子どもの遊びの理解

子どもの遊びの理解はたしかに種のすべてのメンバーの社会的、情緒的、知的発達を適切に理解することと関連していますが、遊びの性差に特に興味をもった研究者もいるそうです。進化心理学者は親の投資理論の予測に従い、行動の性差に焦点を当ててきたそうです。この理論によると、子どもに多くの投資をする性、大半の哺乳類ではメスだそうですが、より配偶者の選り好みをし、性交渉への同意に慎重だそうです。投資が少ない方は、哺乳類ではオスですが、配偶者の選り好みが少なく、投資が多い方の性に近づくため互いに競い合います。この理論では、これらの単純な差にもとづいて、オスとメスは繁殖行動と養育行動について異なる適応戦略を進化させ、ヒトもその例外ではないと考えられているそうです。

進化発達的な視点から考えれば、正固定的な成人行動が完全に形成された形で現れるということはなく、そういった行動の未成熟な形態が子どものころに見られ、それが大人への準備として役立っているはずだと言います。遊びは、子どもが社会的、物質的世界に関する情報を得る重要なメカニズムとして自然淘汰によって形成されたものであるとすれば、遊びにおける性差は男性と女性がもつバイアスを反映しており、男性と女性は異なる経験を志向し、異なる子どもや大人の生活様式の準備をしている可能性があると考えられます。そこで、遊びにおける性差を検討し、それらの違いを祖先の男性と女性にとって適応的な価値があった可能性という点から、ビョークランドは解釈しようとしています。彼は、適応的であると推定される乳幼児期の特徴がすべて、後の成人期への適応であるわけでは必ずしもないと再三言っています。それどころか、進化発達心理学の理論によれば、子どもの行動や認知のある側面は、進化の過程を通して、未来の環境に準備するためではなく、現在の環境に適応するように淘汰されてきたというのです。遊びには、種に普遍的な遊びの特徴にも、男性と女性で差のある特徴にも、即時的利益と遅延利益があるとビョークランドらは考えているそうです。

特に乳児期には、環境を利用して遊ぶよりも環境を探索することに多くの時間を割きますが、探索に使われる時間とエネルギー量を正確に実証した研究はないそうです。探索は情報収集の冒険であり、最も初期の形式では口に入れたり、物を単純にいじったりすることからわかります。探索する際、乳児は「それは何ができるのか?」という問いに導かれていると考えられています。この物への志向性は「それを使って何ができるか?」という、より人中心の志向性に導かれた遊びとは異なります。探索を通して子どもは身の周りの環境を知るようになります。この知識によって遊びの基礎が培われると言うのです。そういうものとして、探索は遊びとは区別して考えなければならないと言います。

同様の傾向がヒト以外の子どもにも存在するそうです。たとえば、家畜の子豚では新奇な刺激の探索は増加した後減少するそうですが、探索の減少に伴って物を使った遊びが増加するそうです。さらに、動物が自分の直接的なニッチにある物や同種個体に慣れてくると、他の場所に出かけて新奇なものを探索することが多いそうです。チンパンジーでも生後2ヶ月で探索が見られ、その後より遊び的な行動移行するそうです。

遊びの三つの形式

遊びを定義するための多次元的アプローチは有用であり、その活動が遊び的であるかどうかを決定するのに、観察者がさまざまな手がかりから情報をどう結合するかについて検討した研究がいくつかあるそうです。行動に先立つものや結果は現象を識別する上で役立つかもしれませんが、それらはそれぞれ行動を誘発するものと行動の結果と見なされるべきであって、行動それ自体の構成要素ではないと言います。したがって、これらの次元を概念的に区別しておくことは、特に遊びが発達に果たす機能の役割を考えるときには重要だと言われています。

子どもの頃のさまざまな形式の遊びを調査すれば、遊びが多次元的な構造をもつことは明らかだと言います。遊びはすぐそれとわかり、哺乳類全般に見られます。そのことから示唆されるのは、共通の系統発生史があるか、あるいは哺乳類という種に共通の淘汰圧が働いた可能性があるということだと考えられています。主に未成熟期に生じる遊びの形式は、行動生物学者や子どもを研究する発達学者たちによって、それぞれ別個に区分されてきました。

