状況に応じて

子どもたちは、就学前の幼い子どもたちでさえ、ある性格から別の性格への切り換えが非常に上手です。おそらくこの年代の子どもたちは、年齢的に上の人よりも簡単にそれをこなしているのではないだろうかとハリスは言います。彼女は、四歳児がままごとをしているときの会話を例に出しています。

ステフィー:(いつもの彼女の声でカイトリンに向かって)私がママね。

ステフィー:(気取ったママの声で)はいはい、赤ちゃん。ミルク飲んでいい子にしてましようね。

ステフィー:(小声で)ミルクを嫌がるふりをするの。

カイトリン:(赤ちゃん声で)ミルク、イヤダ!

ステフィー:(気取ったママの声で)かわいい赤ちゃん、きちんと飲みましようね。体にいいんだから。

ステフィーは一人で三役を演じています。作者兼プロデューサー、演出家、そして主役のママの役。彼女はその三役を演じ分け、それぞれに違う声を与えているのです。

ステフィーは円筒型の木製のブロックを埔乳ビンに見立ててカイトリンに飲ませようとしています。発達心理学者たちはこうしたごっこ遊びに関心を抱いています。行動としては高度で象徴的であるにもかかわらず、驚くほど早い時期、二歳前には子どもたちの間で見られるようになるからです。ごっこ遊びをするようになる時期を早める、もしくは遅らせる環境的な要困については多くの論文で述べられているそうです。当然、その焦点は母親の役割におかれています。母親が幼児の空想の世界に一緒につきあった場合には、その空想がますます高度化されることが研究によって明らかにされているそうです。

しかしそこには落とし穴があったとハリスは言います。子どもの遊び研究を専門とするグレタ・ファインとメアリー・フライヤーはそれらの研究を再考した結果、次の結倫に達したそうです。幼い子どもたちは確かに母親と一緒に遊んでいるときにはより高度な遊びをしますが、「遊びが洗練されていくことに母親がかかわっているという仮説を裏づける証拠は何もない」そうです。母親が子どもに手のこんだ空想の世界を演じるようはたらきかければ、子どももそれはできます。しかし、その後子どもが一人もしくは友だちと遊ぶときの遊びが、母親とどのような遊びをしたかによって違ってくることはありません。

他の発達心理学者たちはこの結果に反駁したそうです。ファインとフライヤーはそれらの反論に対して「幼い子どもたちの生活において大人の保育者がどれだけ重要であるか、そのことをみくびるつもりはまったくなかった」とし、親は全能であるという「信念がそれほどまでに深いものである」とは思いもしなかったと説明しておきながら、それでも自説を固守しました。母親が子どもの遊びを左右するのは、子どもが母親と遊んでいるときだけ。証拠がそれを物語っていると言います。「立てた仮説が成り立たなければそれを放棄するか、変えるかすればよい」とファインとフライヤーは勧告しています。それにハリスは同感の意を表明しています。

状況に応じて” への9件のコメント

  1. 「一人で三役」何気なく見ていた子どもたちのごっこ遊びも、なるほどこのような視点で捉えることで、その高度さを理解することができます。そういった視点は流石研究者の持ち得る目だなと思いながらも、そのような視点を得る為に日々の学びの積み重ねが必要であることを痛感します。何より、そのような視点で子どもたちを見る方が出来、保育をすることができたならその楽しみは何倍にも膨らむことでしょう。学びが人生を豊かにするということと繋がるように思えました。

  2. 〝母親が子どもの遊びを左右するのは、子どもが母親と遊んでいるときだけ〟とあります。ということは、みている時というのは、影響を与えないということですね。むしろ、与えてしまうとその子の世界に入り込んでしまうかたちになってしまうのだと感じます。入り込んでしまうと余計なお世話であったり、しようとしていることを止めてしまうことになりかねませんね。
    母親であるという使命感、責任感がそのようなものとして現れてしまうことは分かります。困ったら声をかけてくる、分かんなかったら聞いてくるなど子どものことを信じて、応答的に関わってあげることが求められていることを感じました。

  3. このように深く子どものごっこ遊びを見ることにより、様々な仮説が持てるのですね。確かに、子どもたちのごっこ遊びを見ていると、見ているだけでは、〇〇ごっこというカテゴリーになりますが、会話や話を利くと、随分と、細かい内容設定がしてあることがわかります。現場にいると、日常的な、ように感じますが、子どものもつ特徴が見られていることを考えられます。母親が手のこんだ働きかけをしたからといって”子どもが一人もしくは友だちと遊ぶときの遊びが、母親とどのような遊びをしたかによって違ってくることはありません。”とありました。と、すると、子どもがごっこ遊びをする際には、相手との見た情報を共有させながらとか、自ら見て感じた、という形があるということのように考えられました。

