一般的な遊びの定義

日本の科学者グループが研究した、野生ザルの群れでサツマイモをある若いサルが食べる前に海水で洗うことを学習し、それに続いて他の若いサル、次に大人のメスが学習しました。しかし、大人のオスが学習することはほとんどなかったというような文化の伝承は、ある示唆を与えました。この新たな方法は「文化」の一部として乳児にも伝えられていったというのです。重要な文化的革新が、ヒトの子どもの遊びを通して起こるとは考えにくいとビョークランドは言いますが、それでも子どもが遊びを通して発見することは後の革新や真の創造性の基盤として役立ち、後の生活において重要なものとなる可能性があるということは考えられています。

行動におけるこれらの個人差が、「ポールドウイン効果」の扉を開き、集団内の表現型としての行動的多様性が遺伝的に固定されることになるのかもしれないと言うのです。ビョークランドは、進化発達心理学的な視点から遊びを定義しています。彼は、遊びは、行動生物学や社会生物学の研究において表明された広範な基盤をもつ考え方と、かなりうまくあうと言います。実際、 E.O.ウイルソンは、遊び、血縁淘汰、親子葛藤、縄張り主張、同性愛を動物行動の5領域として取り上げています。その一つの遊びは、社会生物学的な説明を必要とするものとしました。ビョークランドらは、遊びの個体発生、系統発生的な比較、その発生に影響を与える近接要因という点から、遊びを定義しています。彼らの主張は、遊びのある側面には確かに遅延利益があり、子どもが大人への準備をするのに役立ちますが、遊びには即時的利益もあるというもので、子ども時代の諸側面には発達のその時期でのみ適応的であって、大人への準備として存在しないものもあるという考え方を持っています。その利益の性質とタイミングは、たしかに、たとえば、種や生態系によってかなり異なるであろうと言います。

次に、彼は、費用便益分析を用いて、遊びに考えられる機能や、遊びのデザイン特性の調査、実験的な遊びのはく奪および充実研究について考えています。遊びの考えられる機能を決定するためだけではなく、利益が生じる可能性がある発達の時期を見つけるうえでも役に立つと考えています。遊びの機能を議論していく中で、特に進化適応の環境における生活と関連するものとして性差を検討しようとしています。

遊びを理解する重要な一歩は遊びを定義づけることですが、最も広くは、遊び的とは見なされない行動との相違点から、もっと具体的にはそのデザイン上の特性という点から定義するのがよいビョークランドは考えています。その特性にもとづいて、考えられる機能について推測することができるからです。つまり、構造的な特性を用いて機能を推測するというのです。このような視点から、身体を動かす遊び、物を使った遊び、社会的な遊び、ファンタジー遊びについてどう考えればいいのでしょうか。

身体を動かす遊び、物を使った遊び、社会的な遊び、ファンタジー遊びはどれも芸術によく似てと言います。つまり、誰もが見ればそれとわかりますが、定義することは難しいものです。現象の複雑性を考えれば、どんな遊びの定義も十分ではないと考えるのが一般的であり、通常、多次元的に定義されることが多いようです。

一般的な遊びの定義” への9件のコメント

  1. いわゆる、ある業績を残した人たちの子ども時代を調べると、部屋に閉じこもって、机に座って勉強ばかりしていた、という事例にはあまり遭遇しませんね。とにかく、よく遊んでいた、ということを聞くことがままあります。その遊びも単純な遊びから複雑な遊びまであるようです。また、大人の目からは「いつも同じ遊びばかりして」と見える遊びが実は複雑であった。プロセスが問題であった、ということもあるようです。「子どもが遊びを通して発見することは後の革新や真の創造性の基盤として役立ち、後の生活において重要なものとなる可能性がある」ということに繋がるのでしょう。遊びの定義、については、そう簡単ではない、ということが私たちの日常を振り返っても理解できるような気がします。目的の有無問題から始まって、どこまでが遊びでどこからはそうではないのか。以前、臥竜塾ブログの本文かコメントに後白河法皇『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生まれけん」の一節が引用されていたことがありました。ヒトは遊ぶために生まれてくる。ホモルーデンスの私としてはこの上なく有難い言葉です。

  2. 「遊びには即時的利益もあるというもので、子ども時代の諸側面には発達のその時期でのみ適応的であって、大人への準備として存在しないものもある」新指針にもあるからこそとても注目し、忍耐や自制心、非認知的な能力を助長させるような要素にばかりいきがちな思考に、上記抜粋の文章は、遊びの本質について書かれているようでとても印象的で、大きな意味をもつように感じられました。子どもの世界と大人の世界が異なることについて書かれていたことを思い出すのですが、子どもの世界には子どもにしかわからないことがあり、子どもの時にしかわからないことがあるということです。その視点から見た時、「遅延利益」というのは、どうも大人の視点から子どもの遊びを見ているような気がします。子どもの遊びはそのままで意味がある、それは「まるごと子どもを信じる」、見守る保育の三省の一つを表しているようにも思われます。

