二つの選択肢

家庭も親もなんら影響を及ぼさないのか、それとも唯一影響を及ぼすものは家族内でも子どもによってそれぞれ異なると考えるのかという最後の判断を、マコビーとマーティンは読者に委ねたのです。一つ目の選択肢は子育て神話が間違っていることを意味します。二つ目の選択肢は子育て神話を救う唯一の命綱となります。一つ目の選択肢を選んだ人は誰一人いなかったそうです。発達心理学者の中でも、この分野で何が起きておるのかを自分とかかわりのあるわずかな部分だけでとらえるのではなく、分野全体の問題として注目していた学者は、マコビーとマーティンの提供した二つ目の選択肢にはせ参じたそうです。他の学者たちは天変地異の警告を無視して、ひたすら自分の仕事に精を出したのです。

マコビーとマーティンは「親の姿勢の中で何が効果的に作用するかは同じ家族内でも子どもによって大きく異なる」を二つ目の選択肢にしています。それはすなわち、親も家庭も大切であることに変わりはありませんが、実際には子どもはそれぞれ同じ家庭の中でも別々の環境に身をおいていることを意味しています。このような見地に立つ発達心理学者はこれを「家族内における構造的差異」と呼び、「同じ家族に育つ子どもたちが共有しない経験」を意味する言葉として用いています。たとえば、親がある子どもだけを他の子どもよりもかわいがる場合があります。かわいがられた子どもは情愛溢れる親に育てられることになりますが、他の子どもたちは冷淡にもしくは拒絶されながら育てられることになります。また親が一方には厳しく、他方には甘い場合もあります。一方を「運動選手」と、他方を「天才」と決めつける親もいるでしょう。家族内における構造的差異は子どもたち同士のかかわりの中から生ずることもあります。一人が支配的な親分肌の姉御になれば、他方はやっかい者の弟分になります。家庭は均質な環境ではなく、小さな微環境の集まりなのだというのです。

これは、もっともな考え方です。かかる微環境が存在することも、家族内の子どもがそれぞれ同じ家庭内で異なる経験をし、家族の他のメンバーと異なる関係を築き上げることも当然のことです。周知のことではありますが、仮に親が子どもたちを皆同じように扱おうと努力したとしても、実際にはそうはいきません。お母さんは自分のことを一番愛してくれた、だから立派な人間になることができた、誰もがそう思います。

ところが、難所はすぐに訪れます。この道は囚果の堂々巡りへとまっすぐにつながっていたのです。お母さんが自分のことを一番に愛してくれなかったのは、もともと自分が優れていたからだ、などとなぜわかるのでしょうか。自分が賢くなったのは、親が自分を「天才」と決めつけたからなのでしょうか、それとも自分が賢かったから「天才」と決めつけられるようになったのでしょうか。親の子どもへの接し方が違うとすれば、それは子どもたちの違いへの反応なのでしょうか、それとも親の接し方が子どもたちの違いを生んでいるのでしょうか。

この堂々巡りから抜け出すには親は子どもたちがすでにもち合わせている生まれつきの特徴に反応しているだけではない、ということを示さなければなりません。親が二人の子どもに対してなぜ違った行動をとるのか、二人の遺伝的な違いだけでは説明できないその理由を見つけ出さなければならないのです。さらにこれが難しいところですが、こうした親の接し方の違いが実際に子どもたちに影響を与えていることを示す証拠が必要となります。子から親への影響ではなく、親から子への影響を示すたしかな証拠が必要なのです。

二つの選択肢” への6件のコメント

  1. 「実際には子どもはそれぞれ同じ家庭の中でも別々の環境に身をおいていることを意味しています。」公平に、平等に、と設定を考えようが考えまいが、その環境下ですくすくと育っていく子どもたちなのですね。依怙贔屓をしたことはなくても子どもたちがずるいと思えばそれはずるいのかもわからず、ただ大人はそれに困ってばかりいないで、打開策、と言っては大袈裟かもわかりませんが、何か楽しい提案ができたらと思うところです。次男の誕生日が近く、彼らにとっての祖母がプレゼントを買ってくれました。僕も何か買って欲しい、と拗ねる長男にも小さなプレゼントを買ってあげ、我慢のできない大人になるのか、思いやりのある大人になるのか、はたまたそのどっちでもない大人になるのかはわかりませんが、そんなに大袈裟に考えることでもないのだろうと、先生のブログを読んで子育てをする肩の荷がふっと降りるような実感を得ています。

