14年目に入って

2005年8月29日から始まったこのブログも、随分とその趣旨が初めのころと違ってきました。そのために、コメントを入れていただく方々も代わってきました。最初の回に、「“私は何がしたいのだろうか。”という問いを自分にしてみました。するとそのときに読んでいた本(司馬遼太郎著「峠」)の中の文が答えを代わりに言ってくれている気がしました。」とあります。先日、河合継之助博物館から「峠」という会報が送られてきました。この会報の名前は、もちろん、司馬遼太郎著「峠」から採ったものでしょう。

始めた時にこの本の中から引用した言葉は、「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」でした。送られてきた会報の中にあった河合の言葉は、「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。牛羊となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人間の血や肉をくらいつくすかどちらかとなれ」でした。随分と激しいですが、方谷から学んだ陽明学の心を表しています。私はそれほど激しい心は持ってはいませんが、最近のブログは始めたころに引用した言葉から最近は少しこのような心境になって書いています。

今回、私のところに会報が送られてきたのは、少し前に長岡に講演に行ったときに、河合継之助博物館を訪れ、彼の言葉集という本を購入してきたからです。ブログを始めたきっかけも彼の言葉でしたが、現在の心境を表しているのも彼の言葉です。その言葉をその博物館で見つけたのです。

彼は、藩主であった忠雅の世子・牧野忠恭のお国入りにあたり、経史の講義を行うよう命じられます。しかし河井継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたのです。もちろんそのため、藩庁からお叱りを受けるのですが、私も常に、講演をするとき、ブログの書くとき、それを忘れないでいるのです。ということで、ブログを書きはじめたころは、身の回りのさまざまな花鳥風月に心を寄せ、様々なことに好奇心を持ち、心を澄ませ、感応力を鋭敏にすることを心掛けてきました。しかし、そのころに学んだことを、実際に行動に移し、実際の現場に活用しなければ、それまでの知識はただの記録に過ぎず、また、講演は講釈を垂れているだけになってしまいます。

実際に保育を考えるにあたって、最近は様々な知見が生まれています。新しい知見によっていろいろなことが解明されています。先日もある人から、保育を目指す学生さん向けに「皆さんの仕事は、白紙で生まれた子どもに絵を描いていく仕事です」と説明をした人がいたと聞きました。いまだに、堂々とそのような今では否定された考え方を述べる人がいるようです。次々に出される新しい知見を、保育に携わる人、子どもに関係する人たちに、ブログを通して紹介しようということで書いています。随分と内容はときには難しく、私もなかなか理解できないことも多いのですが、少しずつ今までの刷り込みが減ってきたらと思っています。

河合継之助の言葉に「(長崎にて)何を見ても面白し、商売交易の地ゆえか、則ちその心持ちになる様なり」があります。私は今、長崎に向かう飛行機の中でこれを書いています。機内でもネットのできるようになったのですね。

親に対して

子どもは、家での姿と外での姿を変えることがあります。その中で、家では出生順位が影響しています。それには疑いの余地もありません。ですから出生順位説信奉を揺るがすことが難しくなってしまっているのです。誰かが親やきょうだいと一緒にいる姿からは予想どおりにそれぞれの特徴の違いを見ることができます。最年長者は真面目で、責任感が強く、いばっています。最年少者はもっとのんきです。しかしそれは彼らが家族で行動をともにしている場合だと言うのです。これらの行動は一生どこへ行くにも引きずらなければならない制約のようなものではないのです。保育園にさえ引きずっては行かないのです。

ある行動を別の状況にそのまま適用できない例としてハリスはよく例に出すのが「食べ物の好き嫌い」だそうです。これは幼い子をもつ親の多くから寄せられる悩みです。ある状況で好き嫌いする子は別の状況でも好き嫌いをすると考えるかもしれません。たしかに研究はされていますが、そこで明らかになった結果はそれとは違っていたそうです。対象となったスウェーデンの子どもたちのうち、三分の一は家か学校かのいずれかで好き嫌いをしていましが、その両方で好き嫌いをする子はわずか八パーセントにしか過ぎなかったそうです。

