ヘンリー・タジフェルがブリストルの少年に、例の「過大評価」を知らせたとき、少年の頭の中でタジフェルの研究室に入る前には存在しなかった新しいカテゴリーが設定されたのです。

もっとも心理学の「法則」の多くがそうであるように、ウォーフの仮説もまた、いつでも誰にでも当てはまるものではなく、当てはまることが多いとさえも言えないとハリスは言います。

集団性

社会心理学者へンリー・タジフェルは、こんな実験をしてみたそうです。お互いに面識のある14歳と15歳の生徒たちを二つのグループに分け、「視覚判断」テストをしました。その後、結果によって、二つに分けられたのですが、その振り分けは無作為に決められたものでした。ドット・テストの結果はなんら関係なかったのです。

このニセ情報を与えられた後が本当の実験でした。少年たちはそれぞれ独立した小部屋に座らされ、配布された「報酬表」を記人するよう指示されました。何人かのクラスメートに関して、本実験に参加した報酬としていくらが妥当かを判断するのです。クラスメートは番号と属するグループだけで表記されています。たとえば、自分は過大評価グループに属すると知らされた少年は、「61番、過大評価群」、「74番、過小評価群」にはそれぞれいくらが妥当か、複数の選択肢から選ぶことになります。そこで選択した数値は自分自身の報酬にはいっさい影響せず、そのことは手順の説明時にもはっきりと告げられていました。

少年たちには、どの同級生が自分と同じ群で、どの生徒が別の群なのかはわかりませんでした。自分が報酬金額を査定しようとしている相手が誰なのかわからないのです。それにもかかわらず、彼らは自分の属する群の他のメンバーの方により高い金額を指定したそうです。別の群のメンバーには低く見積もり、自分と同し群のメンバーには高く見積もる傾向が認められたそうです。

この実験はタジフェルの言う「集団性」がいかに簡単に生起するかを示しています。同じ集団のメンバーと以前から友好関係にある必要もなく、また別集団のメンバーと以前から葛藤関係にある必要もありませんでした。争奪しあう領地も必要ありません。容姿や行動に目に見えるような違いがある必要もありません。誰が自分と同じ集団に属しているのかを知る必要もありません。タジフェルは最後にこう締めくくっているそうです。「明らかに、差別的な行為を誘発するには、集団に分けるということだけで十分なのです」

研究者が介人する間もなく、人間は瞬時にいくつかのグループに分かれます。ラトラーズをロバーズ・ケイヴのキャンプ地に送迎するはずだったバスが、ある乗車地に遅れて到着しました。その乗車場所で30分近く待たされた4人は、バスが到着したときにはすでに集団性らしきものを養いつつあったそうです。バスの中でも隣同士に座り、キャン。フでも「俺たち南町チームは一緒でいいですか」と頼んできたそうです。南町チームと残りのメンパーたちは、ガラガラへビとの遭遇やテント設営に力を合わせなければならなかった経験を経て、ようやく数日後にまとまりを見せたそうです。

『蠅の王』で合唱団がはじめて登場した場面では、彼らはジャックを先頭に列を成して行進していましたが、皆「銀色のバジのついた四角い帽子」をかぶっていました。島に流れ着くことになった飛行機事故が発生するまで彼らが通っていたのはおそらく上流階級向けの全寮制の学校だったに違いありません。1950年代には、そのような学校に通うのはまさに鼻もちならない生徒ばかりでした。彼らは言葉の訛りや学校指定のネクタイや帽子などでお互いを認識し、地元の公立小学校に通う少年たちを見下していました。ところがゴールディングの架空の島では、階級別に少年たちが分かれることはありませんでした。同じ学校に通う者同士でさえ行動をともにしませんでした。島に漂着する以前の生活の痕跡はきれいに消え去り、同じ合唱団のメンバーも二度と声を合わせることはなかったのです。