行動生物学者は一般的に、身体を動かす遊び、社会的な遊び、物を使った遊びという3つの形式をあげ、それらはすべてが一見して無目的であると考えています。子どもを研究する発達学者もそれらの形式の遊びを研究してきたそうですが、ふり遊びやファンタジー遊び研究の方にもっと多くの時間を割いてきたそうです。たしかに、ファンタジー遊びは遊びの範例として児童心理学者に引用されることが多いようです。しかし、ヒト以外の動物が自然生態系の中でファンタジー遊びをするかについては、さまざまな議論があるそうです。

身体を動かす遊びでは、大げさで繰り返しのある動きが見られ、そうした動きは新しい順序で起こることが多いと言われています。それらの動きはピアジェやプルーナーが記述した、幼い子どもが自分の体の働き、彼らの世界にある物の働きを習得し始めた頃に行う行動です。社会的な遊びとは、子ども同士や、子どもと大人の間で行われる、一見目標がないように見える行動です。ヒト以外の動物では、大半の社会的な遊びは子ども同士で生じますが、ヒトでは、社会的遊びは大人と乳児の相互作用にまず現れ、後に仲間との遊びに生じると言われています。物を使った遊びは、ひとり遊びにも社会的遊びにもなりえるもので、知識を得ようとするのではないやり方で、ものの環境を操作することです。ファンタジー遊ひは社会的遊びにも非社会的な遊びにもなりえるもので、想像的で、物や遊び相手に「あたかも」何かであるかのように見たてます。これらのタイプの遊びに序列はないと考えられており、互いに同時に起こることも多いようです。たとえば、取っ組み合い遊びをしている2人の子どもは社会的でも、運動的でも、ファンタジー的でもありえます。たとえば、スーパーヒーローの戦いごっこなどがそうです。

大半の哺乳類が社会的な遊び、物を使った遊び、身体を動かす遊びを行うと言われています。動物の文献を幅広く概観すると、遊びには、動物の約10 %の時間とエネルギーが費やされていることが示夋されているそうです。一方で、子どもの遊びは、さまざまな形式の遊びに発達的な経過が見られる点で、ヒト以外の動物の遊びよりも分化していると言われています。この分化の一環として探索と遊びは分けて説明されてきたようですが、探索は情報を獲得するために物を操作するという点で、知識に関わっています。遊びは定義上そういう目標をもたないと言われています。

遊びに先立つもの

ルビン、ファイン、ヴァンデンバーグの子どもの発達に関するレビュー文献によると、子どもの遊びは心理的傾向、行動、遊びを支える、すなわち遊びに先立つ文脈という3つの次元で定義されています。行動生物学者も複数次元に沿った遊びの定義を提唱しており、構造的である行動的 、結果的である遊びに伴う行動、遊びが生じる関係的基準を提唱しているそうです。

おそらく遊びの基準として最も一般的に認められているのは、遊びは一見、即時的な目的をもたないことです。ルビンたちの枠組みによると、その即時的な「目的をもたない」という基準は、「目的よりも手段」を重視する心理的傾向と関連しているようです。目的よりも手段に着目するということは、子どもは行動のプロセスそれ自体に関心があって、行動の結果は気にしないと仮定しているということなのです。また、動物の遊びの定義においても目的より手段が重要であることを、行動生物学者は最優先しているそうです。

遊びには目的がないという基準と深く関わるのが、遊びの中でセルフハンディキャップがよく行われることです。つまり、遊びにおいて、より強いあるいは卓越した者は、より弱いあるいは小さい者が遊びで優位になるようにするというのです。たとえば、追いかけっこで、より早いリスは最初に同種個体を追い抜いてしまいますが、近くに戻って来て、また追いかけっこを始めるそうです。子どもでも、年長の子どもは仰向けになったりして、年少者が遊びで上位の位置にいると思えるようにすることが多いようです。この行動は、上位の者は結果的に何の資源も得られないでしょうから無目的のように見えます。

