神話からの解放

「子育て神話」に疑問を持ったのが、ジュディス・リッチ・ハリスです。その疑問を、一般の人にも持ってもらおうと考えました。それは、「神話」には、証拠を必要とせず、「子育て神話」がそれ以上のものではなく、それが単なる仮説にすぎないことを示そうとしました。次に、それは立証されていないということを皆に理解してもらおうとしました。そして、その代替となる見解を提供しました。この三つは他人に理解してもらうためにとても重要なことです。特に、「刷り込み」からの解放はなかなか難しいと感じます。また、「昔からそうだった」という伝承も、何の根拠がなく、昔といってもそれほど昔からではなくても、普遍的なものでもないのに、多くの人の中に根付いてしまっています。その中で、子育てに関するものも多くあります。その一つに、子どもには親がどのような存在であるかということがあります。
ハリスは、子どもがどのような人間へと育つのか、それを説明する新たな見解をしましたのです。常々、育児、保育という営みは「人生をいかに生きるべきか」という問いに通じるものがあると考えていますが、ハリスも、「子どもがどのような人間へと育つのか」という問いは、私たちが私たちであるのはなぜかという根本的な間いかけへの新たな解答案になると考えたのです。彼女は、まず、子どもにはどのような心が備わっているのか深く考えてみたのです。それは同時に私たち人類の進化について再考するきっかけにもなったと述べています。彼女も、どうも育児を考えるうえで、人類の進化について考察しようとしたのです。それは、現在における子育て、子ども観にとらわれないために、「別の時代、別の社会への旅」ということで、チンパンジー社会についても考察しています。私が、彼女にひかれたのは、こういうところにあるのかもしれません。
しかし、ハリスは迷います。それは、子どもにとって親の影響が大きいということについての証拠が多いからで、それは一目瞭然だからです。こんな例を彼女は出しています。たとえば、虐待を経験した子どもは親の前ではすっかり怯えてしまいます。親が気弱であれば、その子どもは親に対して好き勝手に振る舞います。親から道徳心を教わらなかった子どもは不道徳な行動に走ります。親が自分の子どもはたいして成功しないだろうと思えば、その子どもはさほど成功はしません。このような例はたくさんあります。
また、親が子どもに与える影響が大きいという証拠が凝縮されたような数千冊の本が出版されています。その例として、スーザン・フォワードなどの臨床心理学者による「毒親」という本があります。そこには、親の破壊的で永続的な影響が語られています。この本の中でいう「毒親」とは、過剰なまでに批判的であり、支配的で、愛情が足りず、また予期せぬ行動に出る人々で、自分の子どもの自尊心や自立心を軽視する、もしくは早すぎる自立を強要する親を指します。スーザンらは、そのような親によって傷つけられ崩壊していった子どもたちを目の当たりにしてきました。患者は心理的に追いつめられていますが、その責任はすべて親にあり、子どもたちが回復するためには親たちが、彼女らに対しても自分自身に対しても、「すべては私の責任であった」と認めることが必要なのだそうです。

神話からの解放” への8件のコメント

  1. 「「すべては私の責任であった」と認めることが必要なのだそうです。」それは、親として、ということに加えて一人の人間として求められるべき理解の度合いであり、全てを自己責任と捉えられるそのような価値観から発信される態度、言葉は、子育ての上でも、備わっている人格がそれを補い、「毒親」とされるような態度や行動をとることはないでしょう。子どもの所作、子どもの行動を気にかけるよりも、それを気にかけてしまうことから向上しない自身の成長に目を向けるべきであると思えてきます。

  2. 〝育児、保育という営みは「人生をいかに生きるべきか」という問いに通じるものがある〟とありました。保育とは?育児とは?という問いは果てしなく続く道のように答えを見つけるのは難しいことだと思いますが、「人生をいかに生きるべきか?」と同じだと捉えると、なるほど納得だと思いました。確かに、保育のことを考えようとすると、全てのことに通じていると感じてしまうほどにいろんな角度からみていけて、多様なものであるとこれまでの経験から学びました。
    それと、子育てや保育で成長していけるのは子どもだけではなく、お互いに成長していけるものであるのだと思いました。

