乳児の泣き

ビョークランドは、愛着のある形式は他のものより適応的であるというボウルビーの主張を評価し、親の投資など子どもが感知した資源の入手可能性に応じて、異なる発達の道筋をたどることになる代替的愛着戦略を検討しています。この代替的愛着戦略とは、私は初めて聞きました。これは、どのような研究なのでしょうか?

ビョークランドらは、乳児がもつ知覚的パイアスと学習能力によって、乳児はヒト、特に母親への志向性を示すことで、愛着が促進されていく可能性について検討しました。しかし、乳児の身体的特徴や成人の気質のなかには、人生初期の愛着プロセスにさらなるバイアスをかけるものもあるかもしれないと考えたのです。

行動生物学的視点と一致して、ボウルビーは、乳児の身体的特徴と行動は成人、特に母親の養育行動を活性化させると主張しました。たとえば、さまざまな種に関するローレンツの観察と一致して、ボウルビーは、ヒトの養育行動は乳児の未成熟な特性に誘発されると考えました。ローレンツは、多くの種の乳児は共通して体の大きさに比して大きい頭、顔の残りの部分に対して大きい額、大きい目、丸い頬、平たい鼻、短い手足といった特徴をもつことを指摘しました。たいていの大人はそういった特徴を見てかわいらしいと思い、そのことによって愛着が促進されます。この考えを支持するのが、未熟児あるいは病気の乳児の研究だそうです。そういう乳児は乳児らしい顔の特徴を完全に備えていないことが多く、発声やアイコンタクト、大人の行動に随伴した反応といった、発達の節目となる出来事の出現が健康な乳児より遅く、そのため虐待を経験しやすいと言うのです。

乳児の泣きも強い刺激となって大人の注意を引き出します。乳児の泣きは無視しがたく、親になったばかりの人の多くは乳児が嫌がって泣くのを聞いて、恐れで身が縮まる思いがし、どんな悲劇が起こるのかと気に病みます。乳児のストレスに満ちた泣きにすぐに応答することを学習するということもあるでしょうが、親はそういった泣きに対して積極的に応答するよう「準備されて」いて、そのような応答をするのを公式に学習する必要はほとんどないということもあるでしょう。「赤ちゃんが泣いたときにすぐに応じると、嫌がって泣くのが止まるし、赤ちゃんは生きているわ」と確認でき、それは進化発達的視点とも一致しているのです。

また、ボウルビーは、赤い腹がトゲウオの攻撃的な反応を引き起こすのと同じように、乳児の泣きは生得的解発メカニズムとして働くと主張しました。進化の時を経て、苦痛で泣いている乳児に応答する大人は、子どもが繁殖できるようになるまで生きのびる傾向があったと言うのです。あるいは、苦痛の泣きは同様に反射的な方法で、年長者の同情や利他的行動を引き出すのかもしれず、そのことによって、無力な乳児は世話をしてもらい、生き残る見込みが高くなると言うのです。同じように、母と乳児の接触頻度が高いことが生存を高めるために必要であったために、先史時代には泣くことは捨てられたことを示すものだったかもしれないと言います。そのため、母親は常に乳児を自分のすぐ近くに置いておき、同種の個体や、おそらく捕食者によって乳児が殺されてしまうのを未然に防いだのでしょう。また、泣くことは乳児のたくましさや活力を示す可能性もあります。

乳児の泣き” への5件のコメント

  1. 朝の支度、息子たちを保育園へ送り出すまでに起き得る数々のドラマにその都度対処すべく、彼らが目を覚ますその前に身支度を整え、家事を済ませ、と、朝から夫婦は動き出します。お陰様で、子どもたちの成長に伴い、楽になってきた部分も多くなりましたが、「乳児の泣き」これが常であった頃が思い出され、「恐れで身が縮まる思いがし、どんな悲劇が起こるのかと気に病みます」決して大袈裟な表現でないことを子育て中の方々と大いに共感したい、そんな気持ちになります。子どもたちのキゲンの良い日の何と幸せで有難いことでしょう。ただ、それもお陰様なことで、毎日の積み重ねの中で誰しもの心が、子どもたちが生まれる以前より強くなっていることにふと気付くもので、以前の自分に比べたら幾分か心の寛容さにも磨きがかかっていたりするものです。明日の朝はこことここの場面で笑顔でいてみよう、こうなった時はこうしてみよう、色々と試して楽しい朝を演出してあげたいですね。

