相乗的相互作用

ヒトの新生児は白紙状態であるという概念は時代遅れであり、ほぼ世界中の発達心理学者が却下しています。では、新生児は何をもって生まれてくるのでしょうか?ビョークランドは、その答えは、後成的なプログラムであり、それは悠久の時間をかけて進化してきた、太古の祖先が経験した環境の一般型に対応したものであると答えています。これらのプログラムが絶え間なく環境と相乗的相互作用をすることによって、発達のパターンや、その結果として成人行動が生まれ、私たちはひとつの種としての特徴を手にするのだというのです。

ホモ・サピエンスが他の種と異なる点は多くありますが、今までのブログでも書いたように、特に発達的視点に関連しているのは、長い未成熟期なのです。ヒトの個体発生のタイミングは、霊長類の系統発生に見られる傾向が延長されたにすぎませんが、ヒトは他の哺乳類より「前生殖期」が長いのです。若い時期の長期化には明らかにコストがあります。死亡率は乳児期以降、急激に低下しますが、先史時代の多くの子どもは伝染病や病気、事故によって、性的に成熟する前に死亡していたことは明らかです。しかし、その時期が長いことによて、発達の速度が遅いことに伴う多くのコストを上回る、何らかの非常に大きな利益があったはずです。それらの利益は、ヒトが複雑な社会的共同体にうまく対処することに見てとれると言います。ヒトの認知的な進化について現在よく用いられる説明では、ヒトの知的進化にかかった唯一最大の圧力は、同種個体と協力し、競争する必要があったことであると言われています。ヒト科の集団がより複雑になるにつれて、個体は自分自身をもっとよく知り、同種個体の思考や願望、知識をよりよく理解し、おそらく他者を操作することが必要になってきたのでしょう。社会的な世界でよりよく生きていくことができた者は、質の高い配偶者や資源を得るという意味でより多くの利益を手にし、自分の認知的特徴を子孫に伝えていったのです。

しかし、世界中でヒトの集団は類似してはいるものの、多様性も高く、集団生活の予測のつかない変化をうまく乗り切るためには柔軟な可塑性に富む知能が必要でした。これには大きな脳が必要なだけではなく、脳の完成にも長い時間がかかってしまいます。大きな脳や社会的複雑性、長い未成熟期が混じり合い、現代のヒトの心の舞台が作られたのだとビョークランドは言うのです。

乳幼児期の経験は個体が成人としての生活を準備するためにあるという考え方は、おそらく発達心理学の規範のひとつです。進化発達心理学の見解も同様であり、乳幼児期のある側面は、おそらく成人期に役立つ社会的集団の様式を学習する機会を子どもに与えるために淘汰されて残ったと考えます。そこで、遊びの諸側面は準備メカニズムのよい例なのです。子どもは遊びを通じて身の回りの物理的環境や社会的な世界について多くのことを学び、それが後の人生で役立つのです。

子ども期にはこの説明に合う側面が多くありますが、「成人期の準備としての子ども期」仮説をおそらく最も大きく反映しているのが性差なのです。

遺伝と環境

どうも研究というものは、難しい言葉で定義づけるものですね。まあ、誤解を受けないように、違う解釈をされないようにということはわかるのですが、かえって難しくしている気がします。その説明によると、発達心理学者は、最近は、「遺伝と環境がどのような相互作用をして、発達のある特定のパターンが生み出されたのか」と問うようになったそうです。それに対して、進化発達心理学では、発達システムアプローチは、生物学的および環境的要因がいかにして個体の複数のレベルで作用し、個体発生の特定パターンを生み出すのかを明らかにしようとしています。この立場からすれば、新しい形態学的構造や行動は、単純に遺伝子の青写真を読み取った結果生じるのではなく、遺伝から文化まで、全レベルの生物学的、経験的要因が継続的かつ双方向的に作用した結果出現すると考えます。ここでまず重要な点は「あらゆるものが発達する」ということです。初めから表現型というかたちで、つまりは完全な形式で現れるものはないとします。新しい構造や機能は、それ以前のものから確率論的に生じるとします。二番目に重要な点は、「経験」は広義に定義されており、たとえば、神経細胞の発火といった自己産出活動など、個体にとっての外因的、内因的双方の事象を包含しているということです。あるレベルの機能は隣接したレベルの機能に影響を与え、レベル間で絶え間なくフィードバックし合っていると考えます。発達システム的な見地からすると、純然たる遺伝的効果も環境的効果も存在しません。あらゆるものは構造と機能の双方向的な関数として、絶え間なく、受精から死に至るまで全体にわたって発達していくのだと考えるのです。