傾向という次元に加えて、遊びは遊び行動自体に先立つ現象および続く現象からも定義されてきたそうです。ルビンたちは、遊びに先立つものを、文脈つまり遊びを引き出し支えていく状況という点から定義づけたそうです。遊びを可能にする文脈の諸側面には、安全で友好的な、物的にも人的にもなじみのある環境、大人が最低限にしか立ち入らないこと、子どもにストレスや空腹、疲れがないことなどがあります。マーティンとベイトソンは、空間関係を用いて遊びなどの行動を分類する同様の方法を生み出しました。つまり、もし行動がある特定の状況や、子どもなどの特定の集団内で同時に起こったら、その行動は同じカテゴリーに属することができます。たとえば、運動場で観察されるすべての行動は通常、遊びと見なされます。

同様に、遊びはその結果や、遊びに伴う行動という点から定義づけることができると言います。この方略は、行動生物学者がよく用いるもので、子どもの発達に関する文献でも、取っ組み合い遊びや、平行遊びなど、特定の遊びの側面を定義するのに用いられているそうです。たとえば、 取っ組み合い遊びとは、他の文脈では攻撃的であると見なされるような格闘をしたり、組み合ったり、蹴ったり、転がったりする活発な行動のことを指します。もしその一勝負が終わっても子どもたちが一緒にいたら、その行動は攻撃行動ではなく取っ組み合い遊びと分類されます。もし、別々になってしまったら、それは攻撃行動と定義されます。遊びを分類する際には、遊びに先立つ側面と遊びの結果の次元から、遊びを構造的に定義づけることが役立つといいます。

一般的な遊びの定義

日本の科学者グループが研究した、野生ザルの群れでサツマイモをある若いサルが食べる前に海水で洗うことを学習し、それに続いて他の若いサル、次に大人のメスが学習しました。しかし、大人のオスが学習することはほとんどなかったというような文化の伝承は、ある示唆を与えました。この新たな方法は「文化」の一部として乳児にも伝えられていったというのです。重要な文化的革新が、ヒトの子どもの遊びを通して起こるとは考えにくいとビョークランドは言いますが、それでも子どもが遊びを通して発見することは後の革新や真の創造性の基盤として役立ち、後の生活において重要なものとなる可能性があるということは考えられています。

行動におけるこれらの個人差が、「ポールドウイン効果」の扉を開き、集団内の表現型としての行動的多様性が遺伝的に固定されることになるのかもしれないと言うのです。ビョークランドは、進化発達心理学的な視点から遊びを定義しています。彼は、遊びは、行動生物学や社会生物学の研究において表明された広範な基盤をもつ考え方と、かなりうまくあうと言います。実際、 E.O.ウイルソンは、遊び、血縁淘汰、親子葛藤、縄張り主張、同性愛を動物行動の5領域として取り上げています。その一つの遊びは、社会生物学的な説明を必要とするものとしました。ビョークランドらは、遊びの個体発生、系統発生的な比較、その発生に影響を与える近接要因という点から、遊びを定義しています。彼らの主張は、遊びのある側面には確かに遅延利益があり、子どもが大人への準備をするのに役立ちますが、遊びには即時的利益もあるというもので、子ども時代の諸側面には発達のその時期でのみ適応的であって、大人への準備として存在しないものもあるという考え方を持っています。その利益の性質とタイミングは、たしかに、たとえば、種や生態系によってかなり異なるであろうと言います。

次に、彼は、費用便益分析を用いて、遊びに考えられる機能や、遊びのデザイン特性の調査、実験的な遊びのはく奪および充実研究について考えています。遊びの考えられる機能を決定するためだけではなく、利益が生じる可能性がある発達の時期を見つけるうえでも役に立つと考えています。遊びの機能を議論していく中で、特に進化適応の環境における生活と関連するものとして性差を検討しようとしています。