  2. 今回のブログを読み進めていく中で、3段落目の記述にハッとさせられました。そうれはどういうことか、といいますと、ボウルビーの「ヒトの養育行動は乳児の未成熟な特性に誘発される」という考え方にまずは首肯し、ローレンツによる赤ちゃんの身体表現が「愛着」の源という説にも納得いきました。ところが、その愛着は「健康な乳児」にとって一般的なことであって、「未熟児あるいは病気の乳児」は必ずしもそうではなくむしろ「虐待を経験しやすい」というのです。このことに私は驚きました。そして、さらに考えたら、愛着と虐待は表裏一体のものか、という思いが湧いてきました。さらにさらに考えたら、褒めると叱ると同様、愛着と虐待はそもそも極端?のことか、という思いにも行き着いたのです。テンション面を考えると、これらの行為はハイテンション下で行われることでしょう。乳児あるいは子どもの視点に立った時大人がそのように名付ける行為は有難迷惑・・・?いろいろと考えさせられた今回のブログでした。赤ちゃんの泣きについてはブログ再読しながら理解を深めていきたいと思います。

  3. 「乳児の身体的特徴と行動は成人、特に母親の養育行動を活性化させる」とありました。その例にあった顔や手足などの乳児の未成熟な特性にヒトの養育行動が誘発されることは、子どもがいない私でも幸い保育園という子どもたちと関われる環境に身を置けているためか、とてもよくわかります。しかし、この考えを支持する未熟児あるいは病気の乳児の研究は、何とも悲しい現状ですね。親の養育行動を誘発するための準備が整わなかったという解釈になるのでしょうか。さらに「泣き」に関しても、親が乳児の泣きに対して積極的に応答するよう「準備されて」いることも親と保育者ではまた違うのかもしれませんが、保育者視点からでも多少は共感できる気がします。また「先史時代には泣くことは捨てられたことを示すものだったかもしれない」という「泣き」の今と昔の意味合いの違いも面白いです。捉える意味合いが変わっても、根本の部分が伝承され続け、残っているような印象を受けました。

  4. 病気であったり未熟児は虐待を受けやすいという事実に驚きます。赤ちゃんがかわいく感じるのはそのような黄金比とでもいうものにより、かわいく見えていて愛着形成の役に立っているということなんですね。赤ちゃんは自分を守ってもらうためにあのようなかわいい見た目になっていると考えていくと、生きていく上で見た目というものも大切な要素だということになりますね。
    病気の子や未熟児はその準備が阻害された、あるいは整う前であったというようなことでしょうか。
    赤ちゃんの泣き声は確かに、特に我が子であればなおさら反応してあげたくなります。それは、そのように準備されているということなんですね。
    また、先史時代の赤ちゃんの泣き声は捨てられていることを表すものであったかもしれないということで、泣くことで生き長らえる可能性を広げていた、「自分はここにいる」ということを知らせていたんですね。改めて生きる知恵の凄みを感じます。

  5. “乳児は乳児らしい顔の特徴を完全に備えていないことが多く、発声やアイコンタクト、大人の行動に随伴した反応といった、発達の節目となる出来事の出現が健康な乳児より遅く、そのため虐待を経験しやすい”とありました。
    いくら我が子であっても、このような気持ちが起きやすいということにはどこか嫌な感じがします。子どもは、生まれながらにして生きる権利があるものの、大人によって左右されていることもたしかであり、遺伝子的反応、つまり、生得的に生存率が高いものを選ぶことがこういった形ででるのでしょうか。子ども、特に我が子となるとわかってはいるものの、となってしまうことはあると思います。そういったときに子どもという存在が自分にとってどのようなものか、と話せる場があることは必要なことであり、そういった場が園である必要性を改めて感じます。
    と話がそれましたが、赤ちゃんの泣きには意図があり、それが生きるために行う力が赤ちゃんに備わっていることを考えられました。

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