きょうだいの関わり

新たな赤ちゃんが生まれるころには、二歳半から三歳になる上の子は母親の腕の中から永久に追放され、その新しく生まれた赤ちゃんが注目の的になります。追放された子を、たいていは年上のきょうだいが面倒を見ることになります。多くの場合、そのきょうだいは彼が追放したすぐ上の兄や姉であり、その子自身五歳か六歳くらいです。兄や姉は自分が近所の子どもと遊ぶときには、弟や妹を引き連れていきます。近所の遊び仲間というのはその子のきょうだい、異母きょうだい、いとこ、若いおばやおじであったりします。伝統的な社会のほとんどでは、家々が集団にまとめられ、その集団内では皆が親戚だったのです。

歩けるようになったとはいえ、子どもたちの遊びの輪に入れてもらえた年少の子はあらゆる点でまだ赤ちゃんです。母親の腕を独占できていた期間は活発で社会性に富んだ生活を送り、身体的な面でも十分世話されていましたが、その間に教えられたことは皆無に等しかったのです。伝統的な社会で生きる親は、赤ちゃんに意識がある、もしくは言われたことを理解する力があるとは考えないのです。そのため、親は子どもに話しかけようともしないし、しゃべり方を教えようともしません。結局、二歳半か三歳までに子どもが獲得する言葉は限られてしまいます。その数は北アメリカの同年齢の子どもと比べるとはるかに少ないのです。発達心理学者ジェイムズ・ユーニスは、多くの社会では子どもが言葉を獲得しはじめると途端に親の子どもへの関心が薄れるという現象はアメリカの中流階級の考え方に照らすと、いかに奇妙に聞こえるかを指摘していたそうです。

二歳半の子どもは、はじめは遊びの輪に積極的にかかわることはできません。年長の子どもたちがどのような遊びに興じているかにもよるそうですが、生きた人形として参加させてもらったり、見るだけであったり、入れてもらえずに泣きべそをかくこともあります。すっかり仲間に入れてもらえるようになるのは、三歳か三歳半になってからのことです。ドイツの動物行動学者イレネウス・アイ・ブル=アイベスフェルトは次のように語っているそうです。

「三歳児になると遊びの輪に仲間入りするようになり、このような遊びの輪の中でこそ子どもは真の意味で育てられる。年長の子が遊びのルールを説明し、他人の物を取り上げたり攻撃的になったりするようなルールを守れない子には注意をうながす。最初は年長の子も年少の子に対してたいへん辛抱強く接するが、徐々に年少の子の行動を明確に制限するようになる。子ども同士で遊ぶことで、何が他人を怒らせ、どのルールに従うべきかを学習していく。これは人々が小さな集団を形成して生活する文化のほとんどに共通する現象である。」

ここでも、子ども集団の重要性、また、異年齢での子ども同士の意味が示されています。とりわけ男の子は、仲間と過ごしてばかりで、家庭で過ごす時間はごく少ないとあります。沖縄本島のある小さな田舎の村では、五歳の息子が日中帰宅したのはご飯のときだけで、しかも友だちが待っているからとご飯をかきこんであわてて飛び出していった、と研究者にこぼしていた母親がいたそうです。また年長の子どもに家畜の見張りをまかせているアフリカの村では、年少の子が年長の子の後を追い、大人の目の届かないところで、退屈な仕事も遊びへと一変します。

きょうだいの関わり” への7件のコメント

  1. 伝統的な社会というものを、これからもその形を残そうと思えるのは、かつて日本がそうであったその時代がやはりとてもいい時代であったということなのだと思えてきます。情報化社会や本格的なメディア革命が起きている現代に、過去にあった良き時代の要素が加わることでもっと日本は豊かになっていける、その為に伝統を見直し、また、子育てや保育の本質を見直して、新しい時代へと恐れずに着実に足を踏み入れようということなのだと思いました。