遊びを理解する重要な一歩は遊びを定義づけることですが、最も広くは、遊び的とは見なされない行動との相違点から、もっと具体的にはそのデザイン上の特性という点から定義するのがよいビョークランドは考えています。その特性にもとづいて、考えられる機能について推測することができるからです。つまり、構造的な特性を用いて機能を推測するというのです。このような視点から、身体を動かす遊び、物を使った遊び、社会的な遊び、ファンタジー遊びについてどう考えればいいのでしょうか。

身体を動かす遊び、物を使った遊び、社会的な遊び、ファンタジー遊びはどれも芸術によく似てと言います。つまり、誰もが見ればそれとわかりますが、定義することは難しいものです。現象の複雑性を考えれば、どんな遊びの定義も十分ではないと考えるのが一般的であり、通常、多次元的に定義されることが多いようです。

遊びの重要性

ビョークランドは、遊びはヒト特有のものではありませんが、とても重要なものと考えているようです。事実、歴史学者のヨハン・ホイジンガは、ヒトをホモ・ルーデンス、「遊ぶ人」と呼んだことを例に挙げています。ホイジンガによると、遊びは文化より古く、文明化によって大きく変化することはありませんでしたし、「ヒト社会の偉大な原型的活動」が始まったときから行き渡っていたと言います。系統発生的にいえば遊びは実に古く、大半の哺乳類や、一部の爬虫類にさえも見られるそうです。さらに遊びは未成熟期の特徴であり、それほど多くはないそうですが成体にも見られるようです。

ビョークランドは、遊びはヒトの発達にいかに重要であり、また進化的視点をもつことによって、遊びがヒトの社会的、情緒的、認知的発達に果たす役割の理解が進むであろうと考えています。

遊びは「明確な機能をもたない」ものと定義されることが多いと言います。進化論者やホイジンガのような歴史学者は、遊びに機能がないと考えることはなかったそうですが、遊びの機能の本質については白熱した議論が展開されてきました。実際、行動生物学者や発達心理学者の中には、動物や子どもは遊びにかなりの時間とエネルギーを注いでおり、したがって、進化的視点から見ると、重要な機能があるはずだと主張する者もいるそうです。遊びには先送り機能あるいは遅延機能、つまり後の成人行動の準備としての機能があると解釈されるのが一般的だそうです。しかし、子ども時代を生きのびて、性的に成熟することが必要であるため遊びには即時的利益もあるという見解もあり、自然淘汰が子ども時代に機能的な圧力をかけたという視点と一致してそうです。

遊びは、社会生物学者や行動生物学者、子どもを研究する発達学者を長年にわたって特に魅了してきましたが、定義にも機能の同定にも困難が伴っていました。それらの難問に対応する方法のひとつが、遊びを子どもが行うすべてのことと定義し、それに対応する無数の機能をあげることだったそうです。少なくともグロースに始まって、遊びは未成熟期の特質と考えられるようになったそうです。彼やその後の多くの学者たちが、遊びには多くの重要な発達的機能があると主張しています。この見解によれば、子どもは遊びを通して、成人してうまく生きていくために必要なスキルを学ぶことができるのだということです。

動物や子どもの遊びの研究者のなかには遊びは創造性や行動的柔軟性の源であり、最終的には古い問題を解決するための新しい方法を発見することにつながると考えた者もいたそうです。そして、若い動物には遊びを好む傾向と好奇心があるために、革新をもたらすのは大人ではなく若者であることが多いことがわかっています。この主張を支持するのは、論争を呼んだイモを洗うニホンザルの観察だと言われています。日本の科学者グループが野生ザルの群れにサツマイモを与えましたが、たいてい土まみれでした。ある若いサルが食べる前にイモを海水で洗うことを学習し、それに続いて他の若いサル、次に大人のメスが学習しました。しかし、大人のオスが学習することはほとんどなかったそうです。この新たな方法は「文化」の一部として乳児にも伝えられていったそうです。重要な文化的革新が、ヒトの子どもの遊びを通して起こるとは考えにくいですが、子どもが遊びを通して発見することは後の革新や真の創造性の基盤として役立ち、後の生活において重要なものとなる可能性があると考えられています。

