双子による研究

一般的な傾向その二は、抱きしめられることの多い子はやさしい子になり、叩かれることの多い子は難しい子になりやすいというものです。この文脈を逆に読んでも、同じようにまことしやかに聞こえます。すなわち、やさしい子は抱きしめられるようになり、難しい子は叩かれやすいということになります。抱きしめるから子どもがやさしくなるのか、それともやさしいから抱きしめられるのか、もしくはその両方が正しいのか。叩かれるから子どもが難しくなるのか、それとも難しい子だから親の堪忍袋の緒が切れてしまうのか、それともその両方が正しいのか。一般的に、社会化研究では、これらの前後逆転する解釈を区別する術はなく、その困果関係をはっきりさせることはできないようです。ですから、だれでも納得しそうな一般的な傾向その二は、立証されているようで、立証されているとはいえないとハリスは言うのです。

ギリシャ神話におけるカストールとポリュデウケースや、ローマ神話に開けるロームスとレムスのように、昔から双子の存在はそれを見る者、読む者を魅了してきました。行動遺伝子学者にとって、双子は研究材料として欠かせない存在でした。別々に育てられた双子である必要はありません。実際、行動遺伝学研究の対象となった双子の多くは同じ家庭で、同じ生みの親に育てられた双子たちだそうです。その双子たちをどのように研究するかというと、彼らを一卵性双生児と二卵性双生児の二つに分け、、一卵性双生児の類似性と二卵性双生児のそれとを比較することによって、双子のもつ特定の特徴が遺伝子に支配されているのか否か、もし支配されているとすればその程度を判断します。たとえば、体を動かすことへの指向性について調べるとします。もし一卵性双生児のそれそれの指向性が、二人とも常に活発に活動しているか、もしくはテレビの前にじっとしているかというようにかなり似ており、二卵性双生児間の類似性がそれより明らかに低ければ、その特徴には遺伝子の作用が関与していると立証されたことになります。

社会化研究者たちは、その根底にある仮説である「一緒に育てられた二卵性双生児二人の環境は一緒に育てられた一卵性双生児二人の環境と変わらず類似したものであるという考え方」は疑わしいとしてこの手法に反論しています。もし実際に一卵性双生児が同性の二卵性双生児よりも似た環境で育つのであれば、一卵性双生児において類似性が一段と高まるのは、似た遺伝子が多いからではなく、もしくはそれに加えて環境の類似性が高いことによるものであるとも考えられるというのです。

では一卵性双生児の方が二卵性よりも似た環境で育つのでしょうか。それは洋服の枚数やオモチャの数を比べればよいというものではないとハリスは言います。彼らそれぞれに注がれる愛情やしつけの程度が問題なのだと言うのです。同じだけ抱きしめてもらえているか。同じだけお尻を叩かれているのか。調査結果を見るかぎり、親は二卵性双生児に対してよりも一卵性双生児に対しての方がより似た態度を示すようです。思春期の双子たちに、親からどれだけ大切に、もしくは冷たく扱われたかと質問したところ、一卵性双生児は二卵性双生児よりも一致した見解を述べる傾向にあったそうです。一卵性双生児の一方が、親の愛情を感じたと答えれば、他方もたいてい同じように答えています。

赤ちゃんの反応

親子関係はそれ以外の人間関係同様、互いに影響し合う関係だとハリスは言います。それはすなわち、当事者にはそれそれ役割が与えられ、継続的にやりとりしていくことを意味します。この見解は、とても大切ですね。同時に、保育者と子どもの関係にも言えるようです。その二人が相互に作用しあうとき、一方の言動は部分的には他方の直前の言動に反応して発せられるものであり、また過去の言動への反応でもあると言えます。

幼い赤ちゃんですら親子関係に積極的にはたらきかけていることがわかっています。生後二カ月にもなると、赤ちゃんのほとんどは親と目を合わせ、徴笑み返すようになります。赤ちゃんの徴笑みほど心が満たされるものはないとハリスは言います。たいていの赤ちゃんは親の苦労をねぎらうかのように、親と視線が合ったときに満面に笑みを浮かべてその喜びを表現するのです。