  2. 丁度、我が家が3番目が産まれたこともあってこの兄弟の関わりで悩んでいる真っ最中なので、非常にタイムリーな内容です笑
    夫婦共に追放というような意識はないのですが、次男にとってはそれに近いものを感じているのかもしれません。そしてまさにその次男の面倒を長男が見てくれたりもするのですが、そこの関係がなかなか上手くいかず、日々悩んでおります。子育ては面白くもあり、本当に難しいですね・・・
    ただ、見守る保育に出会ってから、いかに子ども集団が重要であるかは理解をしているつもりですし、実際にイレネウス・アイ・ブル=アイベスフェルトの語っているような姿は自園の子どもたちの姿の中にも見ることができます。兄弟、そして異年齢の子ども集団など、それらを含めた子ども同士の関わりが充実したものであれば、子どもは親の心配などを他所にしっかりと成長していくのでしょうね。

  3. 母親から強制退位させられた子どもの受け入れ先というかその後の安全基地はやはり、きょうだいの中に入ることであるのですね。ですが、初めは人形のように扱われることもあるということで、それを大人が見てしまうとついつい口を出してしまいそうですが…なかなか過酷な環境であるように感じました。
    読んでいて、我が家のきょうだいを振り返ると、兄があまり弟の世話をしていないような気がします。みていて一緒に遊んでいることがほとんどですが、それでもいいのかもしれないと思えました。

  4. 何だか半世紀前の自分のことが思い出されて仕方がない今回のブログ内容でした。「二歳半の子どもは、はじめは遊びの輪に積極的にかかわることはできません。・・・生きた人形として参加させてもらったり、見るだけであったり、入れてもらえずに泣きべそをかくこともあります。」この部分を読みながら、4歳年下の妹のことを思い出しました。私と弟についてくる妹。ヨチヨチ歩きの妹は私兄弟にとって足手纏い。それでも必死についてくる。私たちは自分たちの遊びで精一杯。兄の私は決して妹の面倒をみたりしません。何とも酷な兄ですね。そうしたきょうだい間で育った妹は逆境を乗り越え逞しくなり、やがてヤンキー的青春を過ごし、二十歳前で妊娠出産。バツイチバツニを経て今や50代。もう何年も会っていませんが、新しい彼氏と元気で暮らしているようです。終わりよければすべてよし。やれやれ・・・。レベルの低いコメントになりました。申し訳ございません。

  5. “多くの社会では子どもが言葉を獲得しはじめると途端に親の子どもへの関心が薄れるという現象はアメリカの中流階級の考え方”とあり、もっと関心が深まるように思えるものでも、社会的文化の違いには、赤ちゃんの世話、子育てとは、こうあるべきだという刷り込みから生まれた伝承された子育て論が根付いていることを感じます。年上の子が年下の子を世話するというのには、私自身の経験にもあり、
    6歳離れた妹をよく遊びに連れていっていた、というよりついてきていたということか当たり前の光景にありました。
    そんななかで、妹は、様々な集団的ルールを学んでいたと思うと、異年齢で生活する意味を感じます。

  6. 前半の内容を読む限り、伝統的社会での欠点までとは言いませんが、赤ちゃんに対する印象が「何もできない」と理解しているため、言葉も教えないし、話しかけないというのは、伝統的社会では限界かもしれませんが、ただ3歳児頃から子ども集団の中に入ることで、年長児からルールを教わり、そして自然と言葉も覚え、社会でのルールをここで学んでいくというのは重要な期間ですね。日本でも赤ちゃんは何もできない存在だから、大人がやってあげないといけないと思い込んでいる人がいると思いますが、そうして育てられた赤ちゃんが2歳頃から集団を意識し始めた時期にまだ、大人との関係を続けていては結局、社会を学ぶ時期が過ぎてしまいます。子どもにとっての集団の大切さを、もっと重要視しなければいけませんし、それに気づかせる必要があると思いました。

  7. イレネウス・アイ・ブル=アイベスフェルト氏の話している内容を見ると実際にきょうだいがいる園児たちのことであることがよくわかります。また自分自身が三兄弟の末っ子であったため、その気持ちが非常によくわかります。以前家族が揃うときがあったときに「おみそね」と言って私がきょうだいの遊びの中で入ったつもりで遊んでいたことを振り返って笑っていました。ただ私なりにその社会の中を楽しみ、集団でいることの楽しさを知りました。実際に経験をしているとその大切さもわかることからやはり、目の前の子たちにはそういった環境を用意してあげたいなと感じますね。

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