社会的行動の発達

世界中の子どもが、先史時代を含めた歴史を通して直面してきた社会的環境は多様であり、それに効果的に対処するために子どもや大人が発達させてきた行動的解決法はひとつではありませんが、多くの共通点や社会的発達を記述、説明、予測することができるいくつかの全般的な進化のメカニズムがあると言います。たとえば、うまくいっているヒトの社会的相互作用は、協力などの親和的行動、敵対行動.特に攻撃的行動から成り立っています。これらの形式の相互作用は年齢とともに複雑になっていきますが、生涯を通じて現れ、ヒト以外の霊長類にも見られるそうです。通例、これらの行動の価値は進化の経済モデル、つまり、ある状況における特定の行動のコストと利益のバランスから理解できると言います。しかし、親の投資などの他の進化理論でも、どういった状況で、攻撃的に、あるいは暴力的にふるまう人が出てくるのかを予測することができると言います。また、現代の考え方からすると、そういった一見非生産的な行動が進化によるメカニズムに由来するものであり、古代の環境においては平均してコストを上回る利益を生み出していたことを理解するのに役だと言うのです。

二者間の協力関係や地位追求、内集団びいきや外集団回避に対して進化によるバイアスがありますが、特定の社会的行動は子どもと環境間の動的な相乗的相互作用の結果獲得されることを、ビョークランドらは、ひき続き重視していきたいと述べています。この相乗的相互作用の多くや、子どもが社会的発達について学ぶことの多くは、特に幼児期を過ぎてから仲間とともに生じると言います。おそらく、最も社会的に適切な情報を仲間とともに学んでいくのは、遊びを通した「メカニズム」であるということで、彼は、次に遊びの重要性を考察しています。

乳幼児期における学びは「遊び」であることはよく知られています。しかし、以前に私が課題として投げかけたものの一つに、遊びにおける目的です。遊びには目的がないゆえに素晴らしいものということがあります。それを、逆に目的がないために学びがないという考え方をもあります。また、生活と遊びによって乳幼児は発達していくと言いますが、生活と遊びにはどのような区別があるのでしょうか?たとえば、乳児が食事の時に机をたたいていると注意されますが、太鼓をたたいていると遊んでいると喜ばれます。しかし、赤ちゃんからすれば、その区別は特にありません。ともに、発達上必要なことを行動に表しているにすぎません。

「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方について」の報告書には、遊びについてこう書かれてあります。「幼児期の教育は環境を通して行うこと、幼児の生活や経験からの学び、自発的な活動を重視している。これにふさわしい指導方法が遊びを通した総合的な指導である。幼児期における遊びとは、余暇活動ではなく、学びそのものであり、幼児が遊び込むことができる環境(学びに深さと広がりをもたらす環境)をいかに構築するかが教職員の指導における重要な課題となる。」

では、ビョークランドは、進化発達から考えて「遊び」をどのように捉えらているのでしょうか?

集団

女性が男性に近づく機会をめぐって相互に張り合う方法に違いがあることは、男性と女性が用いる攻撃行動の種類に影響を及ほしているようです。まず、男性が女性より言語的、身体的な攻撃行動を起こすことはよく知られています。さらに、女子が男子より関係的、あるいは間接的攻撃行動や、仲間関係につながる攻撃行動を用いることもわかっており、たとえば、社会的集団からひとりの女子を排斥したり、その子の評判を落としたりします。ただし、このことに関して注目すべき点は、女子が関係的攻撃行動を起こしても、それは男子が他の形式の攻撃行動を起こすよりもなお低い水準であるということであると言います。

攻撃行動のすべてのタイプに男女差があるのは、社会化や、ホルモン、進化の歴史に関連する違いが複雑に絡み合っているためだと言います。たとえば、男性は歴史的に見て狩人であるため、より強く、大きい身体を発達させてきました。狩りに用いる身体的行動パターンは、たとえば女性に近づく機会を得ることというような目標を達成するために、同種個体と対抗する際にも用いることができます。進化の歴史におけるこれらの違いは、関連する生物学的な、ホルモン、覚醒、自己制御などの歴史や、社会化の歴史にも反映されているそうです。

