育児という行為は

育児という行為は、他のあらゆる生物にとってと同様、人類にとって、ごく自然な営みでした。人類が誕生以来、それぞれの時代の環境によってそのやり方は若干変わってきた部分もあったでしょうが、子孫に自分たちの遺伝子を残していくという点では、その営みの本質は変わっていないでしょう。では、それは単に本能かというと、人類の場合は違っているようです。それは、私は人類の子育てには「こころ」がそこに加わるからだと思っています。たとえば、「愛」を代表として、「期待」「憐憫」時には「嫌悪」という感情も関係してきたかもしれないのです。

そんな大人の思惑に対して、どんな気持ちであろうが、赤ちゃんは生きていくために自分を誰かに育児してもらわなければなりません。そのために、様々な手を使います。それはときには、大人に媚びることもあるかもしれませんし、大人の気をひくようなことをするかもしれませんし、時にはいらだたせることもしたかもしれません。しかし、大人を心から怒らせて、放っておかれては困ります。ですから、どのような行為も、決して、大人を怒らせようとはしていないはずです。それは、時にはいたずらに見えても、いけないことをするにしても、生きていく上で必要なことの行為であることには違いないのです。

目的は同じでも、その行為には個人差があります。その個人差は、生まれつきなのでしょうか?それともその赤ちゃんが置かれている環境によって、変わってくるのでしょうか?このことは、長く課題でした。生まれつきなのか?環境なのか?それは、「遺伝か環境か」と議論、研究されてきたのです。アメリカ合衆国の心理学者ジュディス・リッチ・ハリスという人がいます。彼女は、その問題にこんな見解を述べています。

「遺伝と環境、中国思想の陰と陽、人類にとってのアダムとイヴ、そして大衆向けの心理学ではママとパパといったところだろうか。高校生当時の私ですらその話題については、親に怒鳴られたときに、私の育ち方が気に入らないのなら、それはほかでもない、あなた方の責任なのだと教えてあげられるだけの知識を持っていた。彼らは私に遺伝と環境、その両方を与えたのだから。」

このような思いは誰でも経験したでしょう。そんな悪態を親に向けたこともあるかもしれません。この問題は、彼女はさらにこのように考えています。

「“遺伝と環境”昔はそう呼んでいた。今日ではむしろ“生まれ(nature)と育ち(nurture)”と表現することが多くなった。従来の用語もかなり強力だったが、慣用句的に使われるこの表現はさらに強烈なインパクトを与える。生まれと育ちによって支配されている。それは周知の事実であり、疑う者は誰一人いない。生まれと育ちによって、人間は駆り立てられ、形づくられる。生まれと育ちが今日の私たちをつくり、子どもたちの明日を決定するのだ。」

1994年に、ハリスは子どもの発達について、家族よりもピアグループ(同年代の友人・仲間たちとの関係)に焦点を当てた新しい理論を提唱しました。私がよく脳の機能拡大について、2,3歳のころにピアソーシャルスキルについての部分が拡大することを説明します。いわゆる2歳児クラスの頃に、子ども同士が徒党を組み、クラスみんなでなにかをすることを楽しむようになるということです。この理論を少し知りたくなりました。