特性依存

ファンタジーの研究者は、ファンタジーは遊ぶ者同士がお互いの心的状態について知っている必要があると指摘しています。しかし、私たちの知る限り、子どもが他者の心的状態についてわかっているか、という問いを立てても、通常、ファンタジー遊びと大半の行動研究における他の形式の行動とを区別できないと言います。研究で用いられている基準は、単純にふりをしているかどうかという点だけであると言います。意図と抽象化のレベルは別の問題であると言います。

動物が他者の意図性を理解するようになるメカニズムは、ベコフによると、ヒトの乳児における意図の理解の基礎に対するゴプニックとメルツオフのメカニズムに類似しているそうです。この考え方では、自己と他者をつなぐクロスモーダルな表象システムがあるとしています。他者の体の動きは自分の運動感覚に位置付けられますが、それは新生児が模倣をするときの仕組みと全く同じだそうです。これは、個体が他者の行為を自分の行為と一体化させる際の基盤となっている可能性があると言います。

ヒト以外の社会的な哺乳類のなかには、何らかのファンタジー遊びをする種もいるかもしれないという指摘は刺激的であり、推論の域を出ないものの、十分考慮すべきであることをビョークランドは繰り返し主張しています。さらに、そういう行動は、同種個体の心的状態を捉える能力を反映していると主張できるだけの確固たる証拠はないと彼は考えているようです。ファンタジー遊びの定義を、脱文脈化した行動が起こり、同種個体との関係で役割代替を行うものとするなら、そういう遊びがある文脈において、おそらく主に、ヒトの子どもと同じように育てられたものですが、大型類人猿や、べコフの研究による、おそらくイヌ科の動物にさえ見られると考えるのは納得がいくと言います。しかし、ヒトのファンタジー遊びには、脱文脈化した行動や役割代替以上のことが含まれるのが一般的だそうです。たとえば、べーリングの主張によると、象徴遊びは想像的な行動が他の似ている物に向かう特性依存のごっこ遊びと、遊びの文脈で知覚を喚起する刺激がないところで社会的なスクリプトに従う真の象徴遊びとは区別されるといいます。ここでいう特性依存のごっこ遊びとは、たとえば、子どもが靴を電話のように扱ったり、ワショーが人形を赤ん坊であるかのようにお風呂に入れたりするような遊びです。ヒトの子どもが3歳の誕生日を迎える頃までに示すファンタジー遊びの大半は、このような特性依存のごっこ遊びだそうです。

その時期を過ぎてはじめて、子どものファンタジー遊びに、表象しようと意図している物とは知覚的に異なる物の表象が明確に見られるようになります。べーリングは、大型類人猿に見られるファンタジー遊びの出現は特性依存のごっこ遊びのみを反映しており、他者に信念や知識があることの認識、それは心の理論ですが、それが必要であると思われる高度なタイプのシンボル表象を必要としていないと言います。ビョークランドらは、ヒト以外の動物、特にイヌ科の動物に見られるファンタジー遊びが種に特有の適応を反映しており、ヒトに見られるファンタジー遊びと同じ種類の認知システムに支配されているのではないであろうという見方に同意見であり、かつそう主張したいと言います。言いかえれば、イヌ科の動物とヒトのファンタジー遊びの類似性は、社会的に複雑な集団で生きていくことに関連した問題に対する、表現型の上では似ていますが、系統発生的には独立した、そして同一のものに収束した解決を反映していると思われると言います。一部の大型類人猿に見られる特性依存のごっこ遊びの認知能力は、真の象徴遊びに見られるヒト的象徴能力の進化の基盤となった可能性は高いであろうと言います。

特性依存” への8件のコメント

  1. ヒトも動物の一種である。ならば、動物と行為において重なるところは多々あるでしょう。「動物が他者の意図性を理解するようになるメカニズム」の元は「個体が他者の行為を自分の行為と一体化させる際の基盤となっている」ということになるのでしょう。その意味では、ヒトが「意図性」と言語化している脳内作業はヒト以外の動物のある種に存在していることにも首肯できます。ヒトは他の動物とは違うのではなく、あくまでも他の動物と重なる部分を有しており、それが意図性と呼ばれたり、自発的模倣と言われたりするのでしょう。なかなか理解することが難しいなと思いつつ読んだ今回のブログです。「特性依存のごっこ遊びとは、たとえば、子どもが靴を電話のように扱ったり、ワショーが人形を赤ん坊であるかのようにお風呂に入れたりするような遊び」とあります。そこにはストーリーがありそうです。このストーリー制作、他の動物でもやっているのでしょうか。