ふたつのグループ

敵対した二つのグループを非競争的な状況で一緒にさせるという方法を取ろうとしたのですが、彼らの敵対心は全く解消されませんでした。最後の方法は、敵対した二つのグループを両者が協力しなければ克服できない共通の敵を、「上位目標」として設定することでした。実はしかし、そのような状況をつくり出すのは研究者の得意とするところだそうです。キャンプ内の水道設備が故障したことにし、いじくりまわした犯人は外部の者だと思うと少年たちに伝えました。水道設備全体を検査する必要があり、両グループの少年たち全員がかり出されました。また、食料を運ぶトラックが故障し、動かなくなってしまうという設定もありました。しかも上り坂なため、全員の力を合わせなければ引き上げることができません。研究者たちは少年たちを今までの慣れたキャンプ地、ラトラーズとイーグルズが戦いを繰り広げたそのキャンプ地から別の湖の近くのキャンプ地へと移動させました。最後には、第二段階での激しい交戦状態は危なげながらも休戦状態に移行しました。しかしもしラトラーズの一人が間違ってイーグルズの一人の足を踏んだり、もしくはイーグルズの一人がうっかりラトラーズのスポーツドリンクをこぼそうものなら、一触即発、両者はすぐに交戦状態へと舞い戻ってしまったことでしょう。

ロバーズ・ケイヴでの研究チームを率いていた社会心理学者ムザファー・シェリフにノーベル賞が授与されることはありませんでした。もっとも、心理学や社会学はノーベル賞の対象にはなりません。とはいえ、彼の研究は今もなお心理学や社会学の参考書に例証として掲載されつづけているそうです。この実験は繰り返されることはありませんでした。第一危険すぎますし、その必要もなかったからです。シェリフの研究は見事にその目的を果たし、説得力にも富んでいました。何人かの少年でグループを形成し、集団同一性を養えるだけの十分な時間を与えた上で、彼らが「われわれのもの」と認識している領地の支配を競う別の集団の存在を知らせると、必然的に集団間には敵対感情が生まれるようです。

とはいえ、後進の研究者たちに託された仕事もあります。もし時間が足りずに少年たちが集団同一性を養うことができなかったらどうなるでしょうか。争うべき領土がなければどうなるのでしょうか。オクラホマの南東部の大自然の中でシェリフたちは、石のつまったソックスは言うまでもなく、蛇、蚊、ウルシなどへの対処に追われましたが、その後の追跡調査は安全で快適な研究室内で行なわれたそうです。

社会心理学者へンリー・タジフェルの実験の被験者はイギリス、プリストルの学校から選抜された14歳と15歳の生徒たちでした。タジフェルの研究室で彼らは八人ずつのグループに分けられましたが、その前から彼らは皆互いに面識がありました。研究室では「視覚判断」テスト、すなわちスクリーン上に点の集合を点減させ、各集合ごとの点の数を当てるというテストが行なわれました。与えられた課題をこなした後、点の数を多く見積もる傾向のある人と少な目に見積もる人がいることが少年たちに告げられました。その後、もっともらしく彼らの結果表が「採点」され、少年たちは一人ずつ別室に呼ばれ、自分が過大評価グループと過小評価グループのどちらに属するのか個別的に知らされました。実際にはこの振り分けは無作為に決められ、半数が過大評価グループに、残り半数が過小評価グループに振り分けられました。ドット・テストの結果はなんら関係なかったのです。

生まれる感情

こんな実験をしてみたそうです。以前の面識はない22名の少年たちを二つのグループに分け、それぞれ別々に、キャンプへと送られました。少年たちは自分たちで名づけた「ラトラーズ」と「イーグルズ」の二つのグループの存在をお互いに知らされていませんでした。一週間が経ったところで、それぞれの存在を知らせて競争心をあおり、その結果を観察することになっていました。ところが、少年たちは研究者のはるか先を進んでいたのです。なんと、両集団がお互いに直接遭遇する前から両者は敵対心を露わにしたのです。はじめてラトラーズが、イーグルズが遠くで遊んでいる声を耳にしたとき、彼らは「あいつらを打ち負かしてやりたい」と思いました。そして少年たちはしきりに直接対決を望みました。大人たちの介人なしに少年たち自身に生まれた感情です。研究者たちはスケジュールどおりに事を進めることに必死で、介入する暇もなかったのです。「第一段階」は集団内行動についての調査になるはずで、集団間竸争は「第二段階」で調査する予定だったのです。