それでは、進化心理学者が主張する、進化による心理的メカニズムをどう理解したらよいだろうかという疑問を持ちます。そのようなメカニズムは遺伝的にコード化された「メッセージ」や「経験則」と考えることができ、後成的な規則に従って、この場合もやはり広義の環境と相互作用し、やがて行動を生み出すと考えます。個体それぞれが独自の経験をすることによって、発達の結果にはかなりの多様性が生じます。なぜなら、どの個体も同じ経験をすることはないため、どんな種にあっても、まったく同じ表現型が出現することはないからです。しかし、発達システムアプローチは、個体は種に特異的なゲノムだけではなく、種に特異的な環境も受け継いでいると主張しています。ヒトでいえば、これには子宮や授乳する母親、血縁者と非血縁者双方を含む社会的集団などが当てはまります。ヒト、あるいはアヒルやチンパンジーが共有する、世界共通の身体的、行動的、心理的特性をもたらしているのは、種のゲノムの類似性だけでなく、種の環境の類似性でもあるのです。個体がその祖先の環境と類似した環境で成長する限り、種に特異的な傾向に従うはずであると考えます。このことをもう少し進めて考えた人がいます。アメリカ合衆国の心理学者であるジュディス・リッチ・ハリスです。彼女は、なぜ人の個性がそれぞれ異なっているのか、同じ家で育った一卵性双生児でさえ同じでないのはなぜかの説明を試みています。そして人間関係、社会化、ステータスという三つの異なったシステムが人の個性を形成すると提案しているのです。彼女の考え方は次回に譲るとして、では、ヒトの新生児は白紙状態であるという概念は時代遅れであり、ほぼ世界中の発達心理学者が却下しているとしたら、新生児は何をもって生まれてくるのだろうか?

進化発達心理学では

進化心理学者が必ずしも無視してきたわけではありませんが、また完全には組み入れられてはいない証拠資料があるとビョークランドは言います。第一に、比較心理学という分野があり、特にホモ・サピエンスと私たちヒトの遺伝的な近縁種である大型類人猿との類似点や相違点が調べられています。ビョークランドらが比較データを数多く用いて考察するのは、認知的な進化に基本的な連続性があると考えているためだと言います。ただし、それぞれの種は直面する問題の解決策を独自に進化させたことも認識しており、系統発生の不連続性には常に目を光らせているとも言います。第二に彼らには最も重要だそうですが、乳児や子ども、発達の過程を検討することだそうです。私たちヒトには行動的、認知的可塑性があるため、「完成版」の大人に注目するだけではヒト独自の本質についてゆがめられた姿を伝えてしまいます。そこで、子どもが生まれつき備えている「知識」は何か、そして、その知識はどこからきたのか)、そして、原初的な心理的パイアスがいかにして成熟した形式の思考や行動へと変わっていくのか?というような問いを考えるうえで、発達的な視点によって、ヒトの本質を理解するために最高の場が生まれると彼らは確信していると言います。

当然ながら、発達的な視点は「大きな疑問」に答えるのに十分ではないと言いつつ、しかし必要であるとも言っているのです。さらに彼らの見解では、ヒトの本質は単に生まれつき備わっているだけではないと言います。というよりも、ヒトの本質は進化によって成立した性質として出現し、個体発生の過程を通じて種に特異的な環境と相互作用をして発達するのだと考えているのです。

