何のための子ども期?

「成人期の準備としての子ども期」仮説を、おそらく最も大きく反映しているのが性差だと言われています。そこで、成人の機能を扱う進化心理学者は性差に焦点を当てることが多く、男性と女性は異なる自己利益をもつため異なる心理を発達させてきたと仮定します。これは特に配偶行動や育児、同性間競争に関する性差に現れていると言います。しかし、これらの行動や傾向、思考過程は、思春期のホルモンによってはじめて突然に現れるのでも、生まれたての子どもの泣き声を聞けばすぐに現れるのでもありません。こうした行動や傾向、思考過程には発達的な歴史があり、子どもは進化による性質を基盤として、性特異的な行動をその場の規範に合わせていくと考えられているのです。

今までのブログでも、ビョークランドの考える子ども期における性差の例を繰り返し紹介してきました。この性差は男性と女性の成人役割、もっと的確には、進化適応の環境における先祖を特徴づける「伝統的な」性役割の準備をしているように見えます。その例が異なる遊びのスタイルだというのです。就学前の時期に始まり、すべての文化において、男児、そして、多くのヒト以外の哺乳類のオスは、女児よりも取っ組み合い(R&T)遊びを行う傾向が高いのです。R & T遊びにあるとされる機能のひとつは、 R&T遊びと成人の行動の類似性をもとに考えると、男性が行う成人の戦いと狩りの準備であるということです。一方、女児は男児よりままごと遊び、たとえば、人形遊びをすることが多く、女児の遊びは身体にもとづく優劣関係に重点がおかれることは少ないようです。これは女性が主に子どもの世話をすることと関連している、そして、成人男性の関係は身体的な優位性にもとづく傾向が強いという進化による性質と見なされています。とりわけ攻撃性や競争、リスクティキング、空間認知、行動抑制に関する子ども期の性差は同様に、男児と女児で成人の生活への準備が異なることを反映していると仮定されているのです。

進化発達的な視点からすると、種全体にわたるこのような性差は、いかなる生物学的決定論の考え方にも当てはまりません。むしろ、進化による後成的な規則によって男児と女児にバイアスがかかり、異なる環境と経験をもつようになると考えられます。そして、それらのバイアスを文化が支えている限り、子どもは「正しい」方向、つまり、何世代にもわたって繁殖的な成功と結びついてきた成人の行動へと導かれていくと言うのです。しかし、そういった進化によるバイアス自体は、発達的パターンを作り出すには十分ではありません。ヒトの行動は非常に柔軟であり、ある結果が他の結果よりも起こりやすいとはいえ、それが実現するには環境的な支えを必要とするのです。

乳児期や子ども期の多くの側面は成人期の準備と見なすことができますが、それがすべてではないというのです。乳児期や子ども期の多くの特性は、子どもが後の生活の準備をするためではなく、発達のその時期にだけ適応的な機能を果たすよう進化において淘汰されてきたと考えられています。ビョークランドらは、成人してうまく生きていくのに役立つ情報を学習するひとつの方法として遊びを捉えています。しかし、遊びの多くの側面には即時的な機能があるとも考えているとも言います。遊びによって運動と、自分の現在の環境に関する知識が得られ、社会的階層を確立し、コホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能するのです。

何のための子ども期?” への9件のコメント

  1. 「進化による後成的な規則によって男児と女児にバイアスがかかり、異なる環境と経験をもつようになる」生まれてすぐつけられる名前その呼び方や着る服、そういったものもバイアスとされるのでしょうか、そう思うと確かに男児は男児、女児は女児として大人は扱い、環境は構成されていきます。当然遊ぶ玩具も、その子が何を欲するもない段階で用意されていることもあるでしょう。自然と男児の遊びが、また、女児の遊びがそれぞれに傾向を持っていることは何となく曖昧ながら認識をもっていたように思うのですが、なるべくしてなっているという部分が大いにあるということを知りました。

  2. 男女の性差も初めからあっても、後の環境やバイアスによって男性は男の子のようなことを好むようになり、女性は女の子のようなものを好むようになっていくんですね。そうして、「正しい方向」とありますが、種としての繁栄に自然に淘汰されている、よく考えていくとすごいことですね。
    さらに、〝ヒトの行動は非常に柔軟であり、ある結果が他の結果よりも起こりやすいとはいえ、それが実現するには環境的な支えを必要とする〟オオカミ少年の例えはその特異な例となるのでしょうか。環境の影響は人間が柔軟に対応できるだけに、どれだけでも影響を受けるし、環境を変えていけるのも人間自身であり、重要であることを再認識しました。