  3. 〝子どもが遊びを通して発見することは後の革新や真の創造性の基盤として役立ち、後の生活において重要なものとなる可能性がある〟とあり、その後に〝大人への準備をするのに役立ちますが、遊びには即時的利益もある〟とありました。子どもたちにとって遊びとは…と考えている時点で、もう大人目線のような気がしてきました。大人への準備の機能もあり、その時だけに役立つものとあるということでしたが、何の役にも立たないものはなく、やはり一つ一つの出来事に意味があり、つながっていくのでしょう。
    ホモルーデンス(遊び人)と以前のブログでありましたが、安心して遊べることが何より重要である気がします。

  4. “遊びには即時的利益もあるというもので、子ども時代の諸側面には発達のその時期でのみ適応的であって、大人への準備として存在しないものもある”といったことから、一つ前の内容にもあったように、文化を見通したような遊びを選び行うような姿、大人になっていくために必要な力と、将来ではなく、今の利益も考えていくと、今の経験があることで子どもは、その経験を通した学びを感じれることができ、その経験が今をよりよく生きていくためには、必要な力と考えると、それが生得的であることは、本来の生き方から必然であることが現れているような気がします。
    また、遊びの定義を考えると、と、思うと、同じ遊びを行っていたとしても、実際には、子どものなかにおける定義は違いがあるのではと思います。遊びについて、考えることで、子どもが生活するなかでそういった場面に出逢い、生きていくことをどう感じているのか、考えることをしたいと思います。

  5. E.O.ウイルソンは、遊び、血縁淘汰、親子葛藤、縄張り主張、同性愛を動物行動の5領域として取り上げているのですね。この5つが並ぶと、なぜか「遊び」だけ他の4つとの差があるように感じてしまい、浮くような感覚になってしまうようにも一見感じますが、それだけ遊びが重要であることが伝わってきますし、「子どもが遊びを通して発見することは後の革新や真の創造性の基盤として役立ち、後の生活において重要なものとなる可能性がある」ことだけでも十分な深みがあるように感じます。さらに「身体を動かす遊び、物を使った遊び、社会的な遊び、ファンタジー遊びはどれも芸術によく似ている」とあるように子どもたちの遊びから生まれる作品や姿、何より笑顔に芸術性を強く感じます。それを保証していく場、環境を整えていくことに私たち保育に携わる者の専門性があると再確認できました。

  6. 「子どもが遊びを通して発見することは後の革新や真の創造性の基盤として役立ち、後の生活において重要なものとなる可能性がある」とあり、それは保育をする上で前提において保育する必要性を感じます。さらには「遊びには即時的利益もある」ということも考えられているのですね。そう考えると本当に「遊び」というのは幅広く機能していることから子どもにしかわからない部分を理解しようとしても難しいことも考えるとやはり、子どもが自発的にできる環境をこそがそれを発達させることになり、大人というのは環境を用意するということに行き着くということになるのですかね。

  7. 遊びには「遅延利益」「即時的利益」があるというのは重要な事柄ですね。どうしても遊びに意図を持たせてしまいがちで、本来の遊びの意図を無視してしまうような気がします。とはいえ、全く保育者が関与しないというのも少し違ってくる気がします・・・根本的な「環境を通して」というのは難しいと感じたところです。さて遊びが芸術に似ているというのは何となく理解できます。子どもが描く絵を見ても、大人からすると真似できない物ばかりです。お正月に書き初めをしますが、子ども達が自由に書く文字はどれも好きです。そんな自由に表現できる環境を用意して行く事ができればと思いました。

  8. 藤森先生がいつも同じ遊びをしている子でも、そこで様々な学びを経験しているということを言われていました。その後に園のブロックゾーンで、ブロックで遊びながらも様々な学び(科学や、算数、協働、ごっこなど)をしながら遊んでいる子どもを見たときに感動したのを覚えています。一見すると遊んでいるで終わってしまうのかもしれませんが、子どもはその中で本当に多くのことを学んでいますね。また、遊びには「遅延利益」や「即時的利益」があるとありました。このような視点で考えたことがありませんでした。私たち人が生活の中で行なっていることも似ているのかもしれませんね。即時的な利益がある場合もありますし、遅延利益のように、とにかく今を頑張るというか、楽しんで行っていくことで、将来どこでどんな風につながるか分からないということはたくさんあるように思います。そのためには子どもの「遊び」のように、何事も楽しむことが大切なのかもしれませんね。

  9. 遊びの中には大人になる準備期としての「遅延利益」と発達の時期ごとに適応的な「即時的利益」というものがあるのですね。私たちが保育の中で「意図」として考えるものはどちらにカテゴライズされるのでしょうか。そもそもそういった区分けみたいなこと自体がナンセンスなのでしょうか。しかし、そのどちらにも言えることは子どもたちがその時期に必要とすることが行える環境をいかに整えるかということが重要であるように思います。子どもたちがその時期の発達において必要なものが置かれていることで工夫が生まれ、創造性ができてくるように思います。そう考えると保育者が行う「活動」といったものよりも自由遊びの時間こそ意味のある時間なのでしょうね。

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