  2. 〝実際には子どもはそれぞれ同じ家庭の中でも別々の環境に身をおいていることを意味しています〟とあり、これを発達心理学では「家族内における構造的差異」というとありました。そのように指摘されると我が子も2人いますが、全く同じであるということはありませんね。なるべく平等に愛情をとは思ってはいますが、どうなんでしょうかね。この前、プールに連れていくと、水が得意な長男とまだ顔にかかるのがあまり得意でない次男で当然ですが、遊び方が違います。長男の方は水着の自分がみて、次男は水着ではない嫁がみて…という感じに自然となったのですが、これも微環境であるのかと思います。次男に少しは深いプールに入れてみたがよかったのか、できることをして楽しんでいた方が良かったのか…と考えながら帰ってきたとこだったのですが、色々考えなくてもそれもまた一興なのかも、と思いました。

  3. “家庭は均質な環境ではなく、小さな微環境の集まりなのだ”という内容は、それぞれ個性があるなかで個性を自分なりに発揮できるような環境、環境の捉え方も個性によって違うことが考えることができますね。どんなに一人には、愛情を注いでも、それをもう一人に同じようにやったからといってうまくいくわけではないことは、今までの内容からも考えることができ、そのことを踏まえ、子育てを行う人、親が育てる際には、そのことを十分に理解し、それぞれの個性を知った上での子育てっあったり、そう考えると、子育てが悪いから子どもが非行に走るとかという声はなくなり、子育てがより楽しいものになるのかと思います。

  4. 今回のブログで理解できたこと、あるいは、ほぉっ、と驚いたり感心したりしたところがいくつかありました。一つは、二つの選択肢の一つ目が「子育て神話」の崩壊であり、二つ目は「救済」、ということです。そしてその二つ目の選択肢に関わってマコビーとマーティン、あるいはハリス女史による「家庭は均質な環境ではなく、小さな微環境の集まり」という点には一種驚きを覚えました。家庭を「小さな微環境の集まり」にパラフレーズしたところは、ほぉっ、と思ったところです。家庭が微環境の集まりであり、均質な環境ではない。本来の家庭の意味が開示されています。特に「微環境」という表現はいいですね。赤ちゃんの視線にはいる様々なモノや人、この「様々な」が微環境構成材の多様性を表している。園という施設は「大きな微環境の集まり」と言えるでしょう。子どもにとって、自分の周囲の人、モノ、空間、事象はすべて彼彼女にとっての世界です。環境とは世界のことでしょう。

  5. 「家庭は均質な環境ではなく、小さな微環境の集まりなのだというのです。」というのが印象に残ります。この微環境というのは家庭はもちろん、子ども園でもそのような場所も同じように言えるのですかね。子育てをする上でまだ1人の息子しかいませんが、現場の子どもたちを見る限り兄弟でも全く色が違うというのは言わなくてもわかることです。そうなると大きくな考えではありますが、三省に繋がってくるのかなと感じます。それぞれの違っていい、ありのままを受け入れることの大切さを感じます。どうなのでしょう。

  6. ブログを読み、少し子育てに対する比重が軽くなった気がします。1歳と4歳の息子がいますが、やはり次男は長男よりも幼いので、我慢も出来ないですし、それこそ本能で動いている分、甘やかしてしまい、長男に我慢させる事が多く辛い思いをしているだろう・・・と感じる事が多々あります。しかし自分の経験を思い出すと、4歳年上の兄も同じような経験をしていますが、だからと言って変に影響を与えたわけでもないですし、立派な大人になっています。
    子育てとは究極の見守る事なのかもしれません。社会で生活する以上、最低限の社会でのルールを伝え、人道から外れないように見守り、あとは子ども自身が自ら成長していくのを守ってあげる事のような気がしました。

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