しかし中にはそれをしない赤ちゃんもいます。特に自閉症の子どもたちです。自閉症の赤ちゃんは親と視線を合わすことはありません。微笑み返すこともなく、親の姿を見ても喜ぶそぶりを見せません。親としては自分の存在を喜んでくれない赤ちゃんを心から歓迎することは難しいです。視線を合わせてくれない子どもとつき合っていくことも難しいです。故ブルーノ・ベッテルハイムは、長年自閉症児のための施設を運営してきた人物だそうですが、自閉症の原因は母親の子どもへの愛情の欠如、冷淡さにあると主張しました。後日、そんな罪を着せられたある母親が公然とベッテルハイムを「家族全員を社会から追放し、苦悩を与えた恥すべき人間である」と呼び、抗議したそうです。べッテルハイムは残酷なだけではなかったのです。彼は間違ってもいたのです。自閉症は脳の障害によって起こるもので、生まれつきのものだということがわかっています。母親のあからさまな冷淡な態度が子どもの異常な行動を引き起こしていたのではないのです。母親の冷淡さは子どもの異常な行動に対する「反応」だったのです。

ジョン・ワトソンはきょうだいのそれぞれに違ったところがあれば、それは親の扱い方が違っていたからだと考え、その考えは子どものいないベンおじさんも同じでした。しかし、二人目の誕生からまもなくすると、子どもとは生まれながらにして違っているのだとほとんどの親は気づきます。子どもによって扱い方が違うのは、子どもたちがそれそれ違う特徴をもっているからなのです。怖がりは安心させ、無鉄砲な子どもには注意をうながします。よく徴笑む赤ちゃんはキスを浴び、遊んでもらえますが、反応の乏しい赤ちゃんは授乳時とおむつをかえる時以外はベビーベッドに入れられたままです。社会化研究者が関心を寄せているのは親が子どもに及ぼす影響です。親は子どもに影響を及ぼします。しかし、逆も真なりなのです。子どもも親に影響を及ぼしているのです。ハリスはそれを「子から親への影響」と呼んでいます。

一般的な傾向その二は、抱きしめられることの多い子はやさしい子になり、叩かれることの多い子は難しい子になりやすいというものです。この文脈を逆に読んでも、同じようにまことしやかに聞こえます。すなわち、やさしい子は抱きしめられるようになり、難しい子は叩かれやすいということになります。

二人のきょうだい

ハリスは、少し前にこんな体験をしたそうです。彼女が愛大と一緒に表の庭にいたときのことです。母親とその二人の子ども、五歳くらいの女の子と七歳くらいの男の子が通りかかりました。道には出ないようにしつけられている彼女の犬はフェンスまで走り寄り、三人に向かって吠えはじめました。そのとき、二人の子どもたちはまったく対照的な行動に出たそうです。女の子の方は犬に面と向かって「ねえ、なでてあげてもいいでしょ?」と母親に懇願しました。犬の敵意むき出しの行動にかかわらすです。母親はすぐさま「オードリー、やめなさい。ワンちゃんはそうしてほしくないみたいよ」と答えていました。一方、男の子はというと、道路の反対側まで逃げ、たとえ道路一本隔てていても犬の前を通る気にはなれす、怯えた様子で突っ立っていたそうです。「マーク、いらっしゃい。大丈夫よ」と母親は言いました。母親は心から彼に同情する表情の下に苛立ちを押し隠して彼を待っていましたが、マークが勇気をふりしぼりその母親のもとに戻るのには多少時間がかかりました。三人が歩き去ったあと、オードリーがマークをからかっている声が聞こえました。何を言っているかまでは聞きとれなかったそうですが、その口調からからかっているのは間違いなかったそうです。

マークがかわいそうだとは思ったそうですが、ハリスはむしろ母親の気持ちが痛いほど理解できたと言います。というのもハリス自身、まったく異なる二人の子どもを育てたからです。上の娘は彼女の父親やハリスがしてほしくないことをしたいと思うような子ではありませんでしたが、下の娘はまったくその逆だったそうです。一人目は育てやすく、二人目の子育ては、言ってみれば奥が深かったと言います。