  3. 異年齢で遊べる保育環境にあっても、たいていの子どもたちは、ほぼ発達の同じ子、同年齢と遊ぶことが多いようです。「コホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能する」とありました。同発達グループ階層における自分の位置確認、ということなのでしょうか?「自分の立場」を知る、ということは、その後の社会生活において重要なファクターとなることでしょう。今回のブログ前半部分では、性差のことが記述されていました。私は、この性差認識は重要だと思っています。男のくせに、とか、女のくせに、というバイアスは如何なものかと思ってしまいますが、性差を意識することは乳幼児期の環境づくりに大切なことなのではないか、と思いました。幼児の保育環境には、「攻撃性や競争、リスクティキング、空間認知、行動抑制」等々を意識したものが必要になってくるのでしょう。こうした観点から保育環境を考える癖を現場に携わる私たちは身に付けていきたいものだと思いました。

  4. “乳児期や子ども期の多くの特性は、子どもが後の生活の準備をするためではなく、発達のその時期にだけ適応的な機能を果たすよう進化において淘汰されてきた”というこども期における発達に見られる遊びとは、このような捉えかたをすると、今をよりよく生活するためにどうするべきか、また、今はどのようにするのか自身にとっての利益を遺伝子的に感じとりながら生活しているように思います。遊びを通すことで、自分の社会的立ち位置を知る機会になることを考えれば、多様な関係のなかで、生活すること、遊びを行うことによって、様々な環境を通した学びがあることを感じました。

  5. 女児より男児に多いR&T遊びは「成人の行動の類似性をもとに考えると、男性が行う成人の戦いと狩りの準備である」のに対し、男児より女児に多いおままごと遊びでは「女性が主に子どもの世話をすることと関連している」のですね。これらを今回のタイトル「何のための子ども期?」に当てはめて考えると、この性差における傾向が後の人生で必ず必要になってくるものに役立つ力を身につける、環境を通して引き出していく時期とも言えるように感じました。また「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能するとあったことが印象的で、遊びというのは実に多様であり、様々な角度から発達にアプローチできる万能さを感じたりしました。

  6. 「オスは、女児よりも取っ組み合い(R&T)遊びを行う傾向が高いのです」「女児は男児よりままごと遊び、たとえば、人形遊びをすることが多く」と以前も取り上げられた話題ですが、今日お手伝い保育があり、年長の子たちの性差というのが見えていたことを思い出します。公園で男の子が虫を見つけてきて見せてあげる行動とおままごとや、靴を履かせてあげる行動が女の子から見られました。狩と生活とで別れている感じが見てとれるのは現場の強みなのでしょうね。「遊びの多くの側面には即時的な機能があるとも考えているとも言います。遊びによって運動と、自分の現在の環境に関する知識が得られ、社会的階層を確立し、コホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能するのです。」というのは気になるところです。

  7. 人生において「子ども期」を考えると、数年間の時期だと思います。その数年間の時期で何を学び、その後の生活の準備など、大切な時期だという事が理解できます。ブログを読みながら目の前で遊んでいる子ども達、または我が子の姿を見て、楽しそうに遊んでいる風景を見て、この時期の遊び、生活がその後の人生はもちろん、今、この瞬間でも子ども達は学んでいる事が多いという実感が改めて湧いてくるのですが、その中で自分には子ども達の「子ども期」の時期に何ができるのか?常に考えて関わる必要があります。

  8. 「とりわけ攻撃性や競争、リスクティキング、空間認知、行動抑制に関する子ども期の性差は同様に、男児と女児で成人の生活への準備が異なることを反映していると仮定されているのです」とありました。そして、「進化による後成的な規則によって男児と女児にバイアスがかかり、異なる環境と経験をもつようになると考えられます」とあるように、その後の環境が性差を決定する役割になっているということが言えるのですね。時代によって男女に求められる役割というのは変化しているように思いますが、その時代の中で生きていくための役割ということも重要になってくるのかもしれないなと感じました。また「遊びによって運動と、自分の現在の環境に関する知識が得られ、社会的階層を確立し、コホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能するのです」とありました。ということからは。子どもの遊びには他者の存在は不可欠であるということを表しているように感じます。一人で遊ぶことが悪いことではありませんが、やはり重要なのは子ども同士ということになるのかもしれませんね。

  9. 「乳児期や子ども期の多くの側面は成人期の準備とみなすことができますが、それがすべてではない」とあります。子どもの遊びは成人期の準備だけではないのですね。即時的な機能として「遊びによって運動と、自分の現在の環境に関する知識が得られ、社会的階層を確立し、コホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場所として遊びは機能する」とあります。このことを受けると現在の機能、今の環境として「社会的階層」といったものが実感としてあるような環境を作らなければいけないのですね。現在の保育や教育現場の年齢別であるとヒエラルキーが固定化される危険性があり、かなり狭い社会的階層になるのが目に見えています。異年齢であれば、前回のブログでもあったように「押さえつけられる経験と押さえつける経験」といった流動的なヒエラルキーになります。やはりこのことは子どもの成長や発達にとっては非常に重要なものですね。今の子どもを取り囲む状況はヒトの進化の中でもおかしな現象を生むような状況なのかもしれませんし、コミュニケーション能力や道徳心というのもこういった環境によって今の問題につながっているのかもしれません。

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