進化発達心理学は成人に特徴的な行動や認知だけではなく、子どもの行動や心の特徴も自然淘汰の産物と見なしています。進化発達心理学では、ある種の全メンバーに特徴的なパターンである普遍性だけではなく、個体が自分の特定の生活環境に適応する方法も扱っています。彼らが、その主張の中で明らかにしてきた進化発達心理学の基本原理の一部を紹介しています。

進化発達心理学は進化による後成的なプログラムの発現を扱う多くの心理学者は認識していませんが、進化心理学者はいかなる遺伝子決定論にも賛成しておらず、進化による心理的メカニズムが局所環境と相互作用をすることで、特定のパターンの行動が生み出されると考えています。しかし通例、成人の機能に関心をもつ進化心理学者は、個体と環境の相互作用の性質をあえて特定する必要はないと考えているそうです。進化発達心理学では、発達システムアプローチの原則に従って遺伝と環境の相互作用に関する明確なモデルを示すことによって、この欠点に対処していると言います。発達心理学者は遺伝を環境問題を言い直し、ある特徴が「どの程度」遺伝あるいは環境によって生じたのかと問うのではなく、「遺伝と環境がどのような相互作用をして、発達のある特定のパターンが生み出されたのか」と問うようになったそうです。しかしこのように問いを言いかえただけでは、議論はほとんど進展しません。発達システムアプローチは、生物学的および環境的要因がいかにして個体の複数のレベルで作用し、個体発生の特定パターンを生み出すのかを明らかにするものです。

細分化されている中で

発達心理学の分野は細分化されすぎ、あまりお互いを知ろうとしないだけでなく、もし学者たちが他の学者の研究に利点があると思ったとしても、分析のレベルが違いすぎて共通の興味を抱く余地はほとんどなく、特に語り合うこともないことが多いそうです。さらに、発達心理学における「主要な」下位区分間のコミュニケーションを考えると、その分裂はもっと大きくなっているそうです。

おそらくこのコミュニケーション不足は単に、基礎知識が急激に広がっている状況のなかで、科学者が専門性を高める必要があった結果として生じたのであろうとビョークランドは考えています。おそらくジェネラリストの時代は終わったのだというのです。たしかにこの言い分には一理ありますが、少なくとも発達心理学の領域内では、知識の統一の見込みがあると考えられており、それは発達を理解するための共通点が見出されてはじめて達成されうると考えられています。

ビョークランドらは、彼らの考察から、発達心理学における幅広いトピックからのデータを呈示し、現象には多様性があるものの、共通性を見出したと確信しているそうです。この共通性と関連しているのが、進化の原則にもとづく発達的な視点だと言うのです。進化発達心理学は発達心理学のメタ理論として有効であり、催奇形物質に対する胎児の反応から感覚発達、空間認知攻撃性、遊び、心の理論まで多様なトピックを発達のひとつの大きな側面のもとにまとめることができると彼らは考えているのです。このメタ理論は、問うている発達の特定の側面を説明する、より領域固有の理論の必要性を排除するものではないと言います。メタ理論によって得られるものは発達の全側面に適用できる包括的な一連の原則であり、この領域の人々に十分共有されれば、すべての発達科学者のコミュニケーションの土台として役立つと考えていると言います。

進化発達心理学は「ヒトであるとはどういうことか?」という心理学の核心となる問いへの答えを出す上でも、きわめて役に立つとビョークランドらは考えているそうです。この問いは少なくとも古代ギリシア時代以来、そしておそらくさらにラスコーの洞窟画家や狩猟採集者たちにまでさかのぼって、人類の興味をひきつけてきました。この「生命の意味」の問いに答えるための標準的なアプローチはないと言われています。しかし、多くの人たちはすでにそう考えているだろうとビョークランドらは思っているそうですが、これこそが正しいと主張するのではなく、論理的に考えることこそが進むべき最良の道筋であると考えているようです。しかし、どのような種類のデータを探索し、ヒトの本質を考えていけばよいのだろうか?と疑問を投げかけています。明らかに、ヒトの大人を慎重に検討して「完成版」の実態を把握する必要があります。しかし、ヒトの本質には文化が介在しているため、非常に多様な社会的状況で生活しているそれぞれの人たちが、全てのヒトが直面する同じ問題をどのように理解し、解決しているかを評価する必要があるのです。進化心理学は良い実績をあげてきており、大学生に巧みな実験をし、独自のデータ、記録文書によるデータの双方による異文化間のデータを用いて、この核心となる問いを評価するためのデータベースを生み出しているとビョークランドは考えていると言います。

