きょうだい間の関係

もちろん、年上のきょうだいが新しい家族に対して示す感情は、恨みだけではありません。長子の多くは年下のきょうだいの世話をし、弟妹の愛着対象となります。たとえば、母親と 幼児と乳児の2人の子どもを対象に、エインズワースのストレンジ・シチュエーション法を修正した方法で観察したある研究では、54分間のセッションのうち、4分間、幼児と年下のきようだいを2人きりにし、さらに4分間、 2人を知らない大人と3人にしたところ、幼児の半数( 51 % )は、母親が去ってから10秒以内に、年下のきょうだいに対する何らかの世話行動を示したそうです。世話行動を示す可能性が高いのは、視点取得課題を通過した、年齢も少し大きい子どもであったことから、幼児が示す世話反応には社会一認知的要因が関わっていることがわかると言います。また、女児は、悲しんでいる年下のきょうだいの世話を行う傾向( 57 % )が、男児( 43 % )よりも少し高かったそうです。

女児が男児よりも弟妹の世話を行う傾向が高いというこの結果は、伝統文化社会で、弟妹の世話を比較的幼いときから女児が頻繁に任されたり、時に自ら担っていたことを示す、比較文化研究と一致するそうです。また、この傾向は現代社会でも見られるようです。たとえば、マクへイルとグランブルは、女児が年下のきようだいの世話を手伝う時間は、男児よりも1日当たり約2倍長いと報告しているそうです。ただし、年下のきょうだいに障害がある場合には.女児と男児がきょうだいの世話をする時間は同等だったそうです。この結果は、面白いですね。どう考えればいいのでしょうか?

女児は男児よりも子どもの世話への志向性が高いのか、あるいは、女児は単に社会的圧力に従って典型的役割を実行しているだけなのか、これを判断するのは難しいと言います。しかし、年下のきようだいの世話に多くの時間を費やすことは、女児にとって、子どもの養育者という、どの文化でも成人女性が中心となって担う役割を果たす準備となっているのです。

人生を通じて、きょうだいが助け合い、同盟を組み、社会的サポートや経済的サポートを提供し合っていることはよく知られています。ほとんどの文化で、きょうだい間のこのような連携が強く奨励されているため、こうしたきょうだい間の協力の基盤は、文化的伝統ではなく、進化によるメカニズムである、と主張するのは難しいと言われています。動物に関する文献の研究から、社会的行動全般、特に利他的行動の形成には、血縁淘汰が決定的に関与していることが明らかです。しかし、きょうだい間に肯定的な関係が認められるのは、社会的慣習で規定されているからではなく、進化による自身の包括適応度を高めるメカニズムを有するからであることを明白に示す証拠を得るのは難しいと言われているそうです。世界中のほとんどの場所で、この2つの要因は完全に交絡しているようです。つまり、法律や道徳によって、社会は「家族の価値」を高めようとしているのです。

社会学者ウィリアム・ヤンコウィアックとモニーク・ディーデリクは最近の研究で、文化的慣習に起因する効果と包括適応度とを分離することを試みているそうです。ヤンコウィアックたちは、アメリカ合衆国南西部におけるモルモン教の一夫多妻制の共同体に住む家族を対象に、大規模な面接調査を行ったそうです。

きょうだいの葛藤

「きょうだい関係が複雑で多面的なものであることは、科学的な証拠などなくてもわかる。」とビョークランドは言います。時として、きょうだいは最も近い大切な仲間であり、いじめっ子や他の環境の危険から守ってくれる存在であり、親からの支配に対抗する同盟軍となり、また、ある時には、きょうだいは最も憎い敵であり、わずかな資源をめぐって竸争し、支配権を握られ(あるいは、嫌な仕事をさせられ) 、嫉妬の対象となります。きょうだいのいる人なら経験的に知っているこうしたことが、実証研究でも確認されているそうです。きょうだい間の葛藤はよく見られますが、それと同時に、思いやりや仲間意識も同じきょうだい間でよく認められますね。本当に、このように列挙すれば、どれも思い当たるものであり、本当に複雑で多面的な関係ですね。