ハリスのおじのベンには子どもがいないそうですが、自分のきようだいの孫娘たちのことはたいへんかわいがり、ハリスにもよく育児上のアドバイスをしてくれたそうです。娘たちがそれそれ12歳と8歳の頃に彼と交わした会話を今も思い出すそうです。それはハリスが下の娘の振る舞いについて彼に愚痴をこぼしていたときのことだそうですが、ベンおじさんが、上の娘のときにはそういう悩みをかかえなかったことを知っているのですが、ハリスに「それで、二人とも同しように扱っているのか?」と聞いてきたそうです。

「ふたりとも同じように扱っているかですって?」とハリスは返答に窮したそうです。子どもたち自身が同じではないのに、どうして同じように扱えるのだろうかと思ったそうです。行動も違えば、言うことも違う、才能も違えば、性格も違うのにです。マークとオードリーの母親も二人を同じように扱えるだうかと疑問を持ちます。もし同じように扱うとすれば、オードリーに対し、「ワンちゃんはそうはしてほしくないみたいよ」と答える代わりに、マークに行ったのと同じく「大丈夫よ」と言うでしょうか?

もしマークと母親が社会化研究に参加したとすれば、研究者はマークの母親を過保護と見るでしょう。しかしもしオードリーと参加していれば、研究者は母親を細かいところまで制限しすぎると評価したでしょう。研究者が目にする母親像は特定の子どもに対しての態度であり、一緒にいる子ども次第で得られる母親像は異なってくるというのです。ハリス自身も、一人目に対してなら甘い母親、二人目に対してなら支配的な母親のレッテルが貼られたことだろうと振り返ります。

親からの遺伝子

ハリスは、親子間の相関関係は概して低く、その低さでは親子で共有する遺伝子がその相関関係をすべて誘発したと考えてしまうのももっともであると言いますが、この説にどうも納得がいかないという人のために、トウモロコシに例えて説明しています。

数株のトウモロコシを植え、それぞれの実を収穫し、試食して甘みをみると甘みの強い実と弱い実があることに気づくきます。各株の穂軸を種用として保管し、翌年その種を蒔きます。甘みの強いトウモロコシから採取する種からは概して甘みの強いトウモロコシが収襲できます。すなわち、親のトウモロコシの甘みと子の甘みの間には相関関係が成立しています。その相関関係はすべて遺伝によるもので、親子間の類似性は子が親から受け継いだ遺伝子によって生じるものです。しかしその遺伝子は子の甘みの違いのおよそ半分にしかはたらいていないことになります。なぜなら、それ以外の要困、たとえば土質、水分、日当たりといった環境要因もかかわっているからです。このように遺伝は子ども間のばらつきのその半分にしかかかわっていませんが、親子間の類似性はそのすべてが遺伝によってもたらされたと考えることができると言います。

環境は子どもにも、トウモロコシにも影響を及ぼしています。私たち人類においては、性格の違いの半分は環境の違いに起困します。環境因子が子どもたちに影響を及ぼすと考えている社会化研究者たちは正しいとハリスは言います。しかし、彼らの研究によってその困子が明らかになると考えていた点に関しては間違っていたと考えています。彼らは遺伝の影響を考慮し忘れたために、その研究で証明すべきことを証明できていないのだというのです。子どもと親が遺伝子的なつながりによって似ることに一考の余地すら与えなかったのです。

一般的な傾向の一番目はたしかに正しいかもしれません。明朗で才気ある親の子どもは総じて明朗で才気ある子どもになります。しかしだからといって、子どもがどのように育つのかに親が遺伝子以外による影響を及ぼしているということにはならないのです。

典型的な社会化研究では、研究者はます被験者となる同じ年代の子どもたちで、そのほとんどの場合幼稚園や小学校の同しクラスから募集した子どもたちとその親を集めることからはじめます。次に面接やアンケートなどを通じて、また子どもと一緒にいる様子を観察することで親の育児態度に関するデータを収集します。どの調査方法であっても、親の育児態度は子ども一人に対しての態度のみが評価されます。