第二段階で用意されていたのはサマーキャンプではよくある行事ばかりでした。両グループ対抗で野球、綱引き、宝探しなどを行ない、賞品を競います。指導員たちはまさに本物の指導員のように振る舞いました。ただし、できるだけ目立たぬよう、必要なときにだけ介入するよう心がけました。事態はまもなく一気に進行します。両グループがはじめて野球大会で公式に顔をあわせたときから、ラトラーズとイーグルズの間で中傷合戦が繰り広げられたそうです。ゲーム開始前にラトラーズが自分たちの旗を野球場に掲げました。野球場全体が「われわれのもの」であることを主張したかったのです。試合後、負けたイーグルズはその旗を引きずり降ろし、燃やしてしまったのです。ラトラーズは憤激し、まもなく指導員たちが止めに入ったそうです。

事態はさらに悪化していきます。ィーグルズが綱引きに勝ったその夜、ラトラーズが彼らのキャビンを襲撃したのです。べッドをひっくり返し、蚊帳を破り、さまざまなものを盗みましたが、その中にあった一本のジーンズが彼らの新しい旗となったのです。一方ィーグルズは思い切って昼間に襲撃し、彼らのキャビンを荒らして仕返しをしました。その時間帯にラトラーズはキャビンにいないはずでしたが、万が一のためにと棒や野球のパットを持参しました。自分たちのキャビンに戻るとさらなる奇襲に備えるため防衛手段を整えました。靴下に石をつめたり、投げつけるための小石をバケツいっぱいに集めました。子どもたちは単なる戦争ごっこに興していたのではありませんでした。短期間のうちに中傷合戦から殴り合い、石の投げ合いへと発展していったのです。

第二段階が終わり、第三段階に進めるようになったとき、研究者たちがどんなにほっとしたか容易に想像がつくとハリスは言います。その第三段階では敵対意識をなくし、いがみ合う両グループを一つの平和な集団にまとめる試みが予定されていました。ところが人々を分裂させる方が一つにまとのめるよりもはるかに簡単でした。はじめに研究者たちが試みた、彼らを非競争的な状況で一緒にさせるという方法では、彼らの敵対心は全く解消されませんでした。ラトラーズとイーグルズが一緒に食事をとると残飯の投げ合いがはじまり、食堂は戦場と化したのです。残された道はただ一つ、両者が協力しなければ克服できない共通の敵を、「上位目標」として設定するしかありませんでした。

別集団

ゴールディングが小説「蠅の王」で描いた少年たちの行動は、ハリスは間違っていると主張しています。ゴールディングはイギリスの哲学者トマス・ホッブズ同様、文明なき生活は私利私欲を追求する冷酷な社会、自分の身は自分で守る、人のことなどかまっていられない社会だと考えました。モンタギュ一はフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーのように、文明なき生活はしかと運営されたヒッピーのようなものだと考えました。全員が仕事を分担して食料を分けあい、花の香りを楽しむ余裕のある生活を想像しました。ハリスは、この四人とも間違っているというのです。正しかったのはダーウインだというのです。「隣接する地域に住んでいる部族どうしはほとんど常に戦争状態にある」と彼は言いました。それでもなお「野蛮な人間でも自分の命をかけて同じ集団のメンバーを守る」とか、「社会的本能は、同種に属するすべての個体に拡張されることは決してない」と言っているのです。人間を殺し好きと見るか、それとも慈悲深いと見るか、利己的と見るか利他的と見るかは、人間のどの行動を見るか、同じ集団内の仲間に向けた行動か、それとも別集団のメンバーに向けた行動か、によって異なるというのです。

もし実際に二十数名の学童を自然環境の中に送りこみ、自活を強いたらどうなるのでしょうか。1954年、『蠅の王』が出版されたその同じ年に、オクラホマ大学の研究チームがその解明に乗り出しています。周到な準備のもとで行なわれた集団関係の調査です。

正確には被験者数は22名で、できるだけ等質になるよう意図的に選抜されました。彼らは皆プロテスタントの家庭で育った11歳の白人の少年たちでした。IQも学業成績も平均か平均より上でした。眼鏡をかけている者、太っている者はいません。問題を起こしたことのある者もいません。皆が地元出身者で同じオクラホマ訛りがありました。さらにそれぞれ皆、オクラホマ・シティ内の異なる学校から選ばれ、実験以前の面識はありませんでした。

この同質の22名の少年たちは11名ずつの集団に分けられました。それぞれ別々に、オクラホマ州南東部に位置する緑深い山岳地帯に拡がるロバーズ・ケイブ州立公園のボーイスカウト・キャンプへと送られました。