  3. 子どもの育ちに携わる人々は、おしなべて、哲学が必要である、と私は思っています。そして、その哲学は時に、倫理学や人生訓にも通じるものがあるでしょう。ハリス博士が「私たちが私たちであるのはなぜかという根本的な問いかけ」をした所以は以上のところだと思います。「そもそも」という問いの大切さを述べています。そして、私たちが「そもそも」を訪ねる時、やはり行き着く先は「私たち人類の進化について再考する」ということでしょう。私は、そもそも論を展開できる場を好みます。その点、私はいわゆる「研究者」の列に加わることができず、またその「研究者」を仰ぎ見ることもできません。よって、自分自身で学んでいかなければなりません。「子どもにとって親の影響」というものは、少なからずあるでしょう。しかし、「親の影響」を最小限度に食い止める生き方もあります。少子時代になって、「親の影響」は「過保護」「過干渉」という形でどの時代にも増して顕著な気がします。子どもの自立を考えるなら、親が主体的である「家庭的」であってはいけない、と思っています。

  4. 刷り込まれたもの、育児や親という者はなど、確かに概念化されなかなか、変わることのないままあるように思います。皆は、こういってるけど、昔からやってるのはと、自問自答が目に浮かびます。また、”どうも育児を考えるうえで、人類の進化について考察しようとした”という観点は、目の前に広がる世界が答えではなく、人類の誕生からの進化の過程を知ることと、違う種との進化と比べることなど、人類が生きていくなかで必要だった力と関係していくことが考えられます。なにかを”知る”ために、自己を客観的に知る必要がある、角度が違うことで、新たな観点が生まれる、人が人を知るためには、固定な考えは捨てなければ、真心は生まれないことをかんじます。

  5. 神話と名の付く刷り込みや思い込みは代々受け継がれ、「昔からそうだった」というだけで、何の根拠がなく、昔といってもそれほど昔からではなくても、普遍的なものでもないのに、多くの人の中に根付いてしまっていることに危機感を覚えます。もう1度原点に立ち返って考え直す必要があるように感じてしまいます。
    「『すべては私の責任であった』と認めることが必要なのだそうです」とありました。親が子どもに与える影響が大きいからということもありますが、少なからず自責の部分がない親は「毒親」ということになるのでしょう。子ができれば、自分ファーストから我が子ファーストへと柔軟な移行が必要不可欠であるように感じました。

  6. 「毒親」読んでみたいですね。そこに注目しているわけではありませんが。はやり子育て考える上で突き詰めていくことの方向性は人類誕生なのですね。私は藤森先生の考えから人類の誕生の考えを知りました。同じようにたどる方がいるのですね。何度も言うように親になってみて気がついたら自分の真似をしていることもしばしばあります。「すべては私の責任であった」とあるように親としてそして人間としての責任をもたなけれびなりません。このブログの意味とは違っているかもしれませんが、そんなことを思います。難しいことではありますが…。

  7. 刷り込みというのは保育の世界でも多くあるように思います。「昔からそうだった」藤森先生が言われるように、大して昔でもないのに主張している気がします。親という存在も大切というのは分かりますが、愛着という言葉で変な親子関係が築きあげられているようにも感じます。「全ては私の責任だった」とても重い言葉ですが、確かにその通りかもしれません。しかし、今の社会を考えると、親とくに母親を追い込んでいるように思います。もう少し子育て家庭を支えられる社会が必要のような気がします。

  8. 今回のブログで、改めて子どもにとっての親の影響力の大きさを感じました。特に、「虐待を経験した子どもは親の前ではすっかり怯えてしまいます。親が気弱であれば、その子どもは親に対して好き勝手に振る舞います。親から道徳心を教わらなかった子どもは不道徳な行動に走ります。親が自分の子どもはたいして成功しないだろうと思えば、その子どもはさほど成功はしません。」という言葉は印象的でした。親になるということは、大変なことですし相当な覚悟が必要なのかもしれません。いつか、親になる日が来るかもしれません。その時には、子どもを育てることにしっかり責任を持った親になりたいです。

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