遊びの変化

子どもは歴史、そして先史時代を通じて、他の社会的な哺乳類の子どもと同様に、遊ぶ機会を与えてくれる環境を「期待」することができました。しかし、今日では、子どもが育つ環境の多くは、古代の環境よりも安全で、肉体的には大変ではないかもしれませんが、学校教育の必要性、「組織化した」遊び、たとえば、リトルリーグの大人の監督、テレビ鑑賞など座ったままの活動の誘惑によって、現代の子どもの多くが経験する遊びの量と質が変わっています。それがひるがえって子どもの発達に微妙な影響を与えているとビョークランドは指摘しています。「遊びは子どもの仕事」というのは決まり文句ですが、遊びは子ども期に特に適応したもののようであり、子どもが行うよう「意図」されています。このことを念頭におけば、遊びを犠牲にしてまで、 1つの目標を達成するために子どもの環境を変えてしまう、たとえば、学校での学習をより焦点化したものにするまえに、もう一度よく考える必要があることがわかるだろうとビョークランドは言うのです。

彼はこれまで考察してきたように、単に「遊び」が子どもにとって大切であるということではなく、どのような遊びが、どのようなために大切なのか、また、それらの遊びはヒトの進化の過程でどのような役割を持ってきたのかを見つめなおさなければならないということを言っているのです。それは、進化から見て大切な遊びの多くは、現代の環境に中では必ずしも奨励されていないからです。それどころか、大人にとって迷惑なものであったり、社会にとって迷惑なものであるというような大人の価値観からその是非が問われてしまっている部分が多いような気がします。

怪我をするから、うるさいから、勝手なことをするから、などという理由から、子どもにとって大切な遊びが制限されてきているのです。さらに、それらの行動は、情緒が安定していないとか、落ち着かないということで、しっかりと特定の大人の監視のもとに置かれ、大人好みの子どもにしてしまっているのが、特に少子国家では見られるようになっている気がします。小学校における道徳の教科化も、もしそのような意図があるのであれば、子どもたちは、将来、社会を形成する一員としての資質が育たなくなってしまうのではないかということを危惧します。

発達心理学は、細分化された領域であり、多様な下位区分やさまざまな理論的見解が対立しているように見えることが多いと言います。認知発達の専門分野など一見関連性の高い分野でさえ、学者間のコミ、ニケーションは乏しいことが多く、ある特定分野の発達科学者、たとえば、ワーキングメモリなどの基本的なプロセスを研究している者は、他の発達学者、たとえば、メタ認知を研究している者の研究を評価したり理解したりできないようです。メタ認知や心の理論など、高次プロセスを研究している者は、「意味」のレベルよりずっと下の分析に還元しても細かいことがわかるだけで、理解はほとんど進まないそうです。基本水準のプロセスを研究する者にとっては、自己認識やメタ記憶などの明確に定義されていない概念の検討に時間を費やすことは、哲学的には満足しても科学的には空疎だと考えているそうです。そして、学者たちが他の学者の研究に利点があると思ったとしても、分析のレベルが違いすぎて共通の興味を抱く余地はほとんどなく、特に語り合うこともないことが多いそうです。

遊びの変化” への8件のコメント

  1. 「少子国家」であるからそうなのか、そうであるから「少子国家」なのか、どちらにしても陥っているスパイラルがあるように思えてきます。先日近くの公園に大きな水溜りができ、子どもたちがザブザブと中に入って遊ぶのですが、それを見た近所の子が入りたいものの保護者から制止され、仕方がないからお尻はつけてはだめだとの条件つきで許可がおり、案の定お尻が濡れて怒られて、親としては何なら遊びを介して関わりが生まれてもと思うところなのですが、相手の子がこれ以上濡れてしまってもと思ったりもして、子どもの遊び自体もそうですが、その関わりも保護者の考え一つで本当に広がりをもたないものになり兼ねないと、その時は自分への戒めのようにその光景を見ていました。

  2. 〝大人好みの子どもにしてしまっているのが、特に少子国家では見られるようになっている〟とあり、昨今のニュースを賑わせている様々な問題はこの辺に原因があるのではないかと考えさせられるところです。大人好みに仕上げ、型にはめようとすると必ずひずみが生じてしまうということであるのは今や明白なものですね。
    難しいところの判断など親になり、子どもをみる立場になって初めて気付くことなど多々ありますが、後の日本を、世界を作る人材を育てていると思うと大人としてどのように振る舞うのか、接する際にどんな心構えが必要なのか等、いろんなことに気づき、意味を考えなければなりませんね、