というのもこの種の研究ではひと家族につき子ども一人だけが評価対象となるからです。この手順は親の育児スタイルが一貫したものであれば、すなわち育児スタイルが目の色やIQのようにある程度永久不変な特徴であれば問題はありません。しかし親の育児スタイルというものはたった一通りに固定されたものではないのです。特定の子どもに対して親がどう振る舞うかはその子どもの年齢、容姿、現状、現在および過去の品行、知能、健康状態によって変わってくるからです。親は子どもに合わせて、育児スタイルを少しずつ調整していきます。育児とは親が子どもに施すものではありません。それは親と子の共同作業なのです。

50-50

人間の特徴の多くが行動遺伝学の観点から研究されていますが、総じて、被験者間の違いのほぼ50パーセントは遺伝によるもので、残り50パーセントが環境の作用であるということがわかりました。これはとりわけ驚くべき発見ではなく、予想どおりですが、1970年代にはじめてこのような結果が心理学の専門誌に掲載された頃には、まだアメリカの心理学は長引く行動主義の影響下にあり、遺伝の影響の存在を認めない傾向が強い時期でした。政治的にも国全体が遺伝の影響を否定する傾向にありました。生まれながらにして相違点が存在することは人類平等の精神と矛盾すると考えられていたのです。今考えると、そんな風に捉えていたのだと知ると、時代を感じます。それぞれの時代からすると、後から変な考え方でも、当然のように受け入れられ、信じられてきたことを考えると、今当たり前のように論じられていることが、後になると滑稽な話になることもあるかもしれません。

この遺伝・環境問題は政治問題にまで発展し、論争は激化していきました。当時行動遺伝学は不評な学問ではありましたが、遺伝のはたらきに関心があるからといって、それが特定の政治姿勢の象徴とみなされたわけではありません。熱狂的なリペラル派でさえ遺伝学に傾倒することもあったそうです。時世が移り、分子生物学が発展し、遺伝学も学問として認められるようになっていきました。次第に、行動遺伝学者もその数を徐々に増やしていったのです。

とはいえ、数では社会化研究者の方がはるかに上まわっていました。だからこそ多くの社会化研究者たちは行動遺伝学研究の結果を見て見ぬ振りができたのだろうとハリスは推測しています。その一方で、行動遺伝学者たちは社会化研究者の仕事を無視することはありませんでした。彼らは何度となく遺伝的影響が考慮されていない社会化研究の結論は総じて解釈不可能だと指摘しています。まさに正論だとハリスは言います。一般的な傾向のその一では、明朗で才気ある親の子どもは明朗で才気ある子どもになりやすいといっています。言葉を換えれば、これは子どもはその親に似る傾向があるということです。自分自身の生活をきちんと管理し、自分の子どもも含む他人と誠意をもって接する親の子どもは同様の特徴をもった子どもになりやすいと言います。

これは育てられ方によるものでしょうか、それと才気と誠意のある親から受け継がれた才気と誠意の遺伝子によるものなのでしょうか。それは相関関係を研究したところで解明できるものではありません。行動遺伝学者が行き着いた50-50説といわれる、50%が遺伝で50%が環境という説も、親子間の相関関係の半分が遺伝子で、残り半分が環境の影響によるものであるという意味ではありません。50-50説はたんに子どもの間に見られる誠実さなどの特徴のばらつきの半分が遺伝子に起因していると考えられるというだけのことであるとハリスは言います。子どもの誠実さと親の誠実さの相関関係、すなわち両者の類似性のうち、どの程度が遺伝によるものなのかについては何も触れられていないというのです。実際、親子間の相関関係は0.50をはるかに下まわっているのが普通だと言います。親子間の相関関係は概して低く、その低さでは親子で共有する遺伝子がその相関関係をすべて誘発したと考えてしまうのももっともであるとハリスは言います。

