専門家

私たちの社会の子どもたちは、何をどのように行なうべきなのか、自分の行動のどこが間違っているのかに関する説教を延々と聞かされます。言葉による説明も、言葉によるフィードバックも文字のない社会ではめったに見られません。メキンコのシナカンテコ族では女の子は年配の女性が織物をする様子を観察して、織り方を身につけます。北アメリカの人はこのような指導法ではうまくいかないだろうとハリスは言います。アメリカのある大学生はシナカンテコ族の「師」との体験について次のように語っているそうです。「年配のシナカンテコ族の女性であるトニクから馬用の革帯の織り方を教わりはじめた頃、私は日に日に不安を募らせていった。その二カ月もの間、私からすれば見ているだけ、彼女に言わせると教えていたというのだが、その間私は一度も織機を触らせてもらえなかった。彼女は何度もわかりにくい技術的なことを口にし、ある作業を終えると“私がやって見せたのだから、もうできるね”などと言う。私は大声で叫び返したかった。“いや、まだだ。私はまだ自分で試してもないのだから”と。しかし織機に触れてもいいかどうかを決めるのは彼女の役目だった。そして私がはじめて織機を使ったときのぎごちなさを見て、彼女は“この能なしが!きちんと見ていなかったからわからないのさ”と言うのである。」

文字のない社会では、生きていくための知恵のほとんどは模倣を通して学習されます。親や兄姉が雑用をこなす姿を見て、それを真似ます。間違ってしまえば、幼ければ周囲から笑われ、年長になってからだと非難され、罰せられます。正しく真似ることができれば、そのご褒美としてその雑用の担当に任ぜられることになるのです。

なんらかの罪を犯しているのではないか、自分の行為が子どものもろく小さな心に成長後にも跡を残すような影響を及ぼすのではないか、などとは思わない方が育児は楽です。しかしそれは親にとっての話だとハリスは言います。子どもからすると、親がそのように思ってもそうでなくても、五十歩百歩なのです。文字のない社会では親は自分の子どもにひどい仕打ちをします。それは文字のある社会でも同じことです。いずれの社会でも親は自然の流れに従って子どもを育てているつもりなのです。いずれの社会でも、現に親は自分の属する文化もしくはサブカルチャーによって規定されたルールに則って子どもを育てています。私たちの住む文化では、規定されたルールの中に「専門家の言葉に従う」というものがあるのです。

母親としてハリスが最も胸を傷めた思い出は、上の娘が三歳のときの出来事だそうです。それは彼女が保育園に人園した初日のことだったそうです。彼女はおとなしく、いくぶん臆病なところのある子どもで、親から離れて家の外で過ごすのはそのときがはじめてでした。彼女を保育園の教室に連れていくと、しばらくしたところで彼女が他の子どもたちの遊びに興味をもったのか、ハリスから離れていきました。するとすかさず先生が来て、その場を離れるようハリスに指示しました。「彼女は大丈夫だから」とその先生は言ったのです。その言葉に従いハリスが教室から出た途端に扉が閉められました。するとハリスの娘さんが扉をどんどん叩きながら泣き叫ぶのが聞こえたそうです。先生が娘に何か話しかけているのが聞こえましたが、娘はドアを叩き、泣きつづけていたそうです。ハリスは教室に戻りたかったのですが、先生に阻止されました。ハリスは自分の子どもが激しく泣き叫ぶのをひたすら聞くことしかできず、娘同様につらい思いをしたのでした。

専門家” への9件のコメント

  1. 「シナカンテコ族の「師」との体験」について、遠い時代の話でなく現代でもこのような例はいくつも見受けられるように思います。個人がそういった形で仕事や役割を伝承しようとする時、それはまるで文字のある社会に生きているにも関わらず、文字のない社会に生きているような技法を用いているということで、受け手はそこに矛盾や時代感覚のずれを感じてしまうかもわかりません。
    「母親としてハリスが最も胸を傷めた思い出」子育てをしていると胸を傷めるような出来事があったりします、最近はそれを改善していく日々を共に送るパートナーのようで、手前勝手ですが、息子たちに頼もしさを感じています。

  2. 「年配のシナカンテコ族の女性であるトニクから馬用の革帯の織り方を教わりはじめた頃、私は日に日に不安を募らせていった」とあり、その心情は非常によく理解できます。私が過去に経験したバイトの中に、職人気質的なものがあり、その教え方がまさに見て覚えろ的なものであったからです。私はそういった職人気質的なものは好きなのですが、細かく聞くこともはばかれる状況においては、かなりのプレッシャーになるということ体験しているので、人によって仕事を模倣して学ぶというのはかなりの苦痛を伴うように思えます。特に伝統的な社会においてはそれが当然なことであり、それによって社会の中での人としての価値が決まってしまうような気がしています。「生きていくための知恵のほとんどは模倣を通して学習されます」というのは伝統的な社会では当然のことであり、それは私たちの社会でも通じるものはありますが、よくよく考えてみると非常にシビアな部分もあると感じました。