少年たちは三週間のサマーキャンプに参加するつもりでいましたし、実際それはサマーキャンプでした。このキャンプが他のキャンプと際立って違っているところは何もありませんでした。「指導員」たちは実際には変装した研究者で、彼らは少年たちの言動を内密に観察、記録していることがばれないよう細心の注意をはらいました。

少年たちが自分たちで名づけた「ラトラーズ」と「イーグルズ」の二つのグループの存在を知らされていませんでした。彼らは別のバスで到着し、同じ食堂で食事をとりましたが、時間がずれていましたし、使用するキャビンもキャンプ場のそれぞれ別のところに位置していました。研究者たちの計画では、一週間ほどはキャンプ場に自分のグループしかいないと少年たちに思いこませ、一週間が経ったところで、それぞれの存在を知らせて競争心をあおり、その結果を観察することになっていました。競争意識は敵対意識へと発展するはずでした。ところが、少年たちは研究者のはるか先を進んでいたのです。

少年たちの行動

ゴールディングがノーベル賞を受賞した小説「蠅の王」の中の、いくつかの間違いをハリスは指摘しています。その中でも最も重大な間違いは、少年たちが殺し合いをはじめたその経緯だと言います。間違っているのは殺し合いをはじめたという事実ではなく、その経緯なのです。少年たちには、ラルフとジャックという二人のリーダーがいました。ゴールディングの粗略な象徴化の下でラルフは法と秩序を、ジャックは凶暴性と無秩序を象徴していました。少年たちは一人ずつ説きふせられジャック陣営に迎え入れられていきます。残るはラルフ、ピギー、そして変わり者のサイモンだけになりました。そのうちサイモンが殺され、ピギーも殺されてしまいます。そして暴徒がまさにラルフを捕らえようとしたそのとき、間一髪、大人たちがやってきたのです。

この話の筋道に異論を唱えたのはハリスがはじめてではないそうです。反戦的で反本能的な考え方について言及したアシュレイ・モンタギューは、すでに1970年代に『蠅の王』が非現実的であることを、実際に起きた事件を引き合いに出して訴えました。その事件とはメラネシアの子どもたちが六、七名、ある島に数カ月間取り残され、それでもお陰様で仲よく暮らすことができたというものでした。モンタギュー版の『蠅の王』では、最後に大人たちがやってきて審判を下す際に放つ言葉は「君たちはイギリス人なのだろう?イギリス人子弟ならば、もっとまともに対処できたはずだ」ではなく、「お見事!よくやった!」となっていたことだろうとハリスは言います。

ところがそのモンタギューも間違っていたとハリスは指摘しています。メラネシアの子どもたちを引き合いに出したことは公平さに欠けていたというのです。彼らは幼なじみで、まるで大家族のきょうだいのようにつきあっていたのです。しかも人数はわずかに六、七名と少ないのです。それに引き換え、ゴールディングの架空の島には二十数名の少年たちがいて、しかもその多くはお互い面識がなかったのです。

ハリスは、こう問いかけています。「もしあなたが長いつきあいのある人々と面識のない人々と一緒に島に取り残された場合、あなたはすでにつきあいのある人と行動をともにすることになるでしょう。しかしゴールディングの小説ではすでに顔なじみであった少年たち―島に漂着する前までは、ジャ,クが率いた学校のコーラス部に所属していた少年たちは、まもなく四分五裂の状態となり、中にはラルフ側につく者さえいたのです。」

現実の世界ではそうはならなかったはずだとハリスは言います。ジャック率いるコーラス部のメンバーはジャックと団結し、残りがラルフの下に結集する。もしくは月謝の高い全寮制の学校出身者が地元の公立小学校出身者と別行動をとる。いずれにしても戦闘の必須条件である二つの集団が形成されたはずです。殴り合いの喧嘩や流血沙汰を引き起こすことはあっても、それは集団対個人ではなく、集団対集団となっていたはずだというのです。

ゴールディングはイギリスの哲学者トマス・ホッブズ同様、文明なき生活は私利私欲を追求する冷酷な社会、自分の身は自分で守る、人のことなどかまっていられない社会だと考えました。一方モンタギュ一はフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーのように、文明なき生活はしかと運営されたヒッピーのようなものだと考えました。全員が仕事を分担して食料を分けあい、花の香りを楽しむ余裕のある生活を想像しました。ハリスは、この四人とも間違っているというのです。

