多重人格

家の中では、いじわるな継母、姉たちに囲まれて育ったシンデレラにとっては、狭い家の外は別世界だったでしょう。家の外にはシンデレラを侮辱する人も、奴隷のように扱う人もいなかったし、自分が美しくなることで友だちを得ることができるとも知ります。後に妖精の名づけ親と呼ばれるようになる近所のやさしい女性とも知り合います。姉たちが舞踏会でシンデレラに気づかなかったのは、たんに装いが普段と違っていたからではありません。シンデレラの立ち居振る舞い、顔の表情、姿勢、歩き方から話し方までがまるで別人だったからです。姉たちはシンデレラの家の外での顔を知りません。そして王子はというと、当然シンデレラの家での顔を知りません。だからこそ靴を落とした女性を探し求めてシンデレラの狭い家に立ち寄ったときにも彼女に気づかなかったのです。舞踏会でのシンデレラはまさに魅力的でした。素養に欠けるとは思ったものの、それは簡単に矯正できるだろうと王子は判断したのです。

シンデレラの二つの顔の話は、まるで《イブの三つの顔》の主人公のような「多重人格者」の話なのかと勘違いするかもしれません。イブが普通と違っていたのは、彼女が複数の性格をもち合わせていたからではなく、またそれぞれの性格が全く異なっていたからでもありません。イプがかかえていた問題は、彼女の異なる性格が予告なしに出没をくり返し、それぞれの記億がつながっていないことでした。

性格が二つ以上あるのは異常なことではありません。小説家へンリー・ジェイムズの兄ウィリアム・ジェイムズはそれを指摘したはじめての心理学者でした。100年以上も前に、ウィリアムは正常な思春期の男性および成人男性に見られる多重人格性について次のように説明しています。

「正確に言えば、一人の人は、彼を認識してその印象を心にいだく個人の数だけ社会的自我を持っている。…ただし、彼に印象を心にいだく人々は自ずといくつかの種類に分けられるため、彼が自分についていかなる印象をもっているかと気にかけている人々は、いくつかの集団に分かれることになり、実際にはその集団に数だけ異なる社会的自我を持つと言えよう。彼はこれら異なる集団に対し、それぞれ自分の異なる一面を出す。親や教師の前では端然としている青年でも、自分の「荒々しい」若い友人の前では海賊のように威張りちらす者が少なくない。われわれも子どもとクラブ仲間、得意客と自分が雇用する労働者、自分の主人や雇い主と親友、それぞれの前で同じ自我を出すことはない。この結果として実際、人間はいくつかの自我に分裂する。この自我の分裂は、相互に調和せず、例えば一定の仲間に対して他の場所における自分を知られることを恐れる場合もある。あるいは相互に完全に調和し、例えば子どもに優しい人が自分の指揮下にいる兵士や囚人に対しては厳格な場合もある。」

ジェイムズの考え方を現代風にハリスは言い換えています。「人は社会的状況に応じて行動を変える」ということになると言います。現代の性格理論家たちはこの点には反駁していません。彼らの論点は、これらの仮面の下に「真の」性格が隠されているかどうかです。ある人がある状況では思いやり溢れる人になり、別の状況では厳格になるのであれば、どちらがその人の真の姿なのでしょうか。もし複数の男性が全員、子どもの前では思いやり溢れる人になり、囚人の前では厳格になるというのであれば、人の性格を決定づけるのはその人自身ではなく、状況ということになるのではないだろうかとハリスは言います。

多重人格” への9件のコメント

  1. 「人は社会的状況に応じて行動を変える」ハリス氏の見解、思わず唸ってしまいそうになります。それが社会に適応するということであれば、それぞれの社会に適応した顔をもつことが現代社会を生き抜くコツと言えるのかもわかりません。考えてみれば親から見た時息子であり、妻から見た時夫であり、と関わる人との関係から役割というものがあり、それは一つや二つではないものを同時並行で生きているのが人間であるのかもわかりません。そう思うと誰もが本当によく生きていて、讃えられるべき存在です。

  2. 前回と似たようなコメントになってしまうかもしれませんが〝正常な思春期の男性および成人男性に見られる多重人格性〟とあります。やはり、いろんな顔を使い分けて、その時の環境に適応していくんですね。
    自分も保育園の時の自分と家での自分、地元の友だちの中での自分など、考えてみるとたくさんの自分を使い分けていると言えます。なので、例えば家に地元の友だちが遊びに来た時などどっちの自分にすればいいのか考えてしまうこともあり、「そんな人だったの?」と言われることもしばしばです。〝性格を決定づけるのはその人自身ではなく、状況〟という言葉に妙に納得します。