行動遺伝学

初期の行動遺伝学では養子研究は子どもが、遺伝子を授けた生みの親に似るのか、もしくは環境を授けた育ての親に似るのかを解明することを目的としていました。それを、子どものIQと親のそれとの相関関係を調べることにしました。しかし、最も知りたいところの性格となると、まったく意味をなさなくなりますし、親と子どもはそれぞれ属する世代が異なることから、社会文化の変化によって、親子間のギャップが拡大し、ますます共通項が少なくなります。

こうした問題点を避けるために、最近の行動遺伝学は同世代間の相関関係に着目するようになりました。子どもを育ての親や生みの親と比較するのではなく、子どもを養子縁組によるきょうだいや血のつながったきょうだいと比較することにしたのです。研究対象となるのは、血縁関係はありませんが、同じ家庭で育っている養子縁組によってきょうだいとなった二人と、生物学的なきょうだいの中でも一卵性双生児と二卵性双生児のペアです。

これにより、遺伝的類似性を次の三段階に分けることができます。一緒に育てられた養子縁組によるきょうだいは生物学的には無関係であり、二卵性双生児はおよそ半分の遺伝子を共有し、一卵性双生児は同一の遺伝子構造をもっています。このように遺伝的類似性では異なりますが、環境の類似性ではそれそれきようだいが同じ家庭で同し親に育てられているという点において大体一致しています。この逆の研究、すなわち遺伝的類似性を一定に保ち、環境の類似性を変えるという実験もまた可能ですが、そのためには別々に育てられた一卵性双生児が必要となります。しかし、そのような子どもたちを探すは非常に困難です。

社会化研究では、被験者は誰もが研究に参加する資格を有しているようなものですが、行動遺伝学研究のための被験者探しは楽ではないようです。典型的な行動遺伝学研究となると被験者として適格なのは養子と双子のみです。さらに社会化研究であれば一家庭から一人で事足りますが、行動遺伝学では一家庭から少なくとも二人以上の子どもを対象としなければなりません。

その研究によって、遺伝の影響は、二卵性双生児よりも一卵性双生児において、また養子縁組によるきょうだいよりも二卵性双生児において、強い類似性となって現われます。すなわち、遺伝の影響は、遺伝子を共有しないきようだいよりも共有するきょうだいにおいてどの程度類似性が強いか、その度合いを測ることで評定することができるのです。家庭環境の影響は別々の家庭で育ったきようだいよりも同一家庭で育ったきようだいにおいてどの程度類似性が強いか、その度合いを測ることで評定されるのです。

今日では人間の特徴の多くが行動遺伝学の観点から研究されるようになったそうです。その結果は明白で一貫性があります。総じて、被験者間の違いのほぼ50パーセントは遺伝によるもので、残り50パーセントが環境の作用であるということがわかりました。人は一人一人あらゆる点において異なる存在です。衝動性が強い人もいれば、より注意深い人もいます。愛想のよい人もいれば、理屈っぽい人もいます。衝動性の違いのうちその半分は人のもつ遺伝子に、残り半分は経験に由来します。愛想のよさも同じです。これは上記以外の心理的特徴のほとんどにも当てはめることができるようです。

養子研究

プードルを集団で犬舎で飼い、フォックスハウンドは溺愛するような飼い主に一頭ずつ預けアパートで飼ってもらい、それぞれの結果を観察します。その結果によると、確かにフォックスハウンドをプードルにすることはできませんが、アパートで飼われたフォックスハウンドは犬舎で飼われたそれとは違った行動をとるようになります。この実験の趣旨は遺伝(子犬がフォックスハウンドとして生まれるかプードルとして生まれるかを決定づける遺伝子)の影響を環境の影響から切り離すことだったのです。渦中の社会化研究のかかえる問題点は遣伝の影響と環境の影響を切り離していないことにありましたが、それはまた切り離せないものなのでだとハリスは言います。社会化研究の対象となる親子はそのすべて(もしくはほとんどすべて)が生物学的な親子です。その親子のDNAは、同し母犬から生まれた二匹のプードルのように酷似しています。親は子どもに遺伝子を提供しただけでなく、その子の環境をも提供しているのです。彼らが与える環境、すなわち彼らがどのような親であるかは、ある部分彼らのもつ遺伝子のはたらきなのです。それゆえに親が与えた遺伝子の作用と環境の作用を区別することなどできません。社会化研究者たちはフォックスハウンドとプードルの違いを、子犬同士を人れ替えることなく解明しようとしているようなものだと言うのです。

