親の模倣

子育て神話が信じられている中、ハリスが疑問に思った体験が三つあり、その三つ目は、次のようなことでした。発達心理学者の多くは、子どもたちは自分がどう行動すべきかを、親と同性の親を観察し、模倣しながら習得すると考えました。この仮説はフロイトから受け継いだものです。フロイトはエディプス・コンプレックスもしくはエレクトラ・コンプレックスが解消されると、同性の親との同一視という形をとり、最終的に超自我が形成されると考えたのです。エディプス期の疾風怒濤を乗り越える以前の幼い子どもたちは、超自我が形成されていないためきちんと振る舞うことができないのです。

児童心理学者セルマ・フライバーグは、その著作が1950年代に人気を博しましたが、フロイトの考える社会化過程に賛同しました。何をすべきでないかはわかっていますが、自分の行動を抑えきれない微妙な時期にある子どもの行動を、彼女は次の逸話で表現しているそうです。

「母親は電話中で、台所にいたのは30カ月のジュリア一人だった。テーブルの上には卵の人ったボウルがある。ジュリアは無性にスクランブル・エッグをつくってみたくなった。…ジュリアの母親が台所に戻ったときには、娘は嬉しそうに卵を床にポチャポチャ落としては「ダメ、ダメ、いけまちぇんよ。ダメ、ダメ、いけまちぇんってば」と自分で自分を激しい口調で叱っていた。」

フライバーグはこのジュリアの「粗相」は超自我が形成されていないことの現われだと、おそらく彼女は母親を同一視していないのだろうと考えたのです。しかし母親が戻り、手を卵まみれにしたジュリアを見つけたときの、ジュリアの行動をハリスはじっくり観察してみました。ジュリアはスクランプル・エッグをつくりながら「ダメ、ダメ」と叫んでいたのです。それは、ジュリアは母親のまねをしていたのです。それでも母親は喜んではくれなかったのです。

実際、子どもは自分の親を模倣してもふさわしい行動様式を身につけることなどできません。なぜなら彼らの目に映る親の行動といえば、羽目をはずす、人に命令する、車を連転する、マッチをつける、思うままに行動するなど、それらを禁じられている人から見るとさぞかし楽しげに見える行動で、子どもには禁しられていることばかりだとハリスは言うのです。子どもの立場から見ると、初期の社会化とは、親のように行動してはならないことを学ぶことが中心となると言うのです。

では、あまり複雑化していない社会では同性の親を模倣することも多少有効に作用するのではないかと考えるかもしれませんが、それもそうではないと言います。非工業化社会では、大人として適切な行動と、子どもとして適切な行動はわれわれの社会よりもはるかにかけ離れているというのです。一例を挙げると、ポリネシアの村落社会では子どもは大人に対して控えめで従順であることが求められ、話しかけられた時だけ口を開くことが許されます。大人は自分の子どもに対しても、他の大人に対してもそのようには振る舞いません。ポリネシアの子どもたちは、自分の親を見習って織物の織り方や魚の捕り方を身につけますが、社会行動のルールはそうはいきません。多くの社会では、大人っぽく振る舞う子どもは生意気だと思われてしまうのです。