  3. 最後の段落部分は、自分自身の過去の経験に照らして、大いに頷ける内容でしたね。また、頷けるような経験をしたこと、今となっては、良かったのかな、と素直に思えます。そして、現在、乳幼児教育現場で働いていて、最後の段落部分に関して云々する研究者各位のお話を聴きながら思うことは、そうした細分化されたお話を総合して実践することが私たちの責務なのだろう、ということでした。そういった意味で、乳幼児教育の現場で一人ひとりの子ども、一人ひとりの職員そして保護者、地域の皆さんに接する私たちは、様々な話を総合しながら子どもの最善の利益を保障することを考えなければならないだろうなと何となく思ったところです。「しっかりと特定の大人の監視のもとに置かれ、大人好みの子どもにしてしまっている」このことが細分化された研究成果によってもたらされているとしたらどうでしょう?特に乳幼児教育の現場が「専門性」の旗印のもと、こうした実践をしているとするならどうでしょう?それは一体誰のため?何のため?

  4. “遊びを犠牲にしてまで、 1つの目標を達成するために子どもの環境を変えてしまう”という観点を持つことによって、考えなければならないのがやはり、遊びという環境がどのように発達に必要なのかを考えることが必要性になることを感じます。大人にとってのこうなってほしいや大人が思う子育てしやすい子どもに育つことができるように様々な環境が大人好みに改良されることを考えれば、”将来、社会を形成する一員としての資質が育たなくなってしまう”ことへつながっていくことをもっと重要視しなければならないと感じます。日本での保育のあり方は、やはり、指針に沿った個人的な意見を中心としない子ども主体の保育を念頭に置くことがスタンダードになることが重要だと改めて考えることができます。

  5. 「単に遊びが子どもにとって大切であるということではなく、どのような遊びが、どのようなために大切なのか、また、それらの遊びはヒトの進化の過程でどのような役割を持ってきたのかを見つめなおさなければならない」とありました。そこを追求することで、「遊びを犠牲にしてまで、 1つの目標を達成するために子どもの環境を変えてしまう」ことがいかに不効率であるかを定かにできるように思えました。早期教育が目立つ世の中になってきているように感じますが、何より大事なのは子ども期の遊びであることをもっと周知していくべきであるように感じてしまいます。親の都合であったり、親が自分の化身のように子どもを思うがままの路線に乗せようとするのではなく、好奇心の赴くままに遊びを通してやりたいこと、追求していきたいことを見つけられるような環境が重要であるように思えました。

  6. 「単に「遊び」が子どもにとって大切であるということではなく、どのような遊びが、どのようなために大切なのか、また、それらの遊びはヒトの進化の過程でどのような役割を持ってきたのかを見つめなおさなければならない」というのはハッとさせられます。冒頭の方にあるように現代の遊びというのは危険だから、うるさいからと言った理由で制限がかかりすぎているように勝手に思っています。空き地のようなところは最近ありませんし、大人の目というが強く感じるところです。ただ、そういったところでしっかりと遊び込める育ちも大切ですので、沢山の相互作用が重要なのもわかるので難しいですね。最後の研究者たちの事情といいますか、なんだか世界の違いを感じます。

  7. ブログを読みながら藤森先生のドイツ報告の中で、子どもは気を登る権利がある、という言葉を思い出しました。真ん中の段落で大人が子どもの遊びを制限していると書かれてありますが、息子と公園に行くと、つい注意をしてしまう自分がいるのを思い出しました。しかし長男は自分が思っている以上に成長しており、気づくと今まで出来なかったこと、新しい事を難なくしている姿を目の当たりにし、もっと見守る必要があると感じた時間でした。大人好みの子ども像でなく、子どもらしい子ども像が子ども達自身で描けるような、そんな関わり方が必要ですね。

  8. 「リトルリーグの大人の監督、テレビ鑑賞など座ったままの活動の誘惑によって、現代の子どもの多くが経験する遊びの量と質が変わっています」という表現はおもしろいですね。現代の子どもがおかれている状況というのを表していますね。また「遊びを犠牲にしてまで、 1つの目標を達成するために子どもの環境を変えてしまう」というのも印象的でした。乳幼児施設であるのに、この遊びに重きが置かれておらず、何か目標を達成する為に、子どもが多くの時間を費やしているという施設も少なくはないのかもしれません。そして「しっかりと特定の大人の監視のもとに置かれ、大人好みの子どもにしてしまっているのが、特に少子国家では見られるようになっている気がします」というのも考えさせられます。これが強すぎてしまうのが、保育でいうところの計画や目的、ねらいが強すぎしてしまう保育なのかなと感じました。

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