どうすればこの議論を、女性が優位性を確立し、維持する方法に関する、子どもの発達研究に活かせるだろうかという問いかけをビョークランドはしています。女性が対人的協力関係を用いて資源を入手する機会を得、それを維持することが原点となると言います。この観点からいうと、女性が用いる関係的攻撃行動についてさらに追求することが重要であると言います。女子が男子よりも関係的攻撃行動を用いることはわかっていますが、男子、女子双方について生涯を通じて、どの程度関係的攻撃行動を起こすのかを知ることが役に立つだろうと言うのです。

さらに、同性間、異性間の攻撃行動の目標を知ることも有用だろうと言います。つまり、関係的攻撃行動は、社会的関係を操作するために用いられますが、そういった関係が何の手段となっているのかは明確にはわかっていないそうです。就学前の女児は就学前の男児と同じように、お気に入りのものを手に入れるために関係的攻撃行動を起こすのでしょうか?青年期には他の女子に対抗して、配偶者になる可能性のある者に近くために、関係的攻撃行動を起こすのでしょうか?

ビョークランドは、ヒトの乳児が進化によって種に特異的な環境を「予期する」ように準備されているということを一つのテーマとして考察しています。ヒトに特異的な環境で最も重要なのは、他者、特に、母親や父親、他の血縁者、そしてさらに血縁関係のない、あるいは、あまり直接的な血縁関係のない少数の人々です。そういった血縁関係のない人の一部が仲間となり、ヒトはその伸間とともに成長していきます。それ以上に、ヒトの社会的環境は多様性に富んでおり、子どもはこれらの一見、予測不可能な環境に対応する効果的な方法を発達させなければならないのです。ビョークランドらは同種個体に対処するために有用な社会認知的プロセスの一部について議論してきました。それを彼は、進化発達心理学という本の中で、「ヒトの本性の起源」としてそれらのプロセスが行動に移される方法を見て、さまざまな形式の「実際の」社会的行動や、それが子ども時代に変化する様子を検討してきました。

優位性が目指す目標

攻撃行動や優位性に見られる発達的傾向は、優位性の論理と一致しています。つまり、優劣関係は個体同士が資源をめぐって競争し合うときに確立されるからです。一連の対決にもとづき、個体は他の個体との関連で自分の地位を知り、その結果、他の優位な個体には争っても負ける可能性が高いことを認識し挑戦しなくなります。つまり、そのような挑戦に関連するコストが、考えられる利益を上回るのです。見境のない攻撃行動を起こすことは、優位な個体の場合であっても、非常にコストが高いものです。負傷や敗北の可能性に関連するコストを考えて、代替戦略が用いられることが多いのです。ビョークランドらは、縦断研究から、優劣関係が敵対的な戦略によって確立された後には、優位性に関する親和的な側面が顕著になることを見出したそうです。つまり、優位性が確立された後、優位な個体は和解などの戦略を用いて、負けた仲間を集団に再統合するのです。

 

こういった種類の戦略は、従属者は優位者がもつ資源を手に入れる機会を得て、優位者は従属者らが手を組んで自分を倒してしまう可能性を最小限にするという点で従属者にも優位者にも利益をもたらします。こういうことは、以前いじめられた子どもが親和的ネットワークや、可能な協力関係を築くといった状況で起こりえます。つまり、青年期の優位性は幼い時期と同じように、向社会的戦略と攻撃的戦略双方を用いることができる能力と関連しているのです。優位性が目指す目標は、配偶者としての望ましさと関連していると言います。

 