ではその八パーセントをどう説明すればいいのかをハリスは問いかけます。家での行動と家の外での行動との相関関係は低いかもしれませんが、決してゼロではないのです。別の例では、親に対しては気むずかしい子であっても仲間とではそうではない子、もしくはその逆のケースもあったそうです。両方の状況における気むずかしさの相関関係はわすかに0.19だったそうです。すなわち、親と一緒にいるときの行動からはその子が仲間に対してどう行動するかを正しく予測することはできないだろうということです。それでも相関関係はゼロではないのです。しかもその相関係数は統計的に有意だったのです。

有意ではありますが、驚くほど低いのです。なぜ驚くほどなのかというと、それらの状况下にいるのは同じ子、同じ遺伝子をもった同一人物だからです。行動遺伝学研究によって、愛想の悪さや攻撃性といった性格特性はおよそ50パーセントの割合で遺伝的なものであることがわかっているそうです。つまり子どもの性格のかなりの部分は生まれつき備わった素質的なもので、経験によって獲得されたものではないということだと言います。生まれつき愛想の悪い子はどこへ行っても、ある社会的状況から別の状況に移っても、愛想が悪いのです。経験によって学習されたものは、学習したときの社会的状況と結びついていますが、生まれもったものは置き去りにすることなどできないとハリスは言います。家でも学校でも好き嫌いする子は食物アレルギーがあるか、さもなければ消化器系が敏感なのかもしれないのです。家でも学校でも好き嫌いする子がいたり、親の前でも仲間同士ででも気むずかしくなる子がいるのは、直接遺伝子作用によるものなのかもしれないと言うのです。

間接遺伝子作用-遺伝子作用による作用-もまたある状況から別の状況に移っても同じ行動をもちつづけるその誘困となることがあります。シンデレラのケースは例外です。彼女はその美貌のゆえに、継母の近くにいるときは危険にさらされていました。彼女の美貌が長所となりえたのは狭い家の外だけだったのです。容姿端麗な子どものほとんどはどこへ行ってもその容姿が長所になることを発見し、不器量な子はどんな社会的状況でも不器量さが不利になることを知るのです。

別の役割

次のような意見もあるそうです。「子どもたちのきょうだい関係の評定値と仲間関係の特徴を示す評定値の間には有意な関係はほとんど認められない。…きょうだいに対しては競争心をあらわにし、支配的な様子が観察されている子も、母親からの報告によると友人関係ではうまくいっているという。母親からは、きょうだいは敵対関係にあると報告されている子が、友人との親密さでは高得点を示している。…たしかに年少のきょうだい相手に競争心を露わにしたり、支配的な行動をとるからといって、それが友人に対する好ましくない問題行動に必ずつながると考えるべきではない。」

双子でないかぎり、子どもたちのきょうだい関係は対等ではありません。ほとんどの場合、年長の子が主導権を握り、年少の子がそれに従います。年長の子は優位に立とうとし、年少の子はそれを邪魔します。仲間関係はこれとは異なるとハリスは言います。仲間同士はきょうだいよりも立場が対等であり互換性に富む場合が多いのです。アメリカの子どもたちでは、もめごとや敵対行為は仲間同士よりきょうだい間ではるかに多く勃発するようです。

きょうだい間のもめごとは、フランク・サロウェイの『反逆者に生まれて』のテーマです。彼の考え方によると、きょうだいとはもともとライバル同士として生まれ、家族の富や親の愛情を公平に、もっとも第一子は公平以上にですが、分け前としてもらえるよう競いあうのだと言います。彼はこう言っています。「子どもたちはそれそれ別の役割を果たすことでそれを実践している。」家族内の適所がすでに他の人によってふさがれていたら、子どもは別の方法で親の気を引き、親に尊重されるように努めなければならないのだともいうのです。