迫害から賞賛へ

ジュディス・リッチ・ハリス(Judith Rich Harris)はアメリカ合衆国の心理学者ですが、新しい考え方を提案するには、かなりの困難があったようです。とくに、いわゆる神話と呼ばれるほどに多くの人、特に大学の教授たちの抵抗は大きかったようです。彼女の論文「独創性と独立性」を発表したときに、当時ハーバード大学の心理学部長であったジョージ・ミラーは、ハーバードの基準に合わないとして、ハリスを博士課程から除籍したのです。しかし、その後、彼女は、1994年に、子どもの発達について、家族よりもピアグループと呼ばれる同年代の友人、また仲間たちとの関係に焦点を当てた新しい理論を提唱しました。この理論は、基礎心理学における傑出した著作として1995年にアメリカ心理学会から除籍した当の本人を記念したジョージ・ミラー賞を受賞することになるのです。

彼女の論をもう少し読み進めてみたいと思います。彼女は、ここで小説「蠅の王」を例に出しています。私はこの本は少年の特性の一部分を表した小説の中で、ベスト3に数えられるほどかなり衝撃を受けました。映画化にも2度なっていますが、私はその2本ともネットで見ています。この小説は、ウィリアム・ゴールディングがノーベル賞を受賞した1954年の小説です。内容は、ジュール・ヴェルヌが1888年に発表した少年向けの冒険小説で、無人島に漂流した少年達が力を合わせて生活していく物語です。話はそれますが、この本にも思い出があります。かなり長い本ですが、私が小学生の時に、その本に夢中になって、食事もそこそこその本を読みふけっていました。休みの日も、昼から部屋に閉じこもって読み、私の母親から、「そんなに本ばかり読んでいないで、少しは外に遊びに行きなさい!」と言われても無視して読んでいたため、その本を窓から隣の家の屋根の上に放り投げられた思い出があります。今でしたら、本を読んでいると褒められるのでしょうが。

話しはそれましたが、「15少年漂流記」は、ある島に漂流した健全な少年たちが描かれていますが、「蠅の王」は、全く逆で子どもの残虐性を描き、悲劇的な最期を迎えます。この本の内容を、ハリスはこう描いています。「20数名のイギリス人学童たちが熱帯の島に漂流し、自活を強いられる話だ。気候もうららかで食料も豊富、大人もいなければ、宿題もない。それなのに、彼らは心から楽しめない。髪が後ろで結べるくらいに伸びたころには殺し合いがはじまっていた。」

ハリスは、少し前に人類と全人類の殺伐とした歴史について述べています。その内容からすると、この小説の文明なき生活のゴールディング版解釈をハリスは是認するかと思いそうですが、彼女は、はっきり是認しないと述べています。それよりも、ゴールディングの解釈は間違いだらけであるとも言うのです。

実際、彼は心理学的なこと以外にも、たくさんの間違いをしでかしているとも言います。小説の中に少年たちが火をおこそうと眼鏡を使って日光を一点に集める場面がありますが、その眼鏡はピギーという名の子どものもので、彼は近視なのです。火をおこすことができるのは、遠視の矯正に使われる拡大鏡だけなのです。ゴールディングが小説の中で「ちび助たち」と呼ぶ幼い少年たちは、一日じゅう年上の少年たちには見向きもせず、自分たちだけで遊んでいます。しかし実際には年齢の低い少年たちは数歳上の少年が大好きで、たとえ乱暴に扱われても後をついていくものだというのです。また。ピギーには下層階級特有の訛りがあり、そのハンディキャップを負うのは彼だけでしたが、島の生活が何ヵ月もつづいた後でもその訛りは消えていません。実在する少年であれば、それだけの間に仲間と同じしゃべり方を身につけたはずだとも言うのです。

ハリスの考える進化12

ケロッグ夫妻がチンパンジーを「文明的な環境」で育てていたとき、彼らはグアを進化に反する環境に放りこんだことを認識はしていたそうです。しかし、彼らは考えもしなかったでしょうが、ドナルドとグアはともにアフリカの森林や草原地帯で生活することを前提として生まれてきたのであって、壁紙で覆われた壁や屋内排水設備の整ったインディアナ州の家で育てられるものとして生まれてきたのではないのです。子どもたちがリモコンの取り合いをしているのを見て、あれが昔からある人間性なのかと思いこむのは間違いなのです。