  3. ハリス氏のいう”性格を決定づけるのはその人自身ではなく、状況ということになるのではないだろうか”といった観点のおき方は、その人の性格のまま、関わってしまうことをするのではなく、時と場合を選び、相手の立場や自分との関係性などを的確に判断したなかで、自分にとって一番いいと思う行動を反射的にするのでしょうね。
    人を見て、変化できるのは、子どもの頃の六ヶ月ごろには顔認識ができるようになってくること、また、生得的に持ち得ている力なのかなとも思いました。

  4. 「多重人格」ということは以前から多少知っていたと思いますが、「社会的自我」という概念には初めて触れました。私にも園で見せる顔、家庭で見せる顔、知り合いの人たちに見せる顔、趣味仲間に見せる顔、故郷の人々に見せる顔、海外に言って見せる顔、などさまざまな「顔」を持っていると思います。人々の集まりは社会です。その社会はさまざまです。一様でないことは言うまでもありません。私が出会う人々にはその社会環境に応じた「顔」で出会っていると思っています。おそらく相手もそうでしょう。そしてその相手の顔も一面でしょう。私はそれでいいと思っています。ニュース映像で「まさか、自分の子がこんなことを・・・」と発する親御さんの言に接することがあります。自分でもその立場ならそう言ってしまうかもしれません。ただ冷静に考えると、親の私に私自身の世界があるように、子には子の世界があるでしょう。そのことは常日頃から意識しおきたいと思います。

  5. 「人は社会的状況に応じて行動を変える」「人の性格を決定づけるのはその人自身ではなく、状況ということになるのではないだろう」とあります。そんなに極端に変わるかはわかりませんが、実際わが身を振り返るとそうなのかもしれません。家に帰るとなかなか静かになります。状況がそうさせているのですね。誰しもがそうかもしれませんが、子どももそうしたことを自然としていることがわかります。おそらく息子もその一人ですし、そこも認めながらの子育てが大切なのですかね。

  6. 「人は社会的状況に応じて行動を変える」この言葉を聞いて思い出すのは、陰陽です。藤森先生の話しの中でリーダーは陰と陽を持ち合わせておく必要があるという言葉です。部下のタイプに合わせて、自分がスタンスを変えて接することで、短所をカバーすることで部下を育てる必要があるという事です。今回のブログと通じているのか分かりませんが、人によって態度を変えるというのは、聞いた瞬間はマイナスな印象がありがちですが、これも社会で生きていくためには必要な能力のような気がします。

  7. 「人の性格を決定づけるのはその人自身ではなく、状況ということになるのではないだろうかとハリスは言います」とありました。性格というと一つのものであり、その人の「真の性格」なんて言われ方をするようなものという印象がありますが、真のなんて考え方が間違っているのかもしれませんね。自分という絶対的な存在があるという前提で私たち人間は物事を考えすぎているということでもあるのでしょうか。状況によって人の性格は変わるということを知ると、そもそも自分なんてないのではないかとすら思えてきます。そう思えるとなんだか少し気持ちも楽になるのかもしれません。

  8. 「人は社会的状況に応じて行動を変える」ということは確かによくありますね。自分においても、「目上の人」「同年代」「職場」「友人」など様々な場面によってかかわり方を使い分けていることがあります。それが一種の社会性でもあります。確かに、それを文字に起こしてみると一見「多重人格」であるようにも見えますね。しかし、それは「人の性格を決定づけるのはその人自身ではなく、状況」といえるのでしょう。ということは、子どもの性格は「場を知る」「場を察する」という察する力の見方や目線の持っていき方によるということなのでしょうか。

  9. 「人は社会的状況に応じて行動を変える」とありました。前回同様の感想ですが、自分の人間関係にしっかり当てはまります。人は慣れるといつの間にか当たり前となり、違和感を感じなくなったりと、人の適応力に単純に驚きますし、この適応力も人類の生存戦略の1つなのではないかとも思えます。また「彼が自分についていかなる印象をもっているかと気にかけている人々は、いくつかの集団に分かれることになり、実際にはその集団に数だけ異なる社会的自我を持つと言えよう」という部分は正に自分のことだなと少し焦りました。どこでも生きていくための術と言えば、聞こえは良いかもしれませんが、実際はどうなんでしょうか。

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