ハリスはこの考え方に反対はしていません。またきょうだいの確執を成人になっても、時には死ぬまで引きずる人が多いのも確かだと言います。実際に、彼女のグラディスおばさんとべンおじさんは一生憎みあっていたそうです。しかし、きょうだい関係で身につけた情動や行動を他の人間関係にまで引きずってしまうという考え方には合点がいかないと言います。グラディスおばさんは兄のべン以外の人が相手であれば、おとぎ話に出てくるシンデレラのようにやさしく、親切だったそうです。

きょうだい関係で身につけた行動パターンは他人との接し方に役に立つわけでもなければ、邪魔にもならないと言うのです。私たちの特徴に一生消えない形跡は残さないのです。もし形跡を残すようなことがあれば、成人対象の性格検査でその影響が認められるはずです。すなわち第一子とそれ以降の子どもの間では成人してからの性格になんらかの違いが現われるはずだと言うのです。出生順位による影響は、成人の性格を調査した研究の過半数では現われなかったのです。しかし、ある特定の方法で実施された研究ではその影響が確認されているそうです。被験者の性格をその親もしくはきょうだいが評定する方法です。親に自分の子どもを説明してもらうと、彼らはたいてい第一子は他と比べ真面目で几帳面で、責任感があり、不安傾向が強いと答えるだろうと言います。ところがもし第一子について弟や妹に聞くと「いばっている」という答えが返ってきます。これらはその被験者の家の中での姿なのです。

母親と一緒の時

ハリスはこんなことを言っています。「ママと一緒に何かを学習するのも結構だが、乳児はそこで覚えたことを別の状況に自動的にもちこむわけではない。これは賢い生き方である。なぜなら、ママと学習したことは他の状况では通用しないかもしれない、あるいは通用しないだけではすまされないかもしれないからだ。」それは、子どもの遊び研究を専門とするグレタ・ファインとメアリー・フライヤーが、幼い子どもたちは確かに母親と一緒に遊んでいるときにはより高度な遊びをしますが、「遊びが洗練されていくことに母親がかかわっているという仮説を裏づける証拠は何もない」といったことを受けえの発言です。ハリスはこの説に同感の意を表明していて、こんな例を呈示しいてます。」ここに一人の赤ちゃんがいる。仮に名前をアンドリューとしよう。アンドリューの母親は、出産後の数カ月ではめずらしいことではないが、出産後の鬱状態に悩まされていた。アンドリューの授乳とおむつかえには支障はなかったが、彼と遊んだり、彼に微笑みかけたりはあまりしなかった。生後三カ月ともなると彼自身にも鬱の症状が現われた。母親と一緒にいるときの彼はあまり笑わず、同月齢の赤ちゃんほど活発ではなかった。彼は沈痛な表情を浮かべ、動きも緩慢だった。幸いなことにアンドリューは四六時中母親と一緒だったわけではない。彼は託児所にも通っており、そこの保育者は鬱状態ではなかったのだ。託児所の保育者と一緒にいるアドリーはよく笑い、活動的で、まったく別の赤ちゃんのようだった。」

この例にみられるように、鬱状態の母親をもつ赤ちゃんに頻繁に見られる沈痛な表情や緩慢な動きは「鬱状態にある母親とのやりとりの中に限って見られる特徴である」とアンドリューのような赤ちゃんを調査した研究者は話しているそうです。

社会的な状況が変われば、行動も変わります。この現象は少し大きくなった乳児、よちよち歩きをはじめた幼少児においても確認されているそうです。母親が質問用紙に記人したところによると、幼児の家での行動と保育所での行動観察もしくは保育者への聞き取りによって得られた行動を調査したところ、研究者たちは子どもたちの行動が一致しないことに気づいたのです。「幼児が実際にどう行動するかは、家の中か保育所かという状況によって体系的に違ってくる」とある研究者は認めているそうです。先日私の園に入園した園児が、母親が心配するような行動は園では見られず、全く問題がないことが報告されていました。たしかに、子どもの行動は置かれた環境によって違ってくるようです。