進化論では、他の多くの理論と同様に、きょうだいは葛藤と協力を示すと予測されますが、この葛藤あるいは競争は、第一子の地位が「一人っ子」から「兄姉」と突然変化するときに最も顕著なはずだと言います。第一子は皆しばらく一人っ子の期間があり、きようだいの誕生が人生のなかでも心に残る大きな事件となることが多いと言います。退行現象と言われる、おもらしをする、駄々をこねる、着がえや食事を親に手伝ってもらいたがるといった、幼児に特徴的な行動を示すことは、すでに子どもがいる家庭に新たに赤ちゃんを連れて帰ったときに、多くの親が経験します。退行は兄姉が、親からの注意や資源を多く引き出すための策略と捉えることができると言われています。親の注目を受ける唯一の存在であったその地位を奪われてしまった子どもは、より依存的なふるまいをすることで、親から受けられる注目が増え、そして多くの場合、親の怒りを買うことも増えるのだと言われています。

第二子が家族としてやってくることによって、親と第一子の関係性は明らかに変化します。赤ちゃんが家族に生まれることによる影響のひとつは、第一子と母親との愛着の安定性が低下することです。テティたちは、幼児期の第一子とその母親の愛着の安定性を評価しているそうです。1回目の評価は母親の第二子妊娠後期に行い、赤ちゃんが出生して4 ~ 8週間後に再評価しました。2回のテスト間で、対象児の愛着の安定性が低下し、その低下率は2歳以上の子どもで最も大きかったそうです。テティたちは、新しいきょうだいの反応の年齢差が生じた理由として、2歳未満の子どもは、新しくきょうだいができることを脅威と感じるだけの認知能力が、少なくとも2歳以上の子どもほど発達していないためと推測しているそうです。

新しいきょうだいの誕生に、2歳児が大きな苦しみを示すことは不思議ではないとビョークランドは言います。伝統文化社会やヒトの祖先の古代社会では、この年齢の子どもはまだ授乳されているため、母親の排卵が抑制され、「一番年下の子どもの地位」をあと1、2年は維持できます。また他の研究では、幼児期の第一子の女児がきょうだいの誕生に対して示す反応は、第二子誕生前に母親と良好な関係性をもっていた場合に、特に否定的であることが示されているそうです。きょうだいが生まれた14ヶ月後、これらの女児は弟妹に対し、敵対的で否定的な態度を示し、第二子も同様に兄姉に対して否定的な態度を発達させていたと言います。

きょうだいの存在

きょうだいは、親子間と同じ割合の遺伝子を共有しています。つまり、「利己的遺伝子」の点から考えると、きょうだい間の関係性には親子関係と同じ部分が多くあるはずです。親子関係に見られるように、きょうだいも遺伝的な類似度が高いことから、互いの関心が促進されるはずだと考えられます。しかし、きょうだいは平均で50 %の遺伝子しか共有していないため、きょうだいが求める利益はまったく同じではなく、葛藤が生じるのは当然です。もちろん、親子関係ときょうだい関係には重要な違いがあると言います。最も明確な違いは、親は子どもの生存を保障するために、多くの時間、力、そして資源を子どもに捧げなければならないことです。きょうだいも大きくなると、弟や妹の世話をする責任をもたされることはありますが、彼らがきょうだいの「主要な養育者」となることは稀です。親子間の投資をめぐる葛藤に加えて、子どもは資源の配分をめぐるきょうだい間の葛藤をもつのだと言います。大人になってからよくきょうだいに向けて冗談で口にする「お母さんが一番好きなのはいつもあなただった」という嘆きは、半ば本心だったりすると言います。