遊びの変化

子どもは歴史、そして先史時代を通じて、他の社会的な哺乳類の子どもと同様に、遊ぶ機会を与えてくれる環境を「期待」することができました。しかし、今日では、子どもが育つ環境の多くは、古代の環境よりも安全で、肉体的には大変ではないかもしれませんが、学校教育の必要性、「組織化した」遊び、たとえば、リトルリーグの大人の監督、テレビ鑑賞など座ったままの活動の誘惑によって、現代の子どもの多くが経験する遊びの量と質が変わっています。それがひるがえって子どもの発達に微妙な影響を与えているとビョークランドは指摘しています。「遊びは子どもの仕事」というのは決まり文句ですが、遊びは子ども期に特に適応したもののようであり、子どもが行うよう「意図」されています。このことを念頭におけば、遊びを犠牲にしてまで、 1つの目標を達成するために子どもの環境を変えてしまう、たとえば、学校での学習をより焦点化したものにするまえに、もう一度よく考える必要があることがわかるだろうとビョークランドは言うのです。

彼はこれまで考察してきたように、単に「遊び」が子どもにとって大切であるということではなく、どのような遊びが、どのようなために大切なのか、また、それらの遊びはヒトの進化の過程でどのような役割を持ってきたのかを見つめなおさなければならないということを言っているのです。それは、進化から見て大切な遊びの多くは、現代の環境に中では必ずしも奨励されていないからです。それどころか、大人にとって迷惑なものであったり、社会にとって迷惑なものであるというような大人の価値観からその是非が問われてしまっている部分が多いような気がします。

怪我をするから、うるさいから、勝手なことをするから、などという理由から、子どもにとって大切な遊びが制限されてきているのです。さらに、それらの行動は、情緒が安定していないとか、落ち着かないということで、しっかりと特定の大人の監視のもとに置かれ、大人好みの子どもにしてしまっているのが、特に少子国家では見られるようになっている気がします。小学校における道徳の教科化も、もしそのような意図があるのであれば、子どもたちは、将来、社会を形成する一員としての資質が育たなくなってしまうのではないかということを危惧します。

発達心理学は、細分化された領域であり、多様な下位区分やさまざまな理論的見解が対立しているように見えることが多いと言います。認知発達の専門分野など一見関連性の高い分野でさえ、学者間のコミ、ニケーションは乏しいことが多く、ある特定分野の発達科学者、たとえば、ワーキングメモリなどの基本的なプロセスを研究している者は、他の発達学者、たとえば、メタ認知を研究している者の研究を評価したり理解したりできないようです。メタ認知や心の理論など、高次プロセスを研究している者は、「意味」のレベルよりずっと下の分析に還元しても細かいことがわかるだけで、理解はほとんど進まないそうです。基本水準のプロセスを研究する者にとっては、自己認識やメタ記憶などの明確に定義されていない概念の検討に時間を費やすことは、哲学的には満足しても科学的には空疎だと考えているそうです。そして、学者たちが他の学者の研究に利点があると思ったとしても、分析のレベルが違いすぎて共通の興味を抱く余地はほとんどなく、特に語り合うこともないことが多いそうです。