母親とのやりとりで身につけたことが保育園での仲間集団でのつきあいには役に立たないのは当然としても、きょうだいとのやりとりで身につけたことならきっと他の状況でも通用するのではないだろうかと思います。ハリスも最初はそう思っていたそうです。しかし考えなおしてみると、仲間とのつきあいはまっさらな状態からはじめた方がうまくいくのではないだろうかと考えるようになったそうです。家では年下の弟を支配している子も保育園のクラスの中では一番小さいのかもしれません。一方、常に支配されている弟は自分のクラスでは一番大きくて強いかもしれません。このことについてある研究チームは次のように話しているそうです。

「きょうだい関係における個性がそのまま仲間関係にもちこまれるという証拠はない。…自分よりも年長のきょうだい相手に従属的な地位に数年間甘んじてきた第二子でさえ仲間同士では支配的な役割に就く場合もある。」

状況に応じて

子どもたちは、就学前の幼い子どもたちでさえ、ある性格から別の性格への切り換えが非常に上手です。おそらくこの年代の子どもたちは、年齢的に上の人よりも簡単にそれをこなしているのではないだろうかとハリスは言います。彼女は、四歳児がままごとをしているときの会話を例に出しています。

ステフィー:(いつもの彼女の声でカイトリンに向かって)私がママね。

ステフィー:(気取ったママの声で)はいはい、赤ちゃん。ミルク飲んでいい子にしてましようね。

ステフィー:(小声で)ミルクを嫌がるふりをするの。

カイトリン:(赤ちゃん声で)ミルク、イヤダ!

ステフィー:(気取ったママの声で)かわいい赤ちゃん、きちんと飲みましようね。体にいいんだから。

ステフィーは一人で三役を演じています。作者兼プロデューサー、演出家、そして主役のママの役。彼女はその三役を演じ分け、それぞれに違う声を与えているのです。

ステフィーは円筒型の木製のブロックを埔乳ビンに見立ててカイトリンに飲ませようとしています。発達心理学者たちはこうしたごっこ遊びに関心を抱いています。行動としては高度で象徴的であるにもかかわらず、驚くほど早い時期、二歳前には子どもたちの間で見られるようになるからです。ごっこ遊びをするようになる時期を早める、もしくは遅らせる環境的な要困については多くの論文で述べられているそうです。当然、その焦点は母親の役割におかれています。母親が幼児の空想の世界に一緒につきあった場合には、その空想がますます高度化されることが研究によって明らかにされているそうです。

しかしそこには落とし穴があったとハリスは言います。子どもの遊び研究を専門とするグレタ・ファインとメアリー・フライヤーはそれらの研究を再考した結果、次の結倫に達したそうです。幼い子どもたちは確かに母親と一緒に遊んでいるときにはより高度な遊びをしますが、「遊びが洗練されていくことに母親がかかわっているという仮説を裏づける証拠は何もない」そうです。母親が子どもに手のこんだ空想の世界を演じるようはたらきかければ、子どももそれはできます。しかし、その後子どもが一人もしくは友だちと遊ぶときの遊びが、母親とどのような遊びをしたかによって違ってくることはありません。

他の発達心理学者たちはこの結果に反駁したそうです。ファインとフライヤーはそれらの反論に対して「幼い子どもたちの生活において大人の保育者がどれだけ重要であるか、そのことをみくびるつもりはまったくなかった」とし、親は全能であるという「信念がそれほどまでに深いものである」とは思いもしなかったと説明しておきながら、それでも自説を固守しました。母親が子どもの遊びを左右するのは、子どもが母親と遊んでいるときだけ。証拠がそれを物語っていると言います。「立てた仮説が成り立たなければそれを放棄するか、変えるかすればよい」とファインとフライヤーは勧告しています。それにハリスは同感の意を表明しています。