赤ちゃんを科学的な目的のために入れ替えることなどできませんが、別の理由では入れ替わることがあります。それは、養子縁組です。養子に出された子どもには親が二組います。一方は子どもに遺伝子を授け、他方は環境を授けます。養子研究は行動遺伝学研究の手法の一つだと言われています。彼らの研究の目的は遺伝による影響を環境による影響から切り離すことです。社会化研究者同様、行動遺伝学者にもまた密かに決められた段取りがあります。それは遺伝の影響は一考に値することを証明することであり、ジョン・ワトソンの間違い、すなわち幼児は粘土のように自在につくり替えることのできる存在ではないことを証明することなのです。

初期の行動遺伝学では養子研究は子どもが、遺伝子を授けた生みの親に似るのか、もしくは環境を授けた育ての親に似るのかを解明することを目的としていたそうです。そこでもっとも注目された特徴がIQだったのです。生物学的なつながりのある家族の場合、子どものIQは親のそれと相関関係にあり、平均以上のIQをもつ親はその子どもも平均以上になる傾向にあるそうです。初期の研究目的はこの相関関係が主に遺伝によるものなのか、それとも知的な親が授けるであろう刺激的な環境によるものなのかを解明することでした。もし養子の子どもたちが生みの親により似るようであれば、遺伝の勝利、もし育ての親により似るようであれば、環境が勝者となります。

この技法は研究対象がIQであれば、それなりに理にかなっていますが、最も知りたいところの性格となると、まったく意味をなさなくなります。聡明な親に育てられた子どもはIQが高くなると考えることは理にかなってはいますが、たとえば支配的な親に育てられた子どもが支配的になるとは考えにくいです。支配的な親に育てられれば、子どもはおとなしく消極的になるかもしれないからです。さらに問題となるのは、親と子どもはそれぞれ属する世代が異なります。すなわち違う時代を生きているという点です。社会文化が変化すれば、親子間のギャップが拡大し、ますます共通項が少なくなるのです。

自明の理

ハリスは、研究成果を出すために、有意性がまったく現われなかったとき、データをいくつかに分割してみればいいと言います。すると、有意な相関が現れる確率が高くなるからです。それをハリスは名づけて「分けるが勝ち」手法と言っています。しかし、この手法によって公表に値する結果が得られることも多いのですが、それを論文にまとめることはまさに至難の業だと言います。しかし、もしある相関関係が一つの調査で運よく有意になったとしても、次の研究では有意にはなりにくいのです。複雑な結果は同様には続かないのが普通だというのです。

とはいえ、社会化研究の結果がすべて偶然や運、巧みなデータ分析、そして望ましくない結果は記録に残さないといった手法によって引き出されたものばかりではありません。ハリスは、ここに、頻繁に出現する二つの相関関係は、その頻度からこれらの関係は実在すると確信していると言います。強い相関関係ではありませんが、どの研究にも一貫して同じ傾向がみられるからだと言います。その傾向とは、まず、一般的な傾向として「親が自分自身の生活をきちんと管理し、他人ともうまくやっていける家庭の子どもは、同じように自分の生活をきちんと管理し、他人ともうまくやっていける傾向にある。逆に親が自分自身の生活や家庭や人間関係に問題をかかえていれば、その子どもも同じような問題を抱える傾向にある。」というものであり、もう一つは、「愛情を注がれ大事に育てられた子どもは、いい加減に育てられた子どもよりも自分自身の生活管理も人間関係もうまくやっていける。」というものです。

「まさにそのとおり」と社会化の研究者たちは口を揃えるだろうとハリスは言います。彼らはこのように好んで事象を一般化し、それを根拠として自分の確信を強めるからです。彼らにとって、明るく才気ある人の子どもが明るく才気ある人間に成長するのは、子どもが家庭で何を学習し、両親からどのような扱いをされたかを考えると火を見るよりも明らかだと確信しているからです。子どもが大事に扱われれば立派に成長する、そしてその子どもが立派に成長するのはこのように扱われてきたからだということも自明の理だと主張するのです。

