予想外の結果

もし笑い性がすべて遺伝によって規定されるものであれば、一卵性双生児は笑い性においても酷似するはずであり、彼らが一緒に育てられようと別々だろうと差はないはずです。もし笑い性がすべて環境によって規定されるものであれば、一卵性双生児であっても二卵性双生児であっても、養子縁組によるきょうだいであっても、一緒に育てられていれば皆笑い性の程度は同じになり、別々に育てられていればその程度はまったく異なることになります。最後に、もし笑い性が遺伝と環境の相互作用によるものであれば、これが本命であることは間違いありませんが、共通する遺伝子をもつ二人は笑い性の程度がどことなく似ていて、同じ家庭で育てられた二人もどことなく似ていますが、同じ遺伝子をもちかつ同じ環境で育てられた二人こそその程度が最も似ていることになるはずです。

この推論は、論理的に聞こえるかもしれませんが、はたしてそうでしょうかとハリスは問いかけています。もう一度考えなおしてもらいたいと言うのです。もし笑い性が今まで研究されてきた他の特性と同じパターンにはまるのであれば、私たちが辿り着くべき答えは前述のいずれでもないことになると言います。

予想外の結果が出だしたのは1970年代半ば頃からだそうです。1970年代後半には行動遺伝学が礎としてきた大前提が間違っているのではないかと疑問視されるほど多くのデータが揃い始めてきました。そのデータが示しているのは、遺伝子の作用に関する前提が疑わしいのではありません。それはまったく問題ありませんでした。遺伝子を共有する人々は共有しない人々よりも性格的に似ています。正しくないのではないかと疑問視されたのは、共有する環境の影響に関する前提でした。同し家庭で育てられた二人は、別々の家庭で育てられた二人よりも際立って似ているわけではないという結果が次から次へと表出したのでした。しかもそれらの結果は、すべては遺伝に由来するという前提にも当てはまらなかったのです。遺伝的につながりのある者同士でも十分に似ているとは言えず、相関関係が低すぎたのです。遺伝子とは別の何かが被験者の性格に影響を及ぼしているのですが、それは彼らの育つ家庭ではないようだったのです。仮にそれが家庭環境だとすると、その影響は何とも不可解な形で及ぼされていることになると言います。きょうだいが似るように影響しているのではなく、似ない方向に影響していることになるのだとハリスは言います。

多くに人は、なぜその結果が予想外なのかと不思議に思います。同じ家庭で育てられたからといって、どうして二人が似なければいけないのか。親が内気で表情に乏しければ子どももそうなるのか、それともその反対になるのか、どちらも考えられるのではないかと思います。陰気な親と性格がまったく対照的な、一人が親のように陰気で、もう一人が明るく愉快であるというような二人の子どもが家族として暮らしていてもおかしくないではないかとハリスは言います。

問題なのは、行動遺伝学者を含む子どもの発達研究に携わる人々が、親の態度、性格、さらには育児習慣が子どもたちにどのような影響を及ぼすのか、それを大方予想できると考えていることだと言います。疫学名は特定の食習慣やライフスタイルが個人の健康や寿命にどのような影響を及ぼすかを予測しようとします。発達心理学者は親の行動や育児スタイルが子どもの心の健康や性格にどのような影響を及ぼすのかを予測しようとします。

予想外の結果” への2件のコメント

  1. 子どもが善く育つ、善く、とは表現が適当かわからないのですが、子どもが善く育っていない場合において、家庭の影響というものが全てを占めていないという見解はその子の救いでもあり、保育者としては可能性であると感じることができるように思います。話が逸れてしまうかもわからないのですが、それはある意味では、悪条件な家庭環境で育ち、大人になった際に家庭環境のせいだけにできないということでもあるように思えました。良くしてくれた人や良くしてくれた環境がどこかにあったはずで、そのことへの感謝を出来るか出来ないかはその人の問題と言えるかもわかりません。保育者としては、その記憶に残る残らないは別として、目の前の子どもたちの救いであるべき存在なのかもわかりません。

  2. 〝同し家庭で育てられた二人は、別々の家庭で育てられた二人よりも際立って似ているわけではない〟とあります。考えてみれば当然のことですが、同じ家庭であれば似るという見解もいつの頃からかの刷り込みによるものであるのかとも思いました。
    ですが、その子どもにとって合う家庭と合わない家庭とあるのではないかと思いますが、その影響だけがその子のことを決めるものではないということは、子どもたちにとっても、自分たち乳幼児が集まる場所にいる大人にとっても良い情報ではないかと思います。
    もしかしたら、主体的である人間は影響を受けるもの受けたいものも選んでいるのかもしれないと考えてしまいました。そして、なりたい自分になる、そんな気がします。

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