別の状況

人は新たな状況に既存の知識や技術をもちこまない傾向が強いと言われています。学習理論学者ダグラス・デターマンによると、新しい状況が直前の状況と酷似している場合は別にして、人がある状況で身につけたものを新たな状況へ自発的にもちこむことを示す確固たる証拠はないと言っています。少なくとも、赤ちゃんはそのようにできているようだとハリスは言います。発達心理学者キャロリン・ロヴィー=コリアーを中心とする研究チームは幼い赤ちゃんの学習能力に関する一連の実験を実施しました。赤ちゃんはべッド上で仰向けに寝かされ、頭上のモビールを見ます。赤ちゃんの一方の足首にリポンが結ばれ、その足を蹴るとモビールが動く仕組みになっています。生後六カ月の赤ちゃんはすぐにその仕組みを理解したそうです。自分の足を蹴ればモビールを動かすことができると知り、嬉しそうにしたそうです。さらにそのコツを二週間後にもまだ覚えていたそうです。しかし実験の装置などが少しでも変わると、たとえばモビールの飾りが少しでも違ったものにつけ替えられていたり、ベッドライナーの模様が少し変わっていたり、べッドそのものが別の部屋に置かれていたりすると、赤ちゃんはまるで生まれてはじめてそのものを見るかのように、ぼんやりとモビールを見にけるだけだったそうです。このことから赤ちゃんには学習機能があり、それにはある状況で学習したことは別の状況でも通用するとは限らないという警告機能が備えられていることがわかると言います。

この分析は面白いですね。しかも、大人でもそのような傾向があるようですが、特に赤ちゃんはそうであるということは、知っておく必要がありそうです。確かに、ある状況で学習したことは必ずしも別の状況でも通用するとは限らないのです。家で泣く子は運がよければ親にかまってもらえ、同情してもらえます。しかし幼稚園ではよく泣く子は仲間集団から避けられ、さらに小学校ではバカにされます。かわいらしく、赤ちゃんぽく行動する子に父親は喜んでも、同級生の反応はまったく違います。家では小利口なことを言って人の笑いを誘う子は、学校ではおしゃべりを慎まなければ校長室に呼び出されることになります。家ではきしむ車輪は油を差されますが、外の世界では出る杭は打たれるのだとハリスは言います。そしてシンデレラのようにその逆もありうるというのです。

シンデレラ同様、ほとんどの子どもたちは少なくとも二つの異なる環境をもっていると言います。家との外とではまったく別の世界です。それぞれの環境には独自のルールがあり、独自の懲罰もあれば報酬もあります。シンデレラのおかれた状況が特異だったのは、彼女の過ごす二つの環境とそれぞれでの彼女の性格があまりにもかけ離れていたからです。ごく一般的な中流階級のアメリカ人家族の子どもも家の中と外とでは行動が異なります。ハリスの子どもたちがまだ小学生だった頃、彼女ら夫婦は、娘たちの先生に会いに、親向けに夜間に行われる自由参加の保護者懇談会であるバック・トゥ・スクール・ナイトに出かけそうです。毎年そこで見る親たちの姿はいつも同じだったそうです。信じられないと頭を振りながら部屋から出てきて、「あの先生本当にうちの子のことを言っていたのかしら?」と冗談めかして言うのだったそうです。実際、先生がまったく別の子のことを言っているように感じることがあると言いますたいていの場合、親の知るその子の姿よりもしっかりしている場合が多いと言います。「家では意固地でたいへんなんですよ!」「あの子は一分たりとも黙っていないんです!」といった具合だと言うのです。このようなことは、日本でもよくありますね。