遊びの機能

ビョークランドが指摘しているように、研究には実験室での実験だけに限界があります。しかし、これらの限界を議論したからといって、物を使った遊びが重要ではないということではありません。イモを洗ったり、シロアリ釣りをしたりするヒト以外の霊長類の研究のように、自然の生息環境における研究から動物は新しく創造的な方法で道具を用い、遊びによって物を柔軟に扱う機会が得られることが示唆されているのです。そのため、研究計画はこのような柔軟性を支持する十分な機会を提供するものでなければならないとビョークランドは言います。たとえば、比較的なじみのある状況で繰り返し観察することで、子どもがさまざまな課題で能力を発揮しやすくなるはずだからです。彼の指摘している通りの状況である、「比較的なじみのある状況で繰り返し観察することができる」のは、私たちの現場である園なのです。そのために、私たちは、日々の子ども観察からの研究が非常に重要になってくるのです。

大半の哺乳類の子どもは遊びますが、生活史の観点からすると、ヒトはどんな大型動物よりも子どもとして過ごす時間が長いのです。実際、遊びによって生活史との関連から未成熟期の特徴を定義すれば、ヒトでは生殖期、そしておそらく老齢期まで未成熟期は伸びることになります。遊びは一見して「目的がない」という特徴がありますが、動物の遊びの理論家もヒトの遊びの理論家も、遊びにはたしかに機能がおそらく無数にあるという考えで一致しています。遊びの機能のなかにはたとえば、運動や、子ども期における社会的関係の確立と維持といった即時的な機能もあります。また、危険のない文脈で成人役割を練習するといった遅延機能もあります。遊びは、若者が身の回りの物理的、社会的世界を探索し、そうしている間に神経回路を修正する方法として役立ちます。2つの狩猟採集集団に関するプラートン・ジョーンズの比較研究に示されているように、これらの傾向は地域経済に付随する状況の中に埋め込まれていると言います。他の研究者たちと同様に、ビョークランドらも遊びは哺乳類の進化の過程で淘汰圧を受けてきたと考えていると言います。ヒトの遊びが長期間に及ぶのは、ヒトの子どもには学習すべきことが山ほどあり、その学習に長時間が必要であると同時に、最終的な成人役割を習得するためには安全な環境が必要であることによるというのです。この観点は、人間としての意味としてとても重要ですね。仲間との遊びを通じて身につけられる相互作用や教訓は、おそらく他のどんな要因よりも社会化を促進し、その社会で男性あるいは女性として生きていくとはどういうことかを学習する機会と柔軟性を子どもに与えるだろうと言うのです。

ヒトは、未成熟期が長いと言うのは、ある意味で遊びが長期間に及ぶことであり、それは、遊ぶことから学習することに長時間必要だからです。その遊びからの学習は、仲間との遊びを通じて身につけられる相互作用や教訓は、おそらく他のどんな要因よりも社会化を促進するからであり、その社会で男性あるいは女性として生きていくとはどういうことかを学習する機会と柔軟性を子どもに与えるからだと言うのです。この子どもにとって人生における大切な時期に携わっている私たちは、そのことをもっと認識すべきでしょう。さらに、この時期における将来社会で生きていくための学習は、まさに「遊び」なのです。

物を使って遊ぶ

連続的な順序づけのある活動と物を使ったサプルーティンが道具の発明には必須であり、それはヒトの系統発生的な歴史上明白であっただろうとシルヴァ・プルーナーとジェノヴァらは主張しているのです。あいにく、性差については報告されていないそうですが。

同じような文脈で、ダンスキーとシルヴァーマンは、物を使った遊びが子どもの連想のなめらかさ、つまり、よく使用する物の新しい使い方を考え出すことに与える効果を調べました。遊び条件の子どもに、実験物で10~15分間「遊ぶ」ように促しました。他の統制条件や観察学習条件に参加した子どもたちには、訓練の後に、実験物や新しい物の新しい使い方を考え出すよう求めたのです。それぞれの場合で、遊び条件の子どもは他の条件の子どもより、新しい使い方をより多く考え出したそうです。