こういったすべてを踏まえて問いたい疑問は、どのようにして従属者は資源を手に入れる機会を得るのかということです。代替戦略の観点からは、低地位のものがより高い地位の個体に脅しをかけたり、対抗したりするのは愚行です。そのかわりに、ヒト以外の霊長類において、低地位の個体は食べ物を盗んだり、望ましいメスとひそかに交尾したりするといった代替戦略を用います。メスはそういった戦略に興味を示す可能性がありますが、それは自分の子どもだと考えて、食料を与えたり保護したりすることによって投資してくれるオスが多くいうることは、そのメスと子どもにとって有益だからです。さらに、子孫への投資が低い乱交的な戦略は資源に乏しいニッチで用いられるだろうとビョークランドは考えています。

 

優位性に関する議論はこれまで、オスがオス集団における優位性やリーダーシップを手にするために用いる戦略に焦点をビョークランドらは当ててきました。オスの優位性は上述したように、通例は資源、特に配偶者を手に入れる機会という点から順位づけられます。ダーウインもまた、メスの配偶者選択は配偶行動に影響を与えると記しているそうです。メスがこの目的を達成する方法に関する私たちの知識は、ヒトの資料にも動物の資料にも非常に限りがあります。このことを研究してきた行動生物学者によると、霊長類のメスは同種個体と協力して望まない性的交渉から身を守り、魅力的なオスに近づくようにしていることが見出されているそうです。オスに近づくためにメスは協力したり偽装したりすることで、しばしば他のメスと張り合います。女性が男性とは異なる度合いで関係的攻撃行動を起こすこともわかっていますし、ギアリーは、女性は関係的攻撃行動によって、自分たちにとって非常に重要な対人ネットワークをかき乱すことを示唆しました。つまり、元来のダーウインの定式化と一致して、配偶者をめぐる競争が同性間、異性間であるのだそうです。

青年期の優位性

「ロバーズ・ケーヴ」実験で、サマーキャンプに参加した22人の面識のない5年生の男子が2つの集団に分けられ、彼らの中で集団凝集性が定着した時点で2つの集団が引き合わされ、一連の「友好的な」競争、たとえば、野球、綱引きが用意されました。少年たちは知りませんでしたが、キャンプカウンセラーがそれぞれの集団の勝敗が等しくなるように手はすを整えていました。競争に負けると集団内葛藤が生じて、お互いに身体的に攻撃しリーダーシップに変化が生じたりすることが多かったのです。しかし、競争が続くにつれて集団内葛藤は減退し、集団の団結が高まり、相手の集団に対する敵対心というかたちで現れることが多くなったそうです。集団はお互いに「お前らはワシなんかじゃなくて、ハトだ」というようにののしり合うようになり、相手のキャンプ場を襲撃したり、物を盗んだり、壊したりするようになったそうです。また、身体的な暴力、たとえば石を投げるなどは、カウンセラーが介入してやめさせなければならないほどだったそうです。

このように集団間の競争が起こると、短期間、不調和の状態になった後、集団内凝集性がより強くなり、他の集団に対するあからさまな敵対心が生まれたのです。シェリフの研究から見出されたことは、 J. R.ハリスの群淘汰理論で呈示された4つの「進化的適応」のうち、少なくとも3つを例証しています。つまり、(a)社会的親和と内集団びいき、(b)地位追求行動と社会的階層の確立、(c)集団間の対立です。

青年期の優位性は、子ども期のそれと同じように集団構造の重要な側面であると言われています。また、子ども期と同じように青年期の優位性は、少なくとも男子では向社会的、攻撃的戦略双方を含みます。個体が獲得のために争う資源は異性関係です。この時期は性的に成熟し、性的活動が開始されるという点で特徴的です。親和的要素、人気という指標と攻撃的要素、観察あるいは自己報告による攻撃性という指標は、独立に優位性を構成しており、それぞれ独自に、男子の異性的魅力における分散を予測するといわれています。それは、クラスの女子による仮想上のパーティに招待されるという指標のようなものです。