新生児の世界

ハリスによって現代風に言いかえてみると「人は社会的状況に応じて行動を変える」というウィリアム・ジェイムズの考え方を示している昨日のブログで紹介した彼の文章は、彼の著書『心理学』から引用したものだそうです。この本はアメリカにおける心理学の教科書第1号で、1890年に出版されたものです。当時心理学という学問ははじまったばかりで、しばらくはジェイムズの独壇場で、彼はあらゆる分野に着手したそうです。性格、認知、言語、感覚、知覚、そして児童発達までを網羅していたのです。ジェイムズは、後に誤りであることが判明したそうですが、当時、新生児の世界は「一つの大きな騒々しい混乱の世界である」と言ったそうです。

今日では心理学も専門分野が完全に細分化され、一度大学院まで進んでしまうと自分の領域外の論文には目もほとんど通さないような専門家ばかりだとハリスは言います。彼女からすると、成人の性格に関する狭義な議論が社会化研究者たちの気を引くこともないですし、「自我」という言葉はほとんどの行動遺伝学者の辞書にはないというのです。

これは残念なことだと言います。なぜなら、これは今取り上げている問題と関連があると考えられるからです。確かに人は社会的状况に応じて行動を変えるというジェイムズの考え方、さらにそれにつづく、なぜそうなるのか、その下に「真の」性格は隠されているのかに関する議論の中には性格形成における大きな謎の一つを解くための重大な鍵が隠されているとハリスは思っていると言います。

彼女は、その謎をこう説明しています。親は子どもの生得性な性格を変えることはできません。少なくともその子どもの成長後にも調整の跡が残るような形ではそれを行なうことは不可能であると、これまでのブログで紹介しているように実証されています。もしそれが真実であるならば、なぜ人々は親は子どもの性格に大な影響を及ぼすと確信しているのでしょうか?

イブの三つの顔とは異なり、ほとんどの人は相互の記憶が遮断されているような多重人格とは無縁です。正常な人は社会的状況に応じて行動を変えることもあるでしょうが、その場合、それぞれの状況下での記憶は次へと引き継がれると言われています。それにもかかわらず、ある状况で学習した事象を必ずしも別の状況で応用しようとはしないそうです。

実際、人は新たな状況に既存の知識や技術をもちこまない傾向が強いと言われています。学習理論学者ダグラス・デターマンによると、新しい状況が直前の状況と酷似している場合は別にして、人がある状況で身につけたものを新たな状況へ自発的にもちこむことを示す確固たる証拠はないと言っています。デターマンは、一般化しすぎるよりも一般化を控えた方が状況に適応しやすいのではないかと指摘しているそうです。古いルールが新しい状況でも有効だと思いこみ、軽率に前進してしまうよりも、新たな状况には新たなルールがあり、そのルールが何であるかを見極める必要があると考える方が無難であるとハリスは考えています。

多重人格

家の中では、いじわるな継母、姉たちに囲まれて育ったシンデレラにとっては、狭い家の外は別世界だったでしょう。家の外にはシンデレラを侮辱する人も、奴隷のように扱う人もいなかったし、自分が美しくなることで友だちを得ることができるとも知ります。後に妖精の名づけ親と呼ばれるようになる近所のやさしい女性とも知り合います。姉たちが舞踏会でシンデレラに気づかなかったのは、たんに装いが普段と違っていたからではありません。シンデレラの立ち居振る舞い、顔の表情、姿勢、歩き方から話し方までがまるで別人だったからです。姉たちはシンデレラの家の外での顔を知りません。そして王子はというと、当然シンデレラの家での顔を知りません。だからこそ靴を落とした女性を探し求めてシンデレラの狭い家に立ち寄ったときにも彼女に気づかなかったのです。舞踏会でのシンデレラはまさに魅力的でした。素養に欠けるとは思ったものの、それは簡単に矯正できるだろうと王子は判断したのです。