子どもが確実に「期待」できるもの、たとえば、授乳をしてくれる母親の存在や、父親や血縁者からの社会的サポートなどもありますが、ヒトの家族には大きなばらつきがあると言います。そのひとつがきょうだいの存在だというのです。年上や年下のきょうだいがいるか?きょうだいの年齢差はどれくらいか?子どもが多い場合、家族を支える生態学的状況はどのようであるか?家族の中のそれぞれの子どもに親や他の家族はどのような反応をしているか?もしあるとすれば、きょうだい間で互いに果たすべき責任は何か?家庭内と比較して、家庭外ではどの程度資源をめぐる競争があるか?きょうだいがいるということは、ヒトの歴史を通じて、多くの子どもに避けて通れない現実でしたが、きょうだい関係の本質が何であるかを予測するのは簡単ではありません。きようだいは非常に近くで暮らしていて、親の注目をめぐる競争があるというだけでも、多少の葛藤は避けられないのです。一卵性双生児のきょうだいがいる人は、遺伝子がまったく同じでも葛藤はなくならないことを知っているだろうと言います。さらに、きょうだい関係の「閉鎖空間的」な性質、すなわち、発達のある時点まで、物理的に家族から離れる自由がありませんが、葛藤を増強していると考えられると言います。その一方で、きょうだいは物理的および遺伝的に近いというこの特徴は、少なくとも一定の条件下では、きょうだい間の仲間意識や心理的距離の近さ、協力を促進しているはずだと言います。以上の理由から、きょうだい間で生じる「問題」に対処するメカニズムが進化してきた可能性は高いと考えられます。ただし、そのメカニズムは比較的一般性が高く、柔軟なはずだと言います。第一子用あるいは弟妹用の心理的メカニズムが進化してきたとは考えられないというのです。むしろ、血縁認識を促進するメカニズムや、さまざまな地位、たとえば、弟妹、兄姉の競争相手に、生後初期から対処するためのメカニズム、特に親からの資源獲得に関連するメカニズムに、自然淘汰は作用してきたはずであるといいます。では、きょうだい間の葛藤と協力、出生順位の効果の可能性、および近親婚回避について、進化発達的な視点から検討するとどうかという課題をビョークランドは考察しています。

親の影響

ヒトが多様な養育行動に対して驚くほど柔軟であるというスカーの主張は、ある意味では正しいのですが、多くの心理学者が持つ関心とは水準が異なるため、手厳しく批判されてきたようです。子どもは様々な環境で成長し、種の生殖可能な成体となっていきますが、各個体がとる交配戦略には、親との相互作用の歴史が影響します。さらに言えば、性格や認知能力の個体差のほとんどは、直接的な遺伝効果と、間接的な遺伝効果ともいえる家庭環境の非共有に起因するものであるという行動遺伝学者の主張がありますが、その主張を認めたとしても、子どもには自身のニッチを求める機会がなければなりません。しかし、この機会が制限されるなら、子どもは「潜在能力をすべて引き出す」ことができないだろうとビョークランドは言います。たとえば、高い読み書き能力の素因をもつ子どもが本のない環境で育つと、高い学業成績は得られないということになるだろうというのです。

環境によってはまずまずの親では十分でない場合もあるという批判に、スカーは同意しているそうです。主流の文化に関わる機会や経験がない子どもは、その文化の大多数の子どもよりも知的、社会的に不利となるだろうと言うのです。スカーは、この影響は多くの場合、教育によって改善できると指摘しています。スカーと批判者との違いは、主として焦点の当てどころの違いにあるとビョークランドは考えています。スカーはそれぞれの子どもが種の機能的な一員となる過程に着目しているのに対し、批判者は文化の中における子どもの個人差に焦点を当てているのだと言うのです。

