親の関心

サロウェイによると、第一子は幼少の頃から現状にどっぷりつかることを覚えてしまうと言います。親とうまくいかないなど、サロウェイが列挙するその他の理由がないかぎり、第一子は反逆しようなどとはまるで思わないのです。分け前以上の恩恵を受けてきた既存の仕組みをあえて崩そうなどとは思わないというのです。親から与えられるもの、その最も顕著な例が親の関心ですが、それをすべて真っ先にもらえるのが第1子なのです。親のお気に入りでありつづけるためには、「はい、ママ」「はい、パパ」と言ってさえいればいいのです。こうしてご機嫌とりの役割は第一子がすでに独り占めしてしまっているため、年少のきょうだいは家族の中で別の役を見つけ出さなければなりません。こうして反旗を翻すのが第二子以降の役目となるのです。成人してからの第二子以降はサロウェイの言う「異端的(正統的の反対語として)」なものの見方に傾倒しやすくなります。

このような説明に納得がいってしまいます。なるほどと思わせるものがあります。しかしハリスは、フランク・サロウェイの考えに偏見をもってしまっていると言うのです。なぜなら、ハリス自身が異端的なものの見方をするとされている第一子だからです。サロウェイ自身は第二子以降で、第一子に対して手厳しいと言います。彼の著書の中で第一子は、自分勝手で、偏屈で、嫉妬深く、頭が堅く、攻撃的で傲慢な性格として描かれています。カインは第一子であると、サロウェイは何度も指摘しています。彼は明らかに自分をアベルと同一視しているのだとハリスは言います。よく考えてみると、私も第1子ですから、ハリスと同じ印象を持ちます。どうも、身の回りの当てはまる例から判断してしまうことがあるようです。

サロウェイはエルンストとアングストが取りあげた研究をふたたび検討し、別の結論、それも自分の仮説を裏づけるような結論を導きました。しかし、ハリスは、この再分析は説得力に欠けているように思っています。サロウェイは、エルンストとアングストが大がかりな研究を行なったことや、そこでは注目すべき作用は何も見つからなかったことにはいっさい触れていないということを指摘しています。とりわけ彼らは第一子と第二子以降での意思疎通性に違いを見いだしてはいなかったことには触れていないとも言います。

出生順位による作用はちらっとは目に入りますが、目を凝らして見ると見えなくなる、そんなものであるとハリスは言うのです。その作用が何度となく結果として現われるのは、たんに人々がそれを求めつづけ、その結果が現われるまでデータを分析、再分析しつづけたからにすぎないというのです。出生順位の作用は、最近の大規模な研究よりも、古く測定数の少ない研究にしばしば出現しますが、最も頻出するのは、被験者の親やきょうだいが被験者の性格を評価する場合だと言います。

親の愛情も関心も均等に配分されるものではありません。サロウェイはその点では正しかったかもしれません。彼の本では、二人の子どもをかかえる母親の三分の二は、一方の子どもを偏愛している、特に目にかけていることを研究者に対して認めているという研究結果が紹介されています。ところが彼は、これら偏愛する母親の大多数がより関心をいだき、より愛情をもって接しているのが、下の子であると言っていることについては触れていないようです。この結果は後続する同様の研究でも裏付けられました。その研究ではははおやと父親の双方が面接を受けていますが、そのおよそ半数が一方の子により愛情を注いでいることを認めています。そのうち、母親の87パーセントと父親の85パーセントが下の子にとりわけ関心をいだいていたそうです。