シンデレラの二つの顔の話は、まるで《イブの三つの顔》の主人公のような「多重人格者」の話なのかと勘違いするかもしれません。イブが普通と違っていたのは、彼女が複数の性格をもち合わせていたからではなく、またそれぞれの性格が全く異なっていたからでもありません。イプがかかえていた問題は、彼女の異なる性格が予告なしに出没をくり返し、それぞれの記億がつながっていないことでした。

性格が二つ以上あるのは異常なことではありません。小説家へンリー・ジェイムズの兄ウィリアム・ジェイムズはそれを指摘したはじめての心理学者でした。100年以上も前に、ウィリアムは正常な思春期の男性および成人男性に見られる多重人格性について次のように説明しています。

「正確に言えば、一人の人は、彼を認識してその印象を心にいだく個人の数だけ社会的自我を持っている。…ただし、彼に印象を心にいだく人々は自ずといくつかの種類に分けられるため、彼が自分についていかなる印象をもっているかと気にかけている人々は、いくつかの集団に分かれることになり、実際にはその集団に数だけ異なる社会的自我を持つと言えよう。彼はこれら異なる集団に対し、それぞれ自分の異なる一面を出す。親や教師の前では端然としている青年でも、自分の「荒々しい」若い友人の前では海賊のように威張りちらす者が少なくない。われわれも子どもとクラブ仲間、得意客と自分が雇用する労働者、自分の主人や雇い主と親友、それぞれの前で同じ自我を出すことはない。この結果として実際、人間はいくつかの自我に分裂する。この自我の分裂は、相互に調和せず、例えば一定の仲間に対して他の場所における自分を知られることを恐れる場合もある。あるいは相互に完全に調和し、例えば子どもに優しい人が自分の指揮下にいる兵士や囚人に対しては厳格な場合もある。」

ジェイムズの考え方を現代風にハリスは言い換えています。「人は社会的状況に応じて行動を変える」ということになると言います。現代の性格理論家たちはこの点には反駁していません。彼らの論点は、これらの仮面の下に「真の」性格が隠されているかどうかです。ある人がある状況では思いやり溢れる人になり、別の状況では厳格になるのであれば、どちらがその人の真の姿なのでしょうか。もし複数の男性が全員、子どもの前では思いやり溢れる人になり、囚人の前では厳格になるというのであれば、人の性格を決定づけるのはその人自身ではなく、状況ということになるのではないだろうかとハリスは言います。

おとぎ話に見る家庭の環境

昔から語り継がれる民話には、家ではいじめられていましたが最後には家を出て大成功をおさめる主人公がしばしば登場します。その一例がシンデレラです。ハリスが子どもの頃に読んだシンデレラの本は次のようにはじまっていたそうです。

昔むかし、あるところにうぬぼれの強いわがままな女の人を二度目の妻として迎えた男の人がいました。この女の人には娘が二人いましたが、二人とも母親と同じようにうぬほれが強くわがままでした。一方男の人にも娘が一人いましたが、この娘はやさしく親切でうぬぼれることなどまったくありませんでした。

この「やさしく親切な娘」というのがもちろんシンデレラです。ディズニー映画とは異なり、この本では姉たちは容姿端麗な女性として描かれていて、醜いのは性格だけです。この点では母親にうりふたつでした。シンデレラの天性のやさしさはおそらくすでに他界した母親から受け継いだものなのでしょう。当時母親が死ぬということは決して珍しいことではありませんでした。今日では離婚によって家族が離散しますが、当時は多くの家族が死によって引き裂かれたのでした。

おとぎ話では簡略化されてしまっていますが、シンデレラは何年間も継母や姉たちのいじめを堪え忍んできたに違いありません。彼女には頼れる人は誰一人いませんでした。父親は彼女を守る気がなかったのか、それともできなかったのか、さらに当時は子どもを虐待から守る法律も機関もありませんでした。目立たないことが一番だと、言われたとおりに行動し、侮辱されても暴力を振るわれても抵抗してはいけないということを、シンデレラは早々に学んだに違いありません。そしてついに舞踏会が、妖精が、そして王子様が現われたのです。

