母親と一緒の時

ハリスはこんなことを言っています。「ママと一緒に何かを学習するのも結構だが、乳児はそこで覚えたことを別の状況に自動的にもちこむわけではない。これは賢い生き方である。なぜなら、ママと学習したことは他の状况では通用しないかもしれない、あるいは通用しないだけではすまされないかもしれないからだ。」それは、子どもの遊び研究を専門とするグレタ・ファインとメアリー・フライヤーが、幼い子どもたちは確かに母親と一緒に遊んでいるときにはより高度な遊びをしますが、「遊びが洗練されていくことに母親がかかわっているという仮説を裏づける証拠は何もない」といったことを受けえの発言です。ハリスはこの説に同感の意を表明していて、こんな例を呈示しいてます。」ここに一人の赤ちゃんがいる。仮に名前をアンドリューとしよう。アンドリューの母親は、出産後の数カ月ではめずらしいことではないが、出産後の鬱状態に悩まされていた。アンドリューの授乳とおむつかえには支障はなかったが、彼と遊んだり、彼に微笑みかけたりはあまりしなかった。生後三カ月ともなると彼自身にも鬱の症状が現われた。母親と一緒にいるときの彼はあまり笑わず、同月齢の赤ちゃんほど活発ではなかった。彼は沈痛な表情を浮かべ、動きも緩慢だった。幸いなことにアンドリューは四六時中母親と一緒だったわけではない。彼は託児所にも通っており、そこの保育者は鬱状態ではなかったのだ。託児所の保育者と一緒にいるアドリーはよく笑い、活動的で、まったく別の赤ちゃんのようだった。」

この例にみられるように、鬱状態の母親をもつ赤ちゃんに頻繁に見られる沈痛な表情や緩慢な動きは「鬱状態にある母親とのやりとりの中に限って見られる特徴である」とアンドリューのような赤ちゃんを調査した研究者は話しているそうです。

社会的な状況が変われば、行動も変わります。この現象は少し大きくなった乳児、よちよち歩きをはじめた幼少児においても確認されているそうです。母親が質問用紙に記人したところによると、幼児の家での行動と保育所での行動観察もしくは保育者への聞き取りによって得られた行動を調査したところ、研究者たちは子どもたちの行動が一致しないことに気づいたのです。「幼児が実際にどう行動するかは、家の中か保育所かという状況によって体系的に違ってくる」とある研究者は認めているそうです。先日私の園に入園した園児が、母親が心配するような行動は園では見られず、全く問題がないことが報告されていました。たしかに、子どもの行動は置かれた環境によって違ってくるようです。

母親とのやりとりで身につけたことが保育園での仲間集団でのつきあいには役に立たないのは当然としても、きょうだいとのやりとりで身につけたことならきっと他の状況でも通用するのではないだろうかと思います。ハリスも最初はそう思っていたそうです。しかし考えなおしてみると、仲間とのつきあいはまっさらな状態からはじめた方がうまくいくのではないだろうかと考えるようになったそうです。家では年下の弟を支配している子も保育園のクラスの中では一番小さいのかもしれません。一方、常に支配されている弟は自分のクラスでは一番大きくて強いかもしれません。このことについてある研究チームは次のように話しているそうです。

「きょうだい関係における個性がそのまま仲間関係にもちこまれるという証拠はない。…自分よりも年長のきょうだい相手に従属的な地位に数年間甘んじてきた第二子でさえ仲間同士では支配的な役割に就く場合もある。」

母親と一緒の時” への6件のコメント

  1. あの人はきょうだいの一番上だから、下だから、とその人の性格を肯定する為にきょうだい関係が引き合いに出されることもあるかもわかりませんが、逆を言えばその人は「きょうだい関係における個性」を他の場、その個性が通用されない場で用いたが故にそのように揶揄されてしまったのかもわかりません。先日の社会的自我の考え方からすればそれは様々な社会で見せるべき顔が未発達な状態なのかもわからず、様々な社会で生きていくことの生きにくさ、生き易さはその人が学ぼうとする姿勢によって変わるものなのかもしれません。

  2. 母親と一緒の時やきょうだい、友だちなどいわゆる別々の顔を持っているのは〝乳児はそこで覚えたことを別の状況に自動的にもちこむわけではない。これは賢い生き方である〟ということであり、以前あった「別の状況では通用しないと分かっている」ことから現れてくるのだと今更ながら感じました。
    確かに、きょうだいの上か下かで「こんな性格」と決めつけてしまうところがありますが、家と園や学校では真逆なこともありえますよね。例えに同感しました。

  3. “「鬱状態にある母親とのやりとりの中に限って見られる特徴である」”ということを考えていくと、赤ちゃんは、その場の環境に大きく、影響をうけ、順応していくことと、また、その柔軟な環境に対する赤ちゃんの動きには、常に自らがその環境のなかでの必要性であろう行動をとっていたのだろうと思いました。なによりも、子どもたちが現在ある環境には、家庭と家といった二つの集合体のなかで、自らの立場を理解し、その環境に応じた姿が見られいるのだと思いました。

  4. 母親といる時には母親から疎まれないように、そして兄弟といる時は、兄弟における自分の位置を確認して立ち居振る舞いをするように、子どもとはどうやら自らの周囲環境に順応するようにできている、ということがわかりますね。私たち人類とはそもそもそうした存在なのかもしれません。鬱状態の母親を持つ子は、母親の状態がわかるのでしょう。自らも「沈痛な表情や緩慢な動き」をする。何か健気な赤ちゃんが見えてきます。生存戦略なのでしょうが、母親を困らせないように頑張って「沈痛な表情や緩慢な動き」をしているのでしょう。ところが環境が異なれば態度も異なる。「託児所の保育者と一緒にいるアドリーはよく笑い、活動的」だった。おそらく、母親に合わせているとその子自身が鬱になってしまうかもしれませんが、託児所という別環境においてアンドリューちゃんはおそらく本来持っている面を表出したのでしょう。子どもとは、実に健気な存在ですね。

  5. 母親と一緒の時と、一緒ではない時の行動が赤ちゃんが変えているという事に驚きます。社会的状況が変わる、環境が変わることで行動が変わってくるというのは、ずっと藤森先生が言われている事とまさに一緒ですね。母親の影響、そして兄弟の影響、個人的には育ちに関係あると信じていましたが、そこまでの影響は無いようですね。子どもは家庭と外で自分を使い分けているという最近のブログから納得していますが、だからこそ園という環境は重要な空間になってくると思いました。

  6. 「自分よりも年長のきょうだい相手に従属的な地位に数年間甘んじてきた第二子でさえ仲間同士では支配的な役割に就く場合もある。」という最後の文ではある意味自分とも重なる部分でもありました。実際三兄弟の1番下で甘やかされていたにも関わらずその関係を仲間とは違う関係になっていたことを思い出します。不思議なものですね。この文を読む前までは親との関わりからお友だちとの関係へと繋がっていくという固定概念が消えました。

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