  4. 母子育児神話の崩壊を読みながら感じました。保育界に入って以来、お母さんが大事、とか母子関係とか、とにかく、保育の世界は母子大好き、そんな印象を受けていました。しかし、子どもは「一人もしくは友だちと遊ぶときの遊びが、母親とどのような遊びをしたかによって違ってくることはありません。」そうです、如何に母親が子どもの遊び相手になっていても、子どもにとってその時の母親はおそらく、遊び相手以外の何物でもない、ということなのでしょう。楽しく遊んでくれる人、勝ち負けが決まる遊びなら決して子どもを負かすことのない母親の親切心。子どもは気持ちが良いでしょう。それは決して悪いことではないのでしょうが、子どもの社会的生を考えるなら、やはり不安ですね。今の時代、共依存という悪癖を避けるようにしなければなりません。その意味でも、子どもは子どもとして存在し、大人である私たちは子どもの存在を必要に応じて支持していくことを役割として課せられているのかもしれません。

  5. 一人3役まではいきませんが、自分自身も似たような遊びをしていたのを、何と無く覚えています。それと似た光景を長男がしています。ウルトラマンやロボットなど自分が好きな人形などを並べて互いに会話をしながら遊んでいるのです。時々、息子に誘われて一緒に遊ぶことがあります。それによって高度になっているのかどうか分かりませんが、ハリスが言うように変わっていないようにも思います。いくら高度な遊びを提供したとしても、ごっこ遊びや人形遊びの場合は子ども独自の世界観があり、私はそれに勝るものは無いように思います。

  6. 「作者兼プロデューサー、演出家、そして主役のママの役。」という三役というのはなかなか高度ですね。その遊びの中でいくら高度だとしても「子どもが一人もしくは友だちと遊ぶときの遊びが、母親とどのような遊びをしたかによって違ってくることはありません。」とあるようにそこにはあまり関連は見られないのですね。ごっこ遊びを見る限りすでに頭の中ある世界を作ろうと必死になっている姿をよく目にします。その世界観をまずは想像できる環境も大事なのかと感じます。

  7. 『母親が子どもの遊びを左右するのは、子どもが母親と遊んでいるときだけ。証拠がそれを物語っていると言います。「立てた仮説が成り立たなければそれを放棄するか、変えるかすればよい」とファインとフライヤーは勧告しています』とありました。子どもへの関わり方についてどうすれば想像力が育まれるようになるのか〜というようなことを悩んでおられる人の話を耳や目にすることがありますが、そういう部分では親の役割というのはあまり意識しすぎないでいいのかもしれませんね。また、立てた仮説が成り立たなかった時の対応も考えさせられますね。自分の考えに固執せずに、考えを変えれる人に自分もなりたいと思います。

  8. 「母親が子どもに手のこんだ空想の世界を演じるよう働きかければ、子どももそれはできます。しかし、その後子どもが一人もしくは友達と遊ぶときの遊びが、母親とどのような遊びをしたかによって違ってくることはありません。」このことは「指導」ということを論じるときに非常に重要な内容であるように思います。大人が子どもたちを導いたところで、それが「身につくのかどうか」です。すべて先生が入ってしまうと、結局子どもたちは一人になると活動はしなくなるかもしれませんね。よく言われる「引き際」というところを含めてかんがえなければ子どもの遊びが「子どもの世界」として取り入れられないのではないかと考えています。やはりその姿勢は「見守る」という子どもと大人の距離感が重要になってくるように思えてなりません。

  9. 「遊びが洗練されていくことに母親がかかわっているという仮説を裏づける証拠は何もない」や「子どもが一人もしくは友だちと遊ぶときの遊びが、母親とどのような遊びをしたかによって違ってくることはありません」とありました。ここでも家庭内、家庭外のように子どもたちの中での線引きがあるように感じられましたし、親に教えてもらうことと親以外の他者に教えてもらうことは全く別物であるように思えます。親は子どもにとって重要な存在であることは間違いないが、全能ではないことを忘れてはいけませんし、全能と言えない部分を子ども集団であったり、地域で補っていくものだと感じました。

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