ファンタジーとメタ表象

心の理論をもつと言われるときに、自分がふり遊びをしていることを子どもが認識していて、ふり状況が心的に表象されていることを自覚してするようになったとき、子どもは心がさまざまな方法で世界を表象することにも気づくと考えられています。このように、メタ表象の考え方からすると、ファンタジー遊びは心的表象を必要とし、子どもの全般的な認知発達の指標と見なすことができます。子どもが何かのふりをするとき、心で世界を表象していると気づいていますが、その理解は4歳頃になってはじめて可能になると考えられています。

一方、ファンタジーには必ずしもメタ表象が必要ではないと主張する理論家もいるそうです。この考え方でも、ファンタジーの初期段階で、子どもは自分が何かのふりをしていることや、社会的なファンタジー遊びでスクリプトや行動的なルーチンを演じていることに気づいているだろうとしています。しかし、P.L.ハリスのシミュレーション理論によると、幼児がファンタジー遊びを認識し、それに参加できるために心的状態の表象は必要ではないと考えます。この考え方では、ファンタジーに参加している幼児は、シミュレーションを介してふりの世界を想像しているのです。シミュレーションするとき、最初幼児は自分の心的シミュレーションが遊び相手のそれと同じであると思っています。このモデルの中心は、繰り返し仲間と社会的な経験をすることにあります。なぜなら、繰り返し経験することで、 3歳頃の子どもは、その思い込みが当てはまらないことが多く、自分の考えや心的状態が他者とは異なることに気づくからだと言います。こうしてシミュレーションによって、子どもは自分の信念や願望を脇におき、一時的に仲間の信念や願望を想像するようになります。このようなシミュレーションが行われるようになると、子どもは自分の心的機能に立ち戻り、シミュレーションした情報を用いて、他者が考えたり、感じたりしていることを理解するようになります。3歳ころである初期の段階の他者理解には、想像した他者の考えと、自分の自己中心的な視点とが入り混じていると言われています。たとえば、自分も仲間も、本物のリンゴとプラスチックのリンゴについて異なる信念をもっていることに気づきます。4~5歳までに、子どもは2つの互いに排反的な物に関して、自分が他者と異なる信念をもっていることを想像できるようになります。そのため、他者の視点の理解は表象の本質にではなく、シミュレーションの正確さにかかっています。他者とのやりとりを繰り返し経験することで、他者に関するシミュレーションが正確さを増していきますが、その正確さは他者の心的状態のメタ表象には依存していないのです。

この考え方からすると、子どもはファンタジーがリアルなものであり、自分も仲間も異なる物に異なる考えをもちうることに気づくのだと考えられます。ファンタジー遊びの社会的側面によって、子どもの考えが仲間の考えと対立することになります。なぜなら、ファンタジーは本質的に曖味であり、遊びのテーマと現実とはわずかしか一致していないことに気づくからです。曖昧さに直面しつつ遊びの相互作用を維持するために、子どもは他者の考えに対応し、曖味さを明確にしなければなりません。「ごっこ遊びをしよう」などの明示的な遊び枠組みの指標や、大げさな声や動きなどの暗黙的な遊び枠組みの指標が、その相互作用が遊びであることを知らせます。

ファンタジーとメタ表象” への8件のコメント

  1. 「曖昧さに直面しつつ遊びの相互作用を維持するために、子どもは他者の考えに対応し、曖味さを明確にしなければなりません。」子どもの世界をこんなにも明確な言葉で知ることができ、また新しい視点で子どもたちの遊びを見守ることができそうな、そんな気持ちが湧いてきます。このような心の動きを遊びの中で繰り広げていることを知ると、環境を設定することはもちろんのこと、食事や睡眠など基本的な生活が快適に行われるようリズムを整え、思いきりその世界で過ごせるように一日を設定したいですね。幼児期の終わりまでに育ってほしい姿、最初の項目が健康な心と体である理由がわかったような気がしました。

  2. 子どもの脳内作用を読み解く作業は学者の皆さんの実験データに委ねることにして、経験値による見解から推するに、ファンタジー遊びやごっこ遊び、いずれにせよ、子どもたちのメタ性については敢えて言及しなくてもよいような気がします。いずれ、そのメタ性を発揮する時が来ることは言うを待ちません。私は子どもの行為に関しては良い意味での未分化が存在するだろうと考えています。なぜなら、子どもは、特に赤ちゃんは、純粋存在である、と思っています。よってメタ性を必要としない。それ以上でもそれ以下でもない存在として現前している。仏教的用語を用いれば、限りなく悟りに近い存在なのです。私たちの死は大涅槃です。オギャーと泣き声を発してこの世に生を受けたヒトは涅槃存在です。そして、涅槃存在は徐々に世俗の垢にまみれ二元世界を生きていくことになるのでしょう。ヒトの生が「修行」と言われる所以はこの辺にありそうです。シミュレーション遊びは純粋にシミュレーションとして把握していいような気がします。敢えてデュアル世界は要らない、そんな思いを抱きました。