シルヴァたちの研究やダンスキーとシルヴァーマンの研究により、物を使って遊ぶ子どもは、その物を使って後に新しい問題を解決する可能性が高いことが示されました。このように、子どもは遊びを通して物について何か特定のことを学んだことにより、その物を後の状況で道具として用いる可能性が高まったと考えられます。もっと最近の研究ではグレドレインが、物を使った遊びをする傾向が強いことと、一般的に後の道具の使用との関連を調べたそうです。彼の研究では、3歳児が1人ずつ一連のおもちゃを使った自由遊びセッションに参加し、一部の子どもには物を使った遊び、たとえば、レゴ、木のプロックを組み合わせて家を作るリンカーンログをするよう促しました。別のセッションで子どもには、どれも遊びセッションでは見たことがない物が置かれたテープルの前に座り、そのうちの1つだけが、手の届かないおもちゃをうまく取り出すのに使うことができると言います。これは、先に述べたチェンとシーグラーが用いた手続きをもとにしています。グレドレインは、男児は女児よりも物を使った遊びをし、自発的に道具を使用しておもちゃを取り出す傾向が強かったことを報告し、男児の物を使った遊びをする経験の多さが、男児の方が道具使用課題の成績が高かった一因であると指摘しているそうです。チェンとシーグラーと同様、グレドレインは、道具使用課題の女児の成績は単純なヒントを与えられただけで男児のレベルにまで上昇したことを報告し、道具の使用における実際的な能力に性差はないことを示唆したそうです。むしろ主要な性差は、男児の方が物を使った遊びや、道具の使用に動機づけを持っていることにあり、物を使った遊びが多いことがおそらく物を潜在的な道具として見る傾向を強めているのであろうとビョークランドは考えています。

これらの研究は遊びの好ましい利益を示していますが、慎重に解釈しなければならないとも言います。なぜなら第一に、実験室において遊びを実験的に操作してわかることは、ある特定の変数がいかに行動に影響を与えるかということだけであり、必ずしもそれらの行動が現実に発達していく道筋がわかるわけではないからです。さらにもっと根本的なこととして、多くの遊びの充実実験では内的妥当性の重大な問題があると言います。たとえば、多くの実験で、遊びの処遇と大人が遊びながら子どもに教えることとが交絡しています。その上、このような研究の多くで実験者バイアスの統制がなされていないため、機能に関する多くの結論の正当性を立証できないと言うのです。内的妥当性の問題が制御されたとしても、たとえばある場合には10分間という短い時間で実験が行われており、そんなに短い実

験で3~5歳の子どもの安定した行動を変える効果があるかについては疑問視せざるを得ないというのです。

集中力の限界

日本の子どもはアメリカの子どもより多くの日数を学校で過ごしていますが、日本の学校制度ではアメリカの学校より、厳しい学業の合間に休憩が多く設けられていることが特徴のようです。たとえば、日本と台湾の1年生と5年生は、アメリカの子どもよりも多くの休憩時間をとっていると言われています。どちらの国でも、学校の1日はきっちりと決められており、 40 ~ 45分の授業の後に、10~15分の休憩時間があります。西洋人がアジアの学校を観察して共通に感じるのは、いかに子どもたちが集中しているかということだそうです。そのような高い集中力がみられる一因は、授業の合間の休憩で活発な遊びをする機会が頻繁にあるためだと考えられています。スティーブンソンとリーの報告によると、ミネアポリスの学校の1年生と5年生には1日当たり2回の休憩しかないそうですが、日本の仙台および台湾の台北の学校の1年生は4回、 5年生は5 ~ 8回の休憩時間があります。

また、台湾と日本では、5年生が学校で過ごす一週間当たりの時間はアメリカの子どもより長いものの、1年生が学校で過ごす一日当たりの時間は、台北( 4時間)と仙台( 5時間)の方が、ミネアポリス( 6時間)よりも短いことは注目に値するとビョークランドは指摘しています。これは、幼い子どもの集中力の限界が認識されているためだというのです。

多くの実験的な充実研究では、一般的には物を使った遊びや、特にふり遊びや社会劇的遊びが子どもの社会認知的状態の多様な側面、たとえば、役割交代や語りの能力、連想のなめらかさ、問題解決などに与える効果について調べられているそうです。次に、たとえば、視点取りといった能力に与える効果が検討されています。これらの研究で用いられる基準尺度の大半は訓練から短時間後にとられているため、遊びには遅延的利益というより即時的利益があると仮定しています。