また、こう信じているのは社会化研究者たちだけではありません。人々はほとんど皆そう信じていると言うのです。しかし、ハリスは、そのような先入観を捨て、これから述べるその言説の証拠とされているものを再検証してもらいたいと願っています。

フォックスハウンドがプードルのように行動しないのは、それそれ性格が違うからです。「育ち」によって性格が規定されると考える人は、フォックスハウンドは数十匹単位で一緒に犬舎で飼われていましたが、プードルは都会のアパートで飼い主のべッドを寝床として飼われていたことを指摘するでしょう。それに対し「生まれ」によって規定されると考える人ならあざ笑いながら「フォックスハウンドをアパートで飼ってもプードルにはならないし、それではせっかくのフォックスハウンドが台無しになってしまう」と言うでしょう。このような実験は可能です。プードルを集団で犬舎で飼い、フォックスハウンドは溺愛するような飼い主に一頭ずつ預けアパートで飼ってもらい、それぞれの結果を観察します。その結果によると「育ち」派も「生まれ」派も正しいことがわかります。確かにフォックスハウンドをプードルにすることはできませんが、アパートで飼われたフォックスハウンドは犬舎で飼われたそれとは違った行動をとるようになります。

社会化研究手法

社会化研究で、子どもの知能の向上と環境要因の相関関係を研究することになったとします。その時の方法として、まず子どもに知的刺激を与えるような環境を提供する親の子どもはより賢くなるとの仮説を立て、その仮説を検討します。つまり、実証できるようにするためのデータ収集に着手します。測定するのは家庭環境の知的刺激度と子どもの知能です。環境要因の簡単な目安としてその家庭内の絵本を数えることにし、知能の目安としてIQを測定します。

しかし、この研究には問題があります。ここでの目的は子どものIQのばらつき、すなわちIQの高い子もいれば低い子もいるし、平均的な子もいるという事実を別の変数、ここでは家庭内の絵本の数から説明することです。もし当初の仮説が正しければ、本の多い家庭の子どもはIQが高く、本の少ない家庭の子どもはIQも低く、平均的な数の本がある家庭の子どもはIQも平均的になります。すなわち、IQと本の数との間に正の相関関係が見られることになるはずなのです。

完全相関(相関係数が1.00)となった場合には、家庭内の本の数のみから子どものIQを正確に予測できることになります。実際には完全相関になることはなく、係数が0.70や0.50、さらには0.30くらいであれば、十分満足すべき結果となります。相関係数が高ければ高いほど家庭内の本の数から子どものIQを正確に予測できます。また相関係数が高いほど、統計的に有意である可能性も高いことになります。とはいえ、相関係数が低くても被験者の数が多ければ統計的に有意になることもあります。ハリスが最近読んだ論文の中に被験者数374で有意な相関係数が算出されたとの記述があったそうですが、その係数は0.19だったそうです。その研究は「子どもたちが親のいる前でどれだけ反抗的で非協力的な行動をとるのか」と「その同じ子どもたちが仲間集団内ではどれだけ反抗的で非協力的な行動をとるのか」との相関関係を調べたものだったそうです。0.19という相関係数では、たとえそれが統計的に有意であったとしてもほとんど意味をなしません。これだけ相関係数が低ければ、ある変数から他方のことはほとんど何もわからないのです。ある子どもが親のいる前ではどれだけ厄介な子どもであるかわかっていたとしても、そのことからその子が仲間集団内でどの程度厄介な行動に出るかは実際、何もわからないのです。