青年期初期の優位性は、いくつかの点で子ども期とは異なります。それらの違いはおそらく、身体の大きさが急激に変化することからわかりますが、思春期の移行や、小学校から中学校への移行に関連して起こる変化によって生じます。これらの変化がそれぞれ意味するのは、小学校で築き上げた関係の中では身体が最も大きかった状態から、新しくより大きな集団では最も身体が小さい状態へ移行するにあたって、仲間集団における地位を再交渉しなければならないということなのです。最近の縦断的研究によると、小学校から中学校へ移行していくときに男子の優位な地位が低下するそうです。その際、男子は新しい状況における優位な立場を確立する方法として、攻撃的な戦略を使用するようであり、小学校から中学校にかけて攻撃行動の頻度が上昇しました。しかし、中学校1年生の半ばまでには、攻撃行動は再度減少したそうです。

攻撃行動や優位性に見られるこのような発達的傾向は、優位性の論理と一致しています。つまり、優劣関係は個体同士が資源をめぐって競争し合うときに確立されます。一連の対決にもとづき、個体は他の個体との関連で自分の地位を知ります。

社会的構造

内集団びいきや外集団差別などの社会的カテゴリー化は、早くも子ども期から見られるそうです。すでに述べたように青年期以前に広く見られる社会的集団の違いはジェンダーであり、子どもは主に同性集団で遊びます。たとえば、ある研究において、 8 ~ 10歳の子どもに見知らぬ男子と女子のピデオを見せ、さまざまな側面、たとえば、男らしさ、女らしさ、好みについて評定させたそうです。すると、大人がもつ内集団びいきと同様に、子どもは同性の対象を異性の対象より肯定的に評定したそうです。

歩行期と同様、優位性の構造は、子ども期の社会的構造の重要な側面だと言われています。さまざまな向社会的、攻撃的戦略を、主に男子が用いて仲間集団のリーダーシップを確立し、維持していきます。集団形成の第一段階において、資源をめぐる仲間との競争で攻撃的な戦略を用いることは男子にはよく見られるようです。つまり、男子は選択的にかつ効果的に攻撃行動を起こし、資源を獲得する傾向があると言うのです。いったん優位性の階層が確立すると攻撃行動の割合は減り、リーダーは向社会的、協力的な戦略を用いることが多くなるそうです。興味深いのは、就学前児の攻撃行動の割合は、その子どもの人気と正の相関があることだそうです。優位な立場にある子どもは攻撃行動を効果的に、マキャベリ的に用いることができ、見境なく反動的に攻撃することはないようです。たとえば、友達や味方を助けるために攻撃行動を起こすこともあると言うのです

霊長類学者のフランツ・ドウ・ヴァールは、ヒト以外の霊長類の攻撃行動について論じているそうですが、ある生態系において攻撃的な状況が起こった後にそれに関与した者が和解すれば、攻撃行動は決別ではなく、親和的関係を導くことを示唆しています。優位個体と劣位個体の関係が重要で、劣位個体が自由にその場を離れることができる場合、和解することで社会的順位が強固になり、集団のメンバーは相互作用を続けることが可能になるそうです。おそらくこのように攻撃行動、和解、協力が交じり合って一体化することで、優位性の階層が形成され、維持されるのだろうとビョークランドは考えています。

子ども期の仲間集団構造の機能とダイナミクスは、社会心理学者ムザファー・シリフたちの古典的な研究が見事に例証しているそうです。「ロバーズ・ケーヴ」実験で、サマーキャンプに参加した22人の面識のない5年生の男子が2つの集団に分けられました。数週間にわたって、それぞれの集団は工作や隠れ家作り、組織的なゲームなどの楽しい活動に参加し、お互い他の集団の存在には気づいていませんでした。集団凝集性が高まりましたが、それはある部分、協力を必要とする活動を準備したためでもありました。たとえば、ある晩スタッフがタ食を作ることができず、少年たちは手分けして食事の準備をしなければなりませんでした。次第いにそれぞれの地位が明確になってきて、リーダーと認められる者もいれば、追従者となるものもいました。どちらの集団にもそれぞれガラガラヘビ、ワシという名前までつけられました。

集団凝集性が定着した時点で2つの集団が引き合わされ、一連の「友好的な」競争、たとえば、野球、綱引きが用意されました。