  3. 子どもたちが行なっていることを文章にしようとすると、こんなにも複雑なものとなるんですね。
    何回か読み返して、丁寧に反復してもまだ理解しづらい部分がありますので、このコメントを書いたらもう一回読みます。
    最後の方に〝子どもは他者の考えに対応し、曖味さを明確にしなければなりません〟とありましたが、子どもだけでなく、大人もコミュニケーションをとろうとすると、この作業は必要なものとなるのだと感じます。子どもはファンタジー遊びを通して、このようなシミュレーションを繰り返し行うことで培っていくんですね。
    やはり、遊びに無駄なものは一つとしてないのですね。

  4. “繰り返し経験することで、 3歳頃の子どもは、その思い込みが当てはまらないことが多く、自分の考えや心的状態が他者とは異なることに気づくからだ”とある、経験には、相手のことを考える、相手だったらと、他者の心を理解しようとする経験ができることは、心の理論との繋がりを感じると共に、ファンタジー遊びのなかで、ごっこ遊びによって、得られる社会的な部分は、もっと重要視しなければならないと感じることができます。また、”曖昧さに直面しつつ遊びの相互作用を維持するために、子どもは他者の考えに対応し、曖味さを明確にしなければなりません”とあり、他者のことを考えへ理解を持ち、そして相互作用を維持するため、曖昧さを明確にする。このようなことが子どもたちのなかで繰り広げられていると思うと、まだまだ、遊んでいる姿を見るときの意識がたりないなと思うところです。

  5. メタ表象の考え方からすると、「子どもが何かのふりをするとき、心で世界を表象していると気づいていますが、その理解は4歳頃になってはじめて可能になると考えられている」のですね。ここから気付きと理解は連動しているように感じました。気付きから理解へとつながり、理解したことで別の気付きに出会うようなサイクルがあるようにも感じました。また「繰り返し経験することで、 3歳頃の子どもは、その思い込みが当てはまらないことが多く、自分の考えや心的状態が他者とは異なることに気づく」とありました。高校生のころによく学習を繰り返すような復習の必要性を散々言ってもらえていましたが、そもそもの気付きや理解の深まりに繰り返し経験は欠かせないように思えましたし、この繰り返す経験は、対人知性や心内知性にもつながるように感じました。

  6. 「ファンタジーは本質的に曖味であり、遊びのテーマと現実とはわずかしか一致していない」と書いてあります。子ども達はその曖昧さの中で互いにイメージを共有し、楽しく遊んでいますが、実は高度な遊びを何気なく日々、行っているのですね。その中で時には仲間とぶつかり、互いの異なる意見を主張し合うことで、積み重なり、やがて暗黙の了解のように遊びを広げて行くのでしょう。大人でも何かを企画するときにイメージが必要でそれを共有する作業が必須です。年齢問わず、こうした一連の流れは共通しており、大切なことですね。

  7. 「曖昧さに直面しつつ遊びの相互作用を維持するために、子どもは他者の考えに対応し、曖味さを明確にしなければなりません」というところにひかれます。ファンタジー遊びをすることでこんなにも複雑な脳の動きをしていることに驚くとともに、よりファンタジー遊びの重要性を感じます。現在協同性について学んでいますが、ファンタジー遊びというのはその折り合いをつけるために必要な能力が身につくのではないかと感じさせてくれます。

  8. ごっこ遊びをしている子どもたちの中で、うまくお互いにイメージを共有して遊び込んでいる子もいたり、反対になかなか互いのイメージが一致せずにそのすり合わせを繰り返し行なっている子どもの姿を見ることがあります。
    「繰り返し経験することで、 3歳頃の子どもは、その思い込みが当てはまらないことが多く、自分の考えや心的状態が他者とは異なることに気づくからだと言います」とありましたが、子どもたちにとってそのような姿はとても大切なことなのですね。また「子どもはファンタジーがリアルなものであり、自分も仲間も異なる物に異なる考えをもちうることに気づくのだと考えられます」とあるように、やはりいかに子ども同士の関係が生まれる集団が重要であるかということを感じます。

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