性特異的な行動

女児が乳児やままごとに強い関心を示すことには、性ホルモンと間する面もあるようです。たとえば、乳幼児に対する女児の関心は初経後に高まり、出生前に高レベルのアンドロゲンを受けた女児はその影響を受けていない女児よりも、ままごとや乳児に対する心が有意に低いそうです。しかしホルモンがすべてではないようです。ほとんどの文化で、女児は男児より子どもの世話という仕事が割り当てられています。しかし、そういった責任が与えられていなくても、女児は男児よりままごとをして遊ぶことが多いそうです。進化的な点からすれば、そういった志向性が後押しして女児は子どもの世話に関する活動に注意を払い、母親になったときにうまくこなすために役立つスキルを練習しているのだろうと思われます。女性は世界中のすべての文化において男性より子どもとのやりとりや世話に多くの時間を費やしている。そして、このような育児の責任の配分は進化的過去においてもおそらく同様であっただろうと思われます。

それに引き換え、先に述べたように、男児は女児よりも物を使った遊びを行う傾向が強いです。進化的な視点からすると、物を使った遊びの性差は、伝統的に成人男性が女性より多種多様な道具を扱うことが多かったことと関連しているかもしれないとビョークランドは言います。伝統文化では男性も女性も道具を使ったり作ったりしますが、これは祖先にも当てはまることは確かだそうですが、男性が武器や楽器、儀式用具などの道具の大半を作ります。したがって、男性が物を操作することへの志向性が高いことは、道具の使用と製作が重要な役割を果たす成人の生活に関連した、個体発生的な適応を反映している可能性があります。

男性と女性はほぼ同一の脳や生物学、適性を進化させてきましたが、男女は異なるバイアスをもち、受け継がれてきた遺伝子が、出生前の環境を含みますが、種に特異的な環境において発現することにより、若干異なるものを志向し、少しばかり世界を異なって解釈するようになったと考えられます。これらの異なる志向性が環境に支えられて、男児と女児は異なる経験をし、異なる力量を身につけていくのでしょう。このように遊びは重要な性特異的な行動の側面を獲得し、習得する媒体として機能するようです。遊びにおける性差や、そういった違いを生み出す経験は、成人の行動における性差の近接的なメカニズムとして働いていると思われます。そういった性特異的な力量は、議論したように私たちの祖先にとって適応的であっただろうとビョークランドは言うのです。

男児と女児の遊びの志向性におけるそういったバイアスは、出生前の環境で、女児の胎児に過剰なアンドロゲンが作用した場合のように、出生前にも、出生後にも、強い環境的サポートを受ける必要はありません。子どもが遊びを通して獲得できるのは、環境が与えてくれるものだけだと言うのです。しかし、そういったバイアスは進化の時間を経て選択されたと考えられます。なぜなら、それらのバイアスは適応的な行動を生み出し、そのバイアスが今日まで存続しているからです。資源をめぐる競争や道具の使用における性差が最小限に抑えられている現代人にとって、これらのバイアスの利益は不確かですが、それでも哺乳類や霊長類の遺産の一部なのだと言うのです。

性特異的な行動” への9件のコメント

  1. 男性と女性では遺伝子でいうと、どのくらいが同じなのでしょう。確か、チンパンジーと人間が98%くらいが同じ遺伝子で、人間とコケが50%くらいが同じ遺伝子を持つ生き物であったと思います。それでいくと男性と女性は99.9%くらい同じになるのかもしれません。〝資源をめぐる競争や道具の使用における性差が最小限に抑えられている現代人〟とあり、環境的にもあまり性差を感じられなくなる現代だからこそ、わずかの違いが目立つのかもしれません。そして、そのわずかな違いが〝遺産の一部〟とあり、人類のこれからにとって大切なものであるのかもしれませんね。

  2. 生き抜く為に役割をもった、その遺伝子が今の子どもたちの遊ぶ姿の原型を作っているという解釈は、改めて考えると何とも神秘的なことのように思えてきます。自分で決めているようでいて、実はそれには遺伝子レベルでの大きな枠組みがあり、進行方向があることを示唆しているかのようです。それは強制ではなく、自然と共生と貢献へ進む道のりのようで、それを阻害することなく環境を整えていくことが、環境を通して保育を行うことと表現されているのかもわかりません。