  3. 〝文字のない社会では、生きていくための知恵のほとんどは模倣を通して学習されます〟とあり、赤ちゃんも同様に文字のない社会で模倣により学習していて、時には「シナカンテコ族の師との体験」のような経験をすることもあるのでしょうか。だとするなら、赤ちゃんはなかなか難しいことをやってのけているのだな思いました。
    「相手の視座に立つ」ということが、このように体験談を通して書かれてあると分かりやすいものであるんですね。今後から赤ちゃんへの対応やかける言葉など、厳しくなりすぎていないかなど、気にしながらしていかなければならないなと思いました。

  4. 何か具体的な技術を習得して実用することの難しさ。丁寧に教えてもらえれば・・・と感じながら部活の一員として悩みぬいた高校時代を思い出しました。「この能なしが!きちんと見ていなかったからわからないのさ」というきつい言葉を浴びませんでしたが、ニアリーイコールな言動に接し、ほぼ心が折れた経験を思い出しました。言葉があってもなくても「シナカンテコ族」であったことは現代日本の中でもあることでしょう。ブログ最後のハリス女史の辛い経験。これまた、思い出してしまいました。わが子を自分が園長を務める園に入園させた時のことを。園長室は2階にありました。そして息子の保育室の入り口を出て見上げると私のいる部屋が見えます。息子が部屋で何かがあったのでしょうね。保育室の入り口を出て私の部屋を見上げる子の姿を目にしたことを思い出しました。目にしただけで、あとは切り替えました。その後2年ほど同じ園で父子共々過ごしました。先生たちも相当気を使ったことでしょう。

  5. 見て学ぶ、子ども集団ではとても重視される環境なのですが、それがごく自然に集団の中で行われているとなれば、
    教えるのではなく、見よう見まねで、伝承されていく、なんだか、背中をみて学ぶとか師匠の技を盗むというジャンルに近いものを感じました。”いずれの社会でも親は自然の流れに従って子どもを育てているつもり”とあり、親は、こうするのが正しいと思いながら子育てを行っているという考えながらでもありつつ、しかし、親の主観が入りすぎたり、流されていることが多いことを改めて感じました。

  6. シナカンテ族の師との体験は、師弟の関係ですね。文字のない社会、それこそ人類の祖先はそういした環境の中で、何とか伝えたり、教わる方も見て学ぶ事が必須であり、模倣ができないと人類は絶滅してきたかもしれません。赤ちゃんの模倣は人類が受け継いできた遺伝子であると思うと、感慨深く思います。
    ハリスの苦い思い出は、子を持つ親からすると必ず経験することではないでしょうか。確かに保育園に預けて、まだ慣れていない時は去っていく自分の姿を泣きながら見ている我が子を見るのは辛い気持ちになります。しかし、先だからといって親は園に子を預けた以上何もできません。先生を信じて、任せるしかありません。それが子を安心させる唯一のことのような気がします。

  7. 「文字のない社会では、生きていくための知恵のほとんどは模倣を通して学習されます。」とあります。子どもたちはそれを自然と行っているようにも感じますね。見て学ぶというのはやり大切ですが、興味を持って「やってみる」というのも同時に大切なような気がしますね。それは専門家の懐の深さも関係してきそうですが。最後にあるハリスの胸を痛める思いというのは最近経験しています。ハリスのような別れ方はしていませんが、逆の立場を経験しているし以上なにも言えませんね。

  8. この内容は気を付けなければいけない内容ですね。自分自身も最近これと似たようなことで悩んだので、とても考えさせられます。しかし「自分の行為が子どものもろく小さな心に成長後にも跡を残すような影響を及ぼすのではないか、などとは思わない方が育児は楽です。」と思うことは今の社会だからこそ、そう考えていた方がいいのかもしれません。保育者であっても、ちょっとしたいつものルーティーンが変わることを恐れる人がいます。しかし、その一日変えたところで子どもに大きな影響はありません。むしろ、楽しいほうをとったほうがかえっていいように思います。自分自身が生真面目なところがあるのですが、保育においても「まぁまぁ、そこまで気にせず」と思わなきゃと思うことが多分にあります。何事も適した「適当」を身につけたいものです。

  9. 私は割と文字に頼っているのかなと読んでいて思いました。しかし、シナカンテコ族の教え方も分かります。まだ言葉を介さない子ども同士、言葉を介すことができる子ども同士でもこのような模倣の仕方をして遊びを深めたり、園での生活を円滑に進めていくための伝承を行なっているように思います。文字が生まれたことで、その文字に頼ってしまうだけではなく、文字だけでは伝わらないものというのが確実にあるように思います。現代では、もしかするとそういった部分の伝承がうまくいっていない部分もあるのかもしれませんね。最後のハリスの娘さんとのエピソードはこれから私が経験することでもあります。その時、自分がどんな感情になるのか、いや、耐えられるのかですね笑。

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