例示のため、物を使った遊びの実験的な研究を紹介しています。物を使った遊びは通常、物を使って問題を解決するという状況で研究されてきました。この領域の古典的な研究は霊長類学者のヴォルフガング・ケーラーが行ったもので、チンパンジーが問題解決をするものだそうです。チンパンジーは棒で「遊んで」おり、何の目標も抱いていないようでしたが、思いがけなく、棒がつながることを発見しました。そして、つながって長くなった棒を使って、手の届かないバナナを取ったのです。

子どもの発達におけるこのアプローチを代表する研究が2つあるそうです。シルヴァ・プルーナーとジェノヴァは、ケーラーに類似したパラダイム、それは、ばらばらの棒、留め金、掛け金をかけたほうび箱をテープルの端に置く方法を用いて幼児を対象に実験しました。子どもに与えられた課題は、3本の棒をつなげて掛け金に届かせて掛け金を開け、色とりどりのチョークを取り出すことでした。その際、 3つの条件である、遊び条件、統制条件、大人が棒をつなげるのを観察する観察学習条件が用意されました。大前提として、遊びは新奇な問題を解決するための行動的可塑性を生み出すというものでした。その結果、遊び条件の子どもは他の条件と比較して、次第に単純な解決策から複雑な解決策を、またより目標志向的な解決策を生み出すことが示唆されたのです。シルヴァたちは、遊びでは目的よりも手段が重要であるため、遊びにより、最小限フラストレーションで、自発的に問題解決をする機会が与えられたと論じたのです。

剥奪

剥奪研究は、子どもの遊びの文献より動物の遊びの文献、特にネズミの研究としての方が一般的だそうです。これらの研究では、通常、子ども、あるいは動物の幼体の、社会的遊びや身体的活動を行う遊びの一側面が剥奪されます。これらの研究の背後にある前提は、遊びの一側面を剥奪すると、それが発達的に重要であるなら、つまり、有益な結果をもたらすのであれば)、子どもに再度遊ぶ機会が与えられると「リバウンド効果」が生じるはすであるということである。

この研究も面白いですね。と言うのも、園では、子どもの遊びを剥奪することがよくあるからです。「さあ、お片付けですよ。」「給食の時間ですよ。」というような場面が多いからです。研究によれば、子どもは高いレベルでより長い時間遊ぶことで、その剥奪の埋め合わせをするだろうと推測できます。大半の剥奪研究は、子どもから遊びを剥奪すると1つ以上のことが巻き添えにされるという理由で批判されやすいようです。つまり、子どもが社会的な遊びを剥奪されると、同時に他の形式の社会的相互作用も剥奪されることが多いからだと言うのです。

子どもから遊びの機会を剥奪することの影響に関する研究は、そのほとんどが身体を動かす遊びについて行われたものだそうです。3組のフィールド実験で、P.K.スミスとヘイガンと、ペレグリーニたちは、イギリスの就学前児とアメリカの小学生を対象にして、それぞれ身体を動かす遊びをする機会を実験的に剥奪したそうです。結果はすべての実験で一致し、剥奪度が高いと、遊びの機会が再度与えられた場合に遊びのレベルが高まったそうです。さらに、小学生では、休憩時間により、教室に戻って来たときの学校課題への集中度が最大化したそうです。この結果から考えると、子どもの活動を中断せざるを得ないときには、その続きをやる保障をすべきようです。

身体を動かす機会を剥奪されると、その埋め合わせをするためにより長時間、強い運動遊びを行うそうですが、それは重要な訓練機能を果たしていると論じられているそうです。さらに、身体訓練の効果は比較的一時的なので、その効果は即時的であり、生涯のどの時期でも起こりうることが示唆されているそうです。たとえば、年長児および若い運動選手の研究において、運動訓練によって成績がかなり急速に向上したそうです。しかし、その訓練の効果は急速に袞えもしました。運動選手ではない子どもの場合でも結果は類似していたそうです。たとえば、8~12歳の子どもで、長距離走の訓練によって心拍数が下がり、最大酸素摂取量が増加しました。