  3. ジェンダー問題は、前世紀の後半から注目され始めます。我が国における「男女」の差について特に意識されるようになったのは明治時代以降でしょう。西洋キリスト教のモラルが仏教の男女差に被さって殊更意識化されるようになったと考えています。そして、そうしたモラルを過剰に尊重した大人が性差を喧伝してきました。男子校や女子高、男の子の遊びや女の子の遊びというジェンダー差別が大人の側から子どもたちに強制されたとき、様々な弊害を生み出したのだろうと思われます。しかし、当の子どもたちは性差に応じた遊びを自然に展開していきます。大人の側からの「男の子なのだから」「女の子なのだから」は極めて刷り込みの産物であり、男女の性差による遊びの違いはあるものの、おそらく重なる部分もあるだろうと推察できます。そうした意味では、目の前の子どもたちの今を私たちは丸ごと信じ、その信念に基づいて子どもたちの今と未来に貢献できるような存在でありたいと思うのです。

  4. “遊びは重要な性特異的な行動の側面を獲得し、習得する媒体として機能する”とあることから子どもの性差による行動が集団のなかでの役割を十分に行える環境が存在し、その事で互に役割をもったなかでの生活がうまくいくのでしょうね。そのことが、遊びにおける性差やそういった違いを生み出す経験によって、大人になっていくにしたがって性差に生かした集団社会が保たれることを感じます。

  5. 「子どもが遊びを通して獲得できるのは、環境が与えてくれるものだけだと言うのです。しかし、そういったバイアスは進化の時間を経て選択されたと考えられます。なぜなら、それらのバイアスは適応的な行動を生み出し、そのバイアスが今日まで存続しているからです」とあったことが何より印象的でした。昔から今まで存続しているということは人類が存続していく上で、繁栄していく上で何かしら重要な意味を持つことは間違いないことであり、そこを掘り下げていくことで人類にとっての今ある当たり前がその理由や経緯を知ることでより深まっていくように思えました。

  6. 男性と女性では、同じ人間でありながら異なるバイアスを持ち合わせ、異なるものを志向し、世界も異なって解釈すると書いてあります。遺伝子の段階から男女で違う事は子どもの遊びに関しても好むものが異なってくるのは当然のことで、その違いをしっかりと保証できる環境がやはり重要になってくるのでしょう。また違うといって刷り込みで物事を見るのもおかしなことで、男女の違いはありつつも、個人で遊びを選択できるような環境が必要であり、それを保育者も理解することが大切だと思いました。やがて、その男女の違いが社会を支えているのだと思います。

  7. 「種に特異的な環境において発現することにより、若干異なるものを志向し、少しばかり世界を異なって解釈するようになったと考えられます。」とあり、男脳と女脳の話を思い出します。こうしたバイアスの違いというのは大昔から存在し、そもそもから違うという考えから日々の生活に活かしていかなくてはならないことだと感じます。それを踏まえた上での子どもたちに環境を作ることが我々の役目なのですね。

  8. 女児はままごとをして遊ぶのが好きだったり、男児は道具を使って遊ぶのが好きだったり、男女によるこのような性差ははっきりとあるのですね。最近ではこのような性差というと敏感になってしまう問題もあったりで、もしかすると話題としてはあまり、なんと言いますか、はっきりされないような印象がありますが、このように分かっているということを聞くと、なんだかホッとするような気がします。もちろん、すべての子ではありませんが、現場にいるとこのような性差というのは多くの方が感じておられるものではないだろうか思います。「出生前の環境を含みますが、種に特異的な環境において発現することにより、若干異なるものを志向し、少しばかり世界を異なって解釈するようになったと考えられます」というのもその後の環境の重要性を感じます。それぞれに持っている特性はありにしてもやはりそれらがより発生するような環境を整えるということが大切なのかもしれませんね。

  9. 以前のブログに「男性と女性がこうあるべきというものを押し付けることはどうかと思います。しかし、その反面、だから一緒の扱いでいいというのもそれもそれで違和感があります。」と感想で書きました。今でもそう思うのですが、大人の価値観でなく、子どもの多様性の中でこういったものを使う遊びの志向が深まってくるのが自然のように思います。そして、それだけ幅のある環境を用意することも同時に必要になってきますね。「子どもが遊びを通して獲得できるのは、環境が与えてくれるものだけだ」とあります。それは物的でも、人的でもあることなのでしょう。このことをよく理解した上で保育をしていく必要がありますね。

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