私たちの先祖は過去600万年間を、最後のわずかな期間を除き、狩猟採集民族として小さな遊動集団を形成して生活してきました。彼らは危険な環境に打ち勝ち生き延びることに成功としてきましたが、その環境の中でももっとも危険だったのが敵対関係にあった集団だったのです。狩猟採集民の子どもたちの生活は、親の生存よりも集団の存続に委ねられていました。仮に親を亡くしても、集団が存続していれば、生き延びることもできたのです。離乳後は、親に属するだけではなく、彼らの将来はいかに親に愛されるかではなく、集団内の他のメンバーといかにうまくやっていくかにかかっていたのです。特にこれからも一緒に生きつづけることになる自分と同世代のメンバーとのかかわりは重要なのです。

子どもの心、すなわち現代の子どもの心は、これら600万年間の進化の歴史によってつくりだされたものなのだとハリスは言います。では、その子どもの心が社会的な行動にどう反映されるのでしょうか?

全国私立保育園連盟の広報「保育通信」に、愛着について遠藤利彦さんが連載をしています。2018年10月号は、その第11回でした。そこには、こんなことが書かれてありました。

「ある縦断調査のデータを分析した一つの研究によれば、母子関係よりも最初の保育者とのアタッチメントの質が、子どもたちが小学生、中学生、高校生になった時に、学校の先生や他の仲間とどれくらいうまく、楽しく集団生活を営めるかに強く関係していたという結果もあります。人の幸福のかなりの部分は、集団生活をいかにうまく送ることができるかということにかかっていると言われることがあります。そうした意味で、最初期の保育者とのアタッチメントは、人の生涯にわたる土台形成に深くかかわっているといえるでしょう。ここで、もう一点、忘れてならないのは、こうした家庭外での保育者との関係性は、保育所の中で、複数の同年代の仲間との関係とともにあるということです。じつは、現在、ジョン・ボウルビィのアタッチメント理論を現代的に再考しようという向きが強まってきているのですが、その急先鋒の一つに、ジュディス・リッチ・ハリスによる集団社会化理論という考え方があります。」

まさに、私が最近読み進めている本の著者であるハリスで、その内容について彼女の考え方をもう少し詳しく知ろうということでブログに今年の7月4日から連載をしているのです。それは同時に、私が考えていることと近いものを感じているからです。

ハリスの考える進化11

最後の理由は親子間の利害の衝突だとハリスは言います。進化生物学者ロバート・トリヴァーズが指摘するように、親にとって最適なことが子どもにとって最適であるとは限らないのです。離乳がその一例だと言います。母親は次の子どもをつくりたいと願い、離乳を試みますが、子どもにしてみればいつまでも母親のおっぱいを飲みつづけたいし、次の子どものことなんてどうでもいいのです。トリヴァーズはこの利権争いこそが下の子が誕生したときに上の子が赤ちゃん返りを起こす原因だと言っています。幼いサルにも同じ現象が確認されているそうです。親の関心は優先的に一番下の子、もっともかよわい子どもに向けられることから、赤ちゃんのように振る舞うことで親の関心を引こうとするのです。最も切実さを訴える演技ができた子どもが一番先に親の関心を得ることができるのです。

親の利害が子どもの利害と一致しないケースは他にもあると言います。親は、娘には家で老後の世話もしくは兄の子どもの子守をしてもらいたい、もしくは婚資を多く支払ってくれる年配の富豪と結婚してもらいたいと願いますが、娘の考えは別にあるかもしれないのです。トリヴァーズは子どもがとるべき手段は自分の利権を行使する機会をうかがいながらも、親との良好な関係を保ちつづけることだと結論しているそうです。

科学史研究家のフランク・サロウェイは彼の著書『生物の社会進化』の中でこんなことを言っているそうです。

「役に立つ情報を知ることが望ましいが、親が公平に教えてくれる当てはない。親による操作の中には、前もって作られたプログラムによって対抗できるものもあるが、無防備なものもあると考えられる。親が自分勝手な強化方法(罰と報酬)を用いて子供を操作し、子供にとって一番の利益になるよう行動させないなら、子供はそんな強化計画に反抗するようになる。子供は初めは従うかもしれないが、同時に自己利益を表現するための代わりの手段を探し求めるだろう。」中嶋康裕他訳産業図書)