学校課題への集中に対する休憩時間の効果について、ビョークランドらは、認知的未成熟性仮説と一致して、休憩時間に見られるような、特に焦点をもたない遊び活動が、より集中して取り組む学業からの解放となると考えていると言います。幼い子どもが最適な学習をするために、焦点化されない遊び活動が必要であることは、多くのアジアの学校制度で認識されているようだとビョークランドは言います。そして、日本の例を出しています。日本の子どもはアメリカの子どもより多くの日数を学校で過ごしていることはアメリカでは有名な話だそうですが、日本の学校制度ではアメリカの学校より、厳しい学業の合間に休憩が多く設けられていることはあまり知られていないと言うのです。

性特異的な行動

女児が乳児やままごとに強い関心を示すことには、性ホルモンと間する面もあるようです。たとえば、乳幼児に対する女児の関心は初経後に高まり、出生前に高レベルのアンドロゲンを受けた女児はその影響を受けていない女児よりも、ままごとや乳児に対する心が有意に低いそうです。しかしホルモンがすべてではないようです。ほとんどの文化で、女児は男児より子どもの世話という仕事が割り当てられています。しかし、そういった責任が与えられていなくても、女児は男児よりままごとをして遊ぶことが多いそうです。進化的な点からすれば、そういった志向性が後押しして女児は子どもの世話に関する活動に注意を払い、母親になったときにうまくこなすために役立つスキルを練習しているのだろうと思われます。女性は世界中のすべての文化において男性より子どもとのやりとりや世話に多くの時間を費やしている。そして、このような育児の責任の配分は進化的過去においてもおそらく同様であっただろうと思われます。

それに引き換え、先に述べたように、男児は女児よりも物を使った遊びを行う傾向が強いです。進化的な視点からすると、物を使った遊びの性差は、伝統的に成人男性が女性より多種多様な道具を扱うことが多かったことと関連しているかもしれないとビョークランドは言います。伝統文化では男性も女性も道具を使ったり作ったりしますが、これは祖先にも当てはまることは確かだそうですが、男性が武器や楽器、儀式用具などの道具の大半を作ります。したがって、男性が物を操作することへの志向性が高いことは、道具の使用と製作が重要な役割を果たす成人の生活に関連した、個体発生的な適応を反映している可能性があります。

男性と女性はほぼ同一の脳や生物学、適性を進化させてきましたが、男女は異なるバイアスをもち、受け継がれてきた遺伝子が、出生前の環境を含みますが、種に特異的な環境において発現することにより、若干異なるものを志向し、少しばかり世界を異なって解釈するようになったと考えられます。これらの異なる志向性が環境に支えられて、男児と女児は異なる経験をし、異なる力量を身につけていくのでしょう。このように遊びは重要な性特異的な行動の側面を獲得し、習得する媒体として機能するようです。遊びにおける性差や、そういった違いを生み出す経験は、成人の行動における性差の近接的なメカニズムとして働いていると思われます。そういった性特異的な力量は、議論したように私たちの祖先にとって適応的であっただろうとビョークランドは言うのです。

男児と女児の遊びの志向性におけるそういったバイアスは、出生前の環境で、女児の胎児に過剰なアンドロゲンが作用した場合のように、出生前にも、出生後にも、強い環境的サポートを受ける必要はありません。子どもが遊びを通して獲得できるのは、環境が与えてくれるものだけだと言うのです。しかし、そういったバイアスは進化の時間を経て選択されたと考えられます。なぜなら、それらのバイアスは適応的な行動を生み出し、そのバイアスが今日まで存続しているからです。資源をめぐる競争や道具の使用における性差が最小限に抑えられている現代人にとって、これらのバイアスの利益は不確かですが、それでも哺乳類や霊長類の遺産の一部なのだと言うのです。