  2. 遊びが進化の基盤となった可能性が高いという研究結果は、保育、そして教育の今後を考える上でとても重要な意味を持ちますね。保育者は子どもたちが遊びを通して学ぶということをしっかりと理解し、その環境を設定していくこと、実践していくことが求められます。松下幸之助や本田宗一郎も仕事が楽しくて仕方がなかった、気付けば深夜になっていた、それは子どもたちが夢中になって遊ぶ姿に似ていて、そしてそれは人類の進歩に大きく貢献しました。今の日本に必要な力を保育が育めるということを、改めて理解できたように思いました。

  3. ヒトと動物、特に大型類人猿は同じような遊びをしているということなんですね。その中で、特性依存と呼ばれているものは他のファンタジー遊びと区別ができないものであるとありました。
    例えに挙がっていた〝子どもが靴を電話のように扱ったり、ワショーが人形を赤ん坊であるかのようにお風呂に入れたりするような遊び〟は確かに一見区別ができにくいものであると思われますが、そこにはどのような物語があり、背景があるのか知ることで見えてくるものは確実にあるのだと思います。

  4. “ヒトの子どもが3歳の誕生日を迎える頃までに示すファンタジー遊びの大半は、このような特性依存のごっこ遊びだそうです。”とあり、この特性依存のごっこ遊びには、象徴的なもの、なにかをそのように見立てて遊ぶといったことがあるのですね。こどものもつファンタジー遊びには、一見、みただけでは分からない細かい設定があり、大人が思う以上に構成だてられた子ども世界でのメカニズムは、まだまだ見えていない部分があることを感じ、その見えていない部分というものには、やはり、子どもの自発的活動によるものから子どものもつ力を見いだしていけるような環境が必要なものだと考えることができました。

  5. 「ヒトの子どもが3歳の誕生日を迎える頃までに示すファンタジー遊びの大半は、このような特性依存のごっこ遊びだそうです」とありました。特性依存の説明がありましたが、子どもたちのおままごと遊びでよく見られる姿です。3歳を迎える2歳児クラスのごっこゾーンでは、靴を電話に見立てるなど、あえて電話を置かない等の意図的な構成が必要であるように感じました。また、大型類人猿などにもファンタジー遊びにつながる姿がある中、ヒトのファンタジー遊びとの大きな違い、区別はどこなのだろうと思っていましたが、「大型類人猿に見られるファンタジー遊びの出現は特性依存のごっこ遊びのみを反映しており、他者に信念や知識があることの認識、それは心の理論ですが、それが必要であると思われる高度なタイプのシンボル表象を必要としていない」ことが答えなのかなと思いました。ファンタジー遊びにおいては、自己の枠を超えた領域はヒト特有のものであるのかなと感じました。

  6. 少し難しさを感じますが、「ヒトの子どもが3歳の誕生日を迎える頃までに示すファンタジー遊びの大半は、このような特性依存のごっこ遊びだそうです。」とあり、この時期の特性依存のごっこ遊びも重要なのでしょうね。この積み重ねが「一部の大型類人猿に見られる特性依存のごっこ遊びの認知能力は、真の象徴遊びに見られるヒト的象徴能力の進化の基盤となった可能性は高いであろう」というところに繋がり、ヒトが欠かせない能力の基盤になったと思うとごっこ遊びもでの環境を設定の重要性を感じます。

  7. 特殊依存遊び、初めて聞く言葉です。子どもが本来目的で使用する物でない使い方をして遊ぶ行為を指すのですね。ちょうど次男が見立て遊びを始める時期であり、特殊依存遊びをするかもしれません。ただ、園ではどうか分かりませんが、自宅では兄の遊びを常に見ているので、電車は電車、車は車として遊んでいます。おそらく保育園では違った遊びを展開しているのかもしれませんが、子どもの特殊依存ごっこ遊びに関して思うことは、やはり見た瞬間に大人には簡単に理解できない遊びです。ただ、こうした遊びがヒトとして成長させ、ヒトらしくさせてくれる行為の一つだと思いました。

  8. 「他者の体の動きは自分の運動感覚に位置付けられますが、それは新生児が模倣をするときの仕組みと全く同じだそうです。これは、個体が他者の行為を自分の行為と一体化させる際の基盤となっている可能性があると言います」とありました。とてもおもしろい話ですね。他者と自分の境のおもしろを感じるようでもありますし、人類は本当に他者との関係性の中で生きているんだなということも感じます。私たち人類が、人と関わらないということは人類の生存の歴史に反しているそんなことを感じます。また、なかなか難しくて理解はできないのですが、人のファンタジー遊びと動物のファンタジー遊びは同じものではないということが言えるのですね。

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