彼の言うとおり、親子間の葛藤はつまるところきょうだい間の葛藤となります。子どもはそれぞれ分け前以上に家族の富を欲し、親はその富を最も有効に利用できるよう配分します。だからこそきょうだいとは生まれながらにしてダーウイン的な生存競争に巻きこまれたライバル同士なのだとサロウェイは言うのです。彼がきょうだい関係の見本とするのがカツオドリです。カツオドリはヒナの中で一番体格のいいヒナが親の関心をめぐる競争を低減するために一番小さなヒナをつつき殺すのだそうです。

とはいえ、私たちはカツオドリからは大きく進歩しました。より学ぶべき点が多いきょうだい関係の見本といえば、近縁のチンパンジーだと言います。ジェーン・グドールによると、同じ母親から5、6年の間隔(この種では一般的な出産間隔)で生まれた二頭のオスのチンパンジーは、子どもの頃は遊び仲間としての関係を、成長してからは盟友関係を築きます。弟がまだ小さい頃は、兄はやさしく彼を守るそうです。二人が成長するに従い、遊びも乱暴になります。いつかは弟が兄の支配に抵抗するときが来ますが、その事態が解消されると、二頭はもとの友好関係に戻るそうです。こうした友好関係はオスのチンパンジーにとってはたいへん重要だそうです。他のオスとの支配闘争の際にお互いを助け合うことになるからだと言います。霊長類の間では、「大きい兄ちゃんに仇とってもらうからな」というのはまんざら脅しだけではないのだとハリスは言います。

ハリスの考える進化10

第二の理由は多様性だと言います。親とまったく同じ子どもをつくり出すのなら、クローンが最も手っ取り早いと言います。実際その方法に頼る植物、動物もいます。クローンはたいへん効率がいいのです。ノアももしクローンにより増殖する種ばかりを方舟に乗せていれば、その時間は半分ですんだはずだと言います。何しろ一種に一体あれば十分なのだからです。しかしクローンで生まれた個体はきょうだいたちとまったくそっくりで、一体を死にいたらせるもの、たとえば有害な微生物などはすべての命を奪うことになりかねないと言います。卵子と精子の結合ごとに遺伝子の組み合わせが異なる有性生殖が編み出されたのは、多様性に富む子孫を残すためであり、それが大型生命体が彼らを苦しめた微生物よりも優位に立つことを可能にしたのだったのです。しかしながら、子孫間におけるばらつきは他にも利点があると言います。多事多端な時代にあっては、ある子孫が新しい状況に適応して生き延びる可能性を生み出します。多難な時代であれば、家族が生存できる生態的地位を増やすことになるのです。時代の善し悪しにかかわらず、家族内でのばらつきはより広範囲にわたる技術や知識の基本層の拡がりを可能とし、それは家族全体にとって有益となるというのです。

ノアが方舟に乗せた他の動物たちのように、人間もどのように行動するかという特徴の多くを親から受け継ぎます。もし親が遺伝的にだけでなく、環境的にも影響を及ぼすのであれば、子どもたちは親に酷似しすぎることになり、それは子ども同士が酷似しすぎることにつながってしまうのです。まるで小さなクローンであるというのです。

子どもは親によって。プログラムされるという考え方が進化に反するという第三の理由は、子どもは必ずしも親を当てにできないということだとハリスは言います。今日、シングル・ペアレントの元で育てられる子どもたちの行く末が案じられ、神聖なる契りを交わした二人が両親であった50年前の古きよき時代と比較されます。しかし異性同士の両親が揃っていることは、私たちの先祖の時代でも当たり前のことなどではなかったそうです。人類学者ナポレオン・シャノンは、ブラジルとベネズエラの熱帯雨林に生息するアマゾンのインディオのヤノマミ族では、10歳の子どもが生物学的な両親と同居する割合は三人に一人であることを報告しているそうです。結婚の20パセントはダメになってしまうとシャノンは推測しているそうです。ヤノマミ族の離婚率は比較的低いのですが、代わりに死亡率が高いそうです。部族社会では、親を亡くすと子どもが生き延びる可能性は低減しますが、決してゼロにはならないそうです。もし学ぶべきものを学ぶために親が必要だというのであれば、親を亡くすということは先祖の時代では死活問題であったはずだというのです。