しかし、社会化研究で被験者が374名も集まることはまれなそうです。その一方で社会化研究のほとんどは先のIQと本の数の研究よりもはるかに多くのデータを各被験者から採集します。家庭環境一つでも、通常は複数の測定方法を導人します。作業は大変ですが、それだけの価値はあります。仮にある家庭に関して五つの異なる測定方法を、そして子どもの知能に関しても五つの異なる測定方法を用いたとすると、合計25通りの組合わせが可能となり、25もの相関関係が算出されるからです。確率論からいってもそのうち一つか二つが統計的に有意になることは十分考えられます。それでも有意性がまったく現われなかったとしても心配することはないのです。手段がなくなったわけではないからです。あのブロッコリの研究のようにデータをいくつかに分割してみればいいのです。男女別にするだけで相関の数が倍の50通りになり、有意な相関をわずか25通りの中からだけでなく、50通りの中から見つけ出せることになります。父親と母親に分けてみるのもいいだろうとハリスは言います。彼女は、これを名づけて「分けるが勝ち」手法と揶揄しています。宝くじを買うときと同じ要領で、すなわち倍買えば、当たる確率も倍になるというわけです。

よい子

社会化研究者たちは、根底に、育児スタイルには「よい」ものと「悪い」ものがあり、よい育児スタイルを実行している親の子どもは悪い育児スタイルの親の子どもよりも、よい子に育つという先人観があるとハリスは言います。子どもには愛情をたっぷりと注ぎ、その子を十分に認めてあげること、体罰やけなすような発言は控える、一貫性のある態度でのぞむこと、などです。同時に子どもに何を望むのかについてもある程度はっきりしています。「よい」子とは明るく、協力的で、ロポットほどではなく適度に従順で、無謀すぎず臆病すぎず、学業成績もよい、友だちも多い、そして正当な理由もなく人を叩いたりしない子どもです。

確かに私たちは、子どもに対して先入観を持っています。子どもらしさとは、元気な子どもとはなどです。よく、保育目標に「元気で明るい子ども」と掲げてある園を見かけます。以前、ブログで紹介したと思いますが、私の娘が小学校の中学年のころだったと思いますが、さくらももこの本のある部分を見せられました。そこには、さくらももこが小学生の頃よくお母さんに言われていたこんなことが書いてありました。クラスにサッカーの上手な長谷川健太君という子がいました。彼はサッカーが上手なだけでなく、勉強もよくできて、近所でも評判のいい子だったそうです。さくらももこは、お母さんに「健太君は、暗くなるまで外で元気に、真っ黒に日焼けしてサッカーをしている。それに比べて、あなたは背中を丸めて、机に向かって漫画ばかり書いている暗い子だ。少しは健太君を見習いなさい。」というようなことを言われました。その時にさくらももこは、おかしいと思います。健太君はサッカーが好きな子、それに比べて私は漫画を描くのが好きな子、どちらも自分の好きなことをしているのに、健太君は、「いい子」で、私は「悪い子」というのはおかしくないか?というような内容だったと思います。人は、いい子、子どもらしい子、元気な子という先入観があるようです。

生活スタイルや育児スタイルいずれの研究においても、研究者たちは生活もしくは育児におけるある様式の優良性とそれがもたらすであろう結果(健康状態もしくは子ども)の優良性に関するデータを集めます。そして双方の研究の目的はともに、正しい行為が望ましい結果をもたらすことを証明することです。双方の研究の結果は相関関係として表わされますが、この相関関係は元来あいまいな概念なのです。

ハリスは、疫学者の功績を批判しましたが、だからといってプロッコリの摂取をやめて、怠惰でわがままな生活に戻ってよいことを示唆するつもりはないと言います。ハリスは、彼らには申し訳なかったといいながら、ここで話を社会化研究に戻しています。仮に子どもの知能の向上と環境要因の相関関係を研究することになったとします。まず子どもに知的刺激を与えるような環境を提供する親の子どもはより賢くなるとの仮説を立て、その仮説を検討します。つまり、実証できるようにするためのデータ収集に着手します。測定するのは家庭環境の知的刺激度と子どもの知能です。環境要因の簡単な目安としてその家庭内の絵本を数えることにし、知能の目安としてIQを測定します。これらの測定値は元来の目的である特徴を大ざっぱにとらえただけのものですが、そのまま数値として表現されていることから数値への変換作業が省け便利です。