原作者は読者に次の事柄を前提として認めるよう求めています。シンデレラは姉に気づかれずに舞踏会に行くことができた、何年間も自尊心が傷つけられていたにもかかわらず王子ような高尚な人物を楽しませ魅了することができた、王子が彼女の自宅で普段着姿の彼女に気づかなかった、さらにはンンデレラが王女として、そしていずれは女王として務まると王子は信じて疑いもしませんでした。

このようなことは、不合理でしょうか?そうでもないのかもしれません。ハリスは、単純なことを一つだけ受け入れることができれば、すべてつじつまが合うと言います。そのこととは、子どもとは環境に応じてそれぞれ別の自分を、別の「顔」をつくり上げるということです。継母の前では彼女の嫉妬を買わないよう、目立たないのが一番だということをシンデレラはまだ相当幼い時分に学びました。もっとも、厳重に見張られてさえいなければ、子どもなら誰でもするように、彼女もまた家を抜け出し、遊び相手を求めたでしょう。それは、彼女をその狭い家の中に閉じこめることなどとうてい無理だったからです。なぜなら、家の中にはトイレがなかったからです。

幼少時の環境

子どもはそれそれ家庭内で自分だけの小さな環境の中で育ち、生まれもった素質がすべてを規定できるわけではありません。行動遺伝学者によって性格特性のばらつきのうち半分のみが個々人の遺伝子構造の違いに起囚することがわかったのです。それゆえに、残り半分は環境によって規定されて規定されているはずです。動遺伝学者だけでなく、皆がそれを「育ち」であると思いこんでいました。唯一ディヴィッド・ロウだけが、子どもの人生にとって最も大切なものは親ではない、子どもは家庭以外の環境ももっており、その環境がより重大な影響を及ぼしているのかもしれないと指摘しました。彼以外はまるでなくした鍵を探すかのように、相変わらず家庭内にその要囚を追い求めたとハリスは指摘しています。「この中のどこかにあるはずだ」と。

親によってさまざまな違いが生じることは周知の事実です。五万人もの心理学者が言っていることが間違っているはずがないのです。崩壊した家族が機能不全の子どもを育むという証拠があれほど揃っていることはどう説明するのでしょうか。しかし、遣伝子も重要であり、家族を崩壊させた、もしくはそれに関与した親の特性を子どもたちは親から受け継ぐこともあります。

遺伝子だけではありません。家庭環境が影響力を持つと考えるのは、自分がその証拠を目の当たりにしたからです。子どもにどのような態度をとるべきかわからない親と彼らのかかえる問題かんしゃくを起こすたびに報酬が与えられる子どもは爆発するかのようにかんしゃくを起こします。親に絶えずけなされて自尊心の低い子ども。態度がころころ変わる親と不安げな子ども、そして別々の文化で育った人の間に見られる顕著な性格の違い。ハリスは彼女自身に課された課題は生やさしいものではないと自覚しています。親は子どもに対して永続的な影響を及ぼすと人々が確信するにいたった様々な事象を別の見地から説明しなくてはならないからです。

ミネソタ大学の行動遺伝学者であるトマス・プーシャールは「ミネソタ大学の別々に育てられた双子の研究に参加している研究者の一人です。彼は1994年にサイエンス誌上で、幼少時の環境が成人してからの性格にどのような影響を及ぼすかについては「まだまだ謎に包まれている」と認めているそうです。さらに大きな謎は、なぜ心理学者が人の性格が生まれと育ちのある組み合わせによって形成されているという考え方にこれだけ長い間執着してきたのかです。生まれとは親から譲り受けるDNAであり、それが影響を及ぼすことは実証されていますが、それがすべてではありません。育ちとはそれ以外に親が子どもに為すことすべてであり、その影響を知るために膨大な労力が費やされてきましたが、いまだにその影響は確認されていないのです。