スカーの論点と批判者の論点のどちらをも支持するのが、「レジリエンス」の高い子どもに関す研究だそうです。レジリエンスの高い子どもとは、貧困や「ハイリスク」な環境で育っても、社会的能力および知的能力を発達させる子どものことであると説明しています。レジリエンスの高い子どもを成功に導くための唯一最も重要な要因は、生後初期からの適切な養育であるということがわかっているようです。このあたりの考察は、最近、この力の重要性が議論されている中、とても参考になります。この事実は、親子間の相互作用に見られる個人差が、子どもの最終的な成功に重大な影響を与えると指摘した、スカーへの批判と一致しています。

一方で、マステンとコーツワースは、多くの親が子どもに十分なあたたかさや支援を与えることができておらず、たとえ環境が不利であっても、親がそれほど大きな努力をせずに有能な子どもが育っことも指摘しています。「進化の過程で、発達を保護するよう子どもの養育が形成された。自然は、普通の親に子どもの発達を保護する強力なシステムをもたらしたのである。」と言っているのです。

ビョークランドは、結論として、子どもの健康な心を育てる上で、親はたしかに重要な役割を果たしていますが、ただ、ヒトの子どもは、幅広い親の行動を許容でき、そのなかで種の機能的な一員へと成長できるよう進化してきたと言います。だからといって、すべての大人が皆同じようによく機能できるというわけではないのです。特に、生殖以外に、現代の経済情勢に対する適応まで考慮に入れるならそうであると言います。養育パターンが心の発達に大きく関与するのは、この水準の個体差であると言います。さらにいえば、子どもの心の発達は家族以外の要因にも影響されると考えています。そのため、養育スタイルのみを関数として大人の適応を予測するのは、不可能ではないとしても難しいのではないかと言います。「子どもの人生は、そのすべてが親の手柄でも、親の責任でもない」というのが結論のようです。

親の役割

ある研究では10年間のデータを検証し、その期間にカナダで実親あるいは継親の手で殺されたと判明した408名の子どもでは、継親に殺される危険性が、実親に殺されるよりも大幅に高いことが示されているそうです。この差は、 2歳未満の子どもについて特に大きく、 2歳未満児が継親に殺される可能性は、実親に殺される可能性の70倍もあったそうです。全米の標本による類似の研究では、 2歳未満の末子が継親に殺される可能性は、実親の100倍という、さらに衝撃的な結果が報告されているそうです。それらのデータは、まさに衝撃的ですね。そのような結果にならないために、何が必要なのでしょうか?

継親、特に継父が継子に多くの投資をする場合、この投資は配偶努力のひとつと捉えることができると言います。継父は継子の世話をして配偶者を支援することで、子どもの母親との配偶機会を得ようとしていると考えられているそうです。工業化社会の継親の大多数は、継子を愛し、世話をしようと熱心に取り組んではいるものの、実際には、継親子の関係性は実の親子間に見られるほど互恵的な関係ではないことが多いからのようです。その結果、継親が子どもと過ごす時間や、資源の投資量、配慮が、概して、実子よりも継子で少なくなるのだと言うのです。そして非常に極端な場合には、継子が受ける投資は非常に少なくなり.虐待さらには子殺しにつながるのだと言うのです。

親が子どもの心の発達に重要な役割を担っていることは、議論の余地がないように思えるとビョークランドは言います。しかし、進化にもとづくある理論で、養育スタイルに見られる個人差は、それが正常範囲のものであれば、子どもの性格や認知発達の個人差にほとんど影響を与えないと指摘されているそうです。発達心理学者であり行動遺伝学者でもあるサンドラ・スカーは、自身が提唱した遺伝子型から環境理論を拡張して、こんなことを言っています。

「家族間に見られる通常の差は、その家庭が発達の正常な範囲から外れていない限り、子どもの発達に与える影響はほとんどない。まずまずの、普通の親が子どもの発達に与える影響は、文化が規定する理想の親とおそらく同じである。」このスカーの主張は、能動的な遺伝子型から環境の影響力を基礎としており、遺伝子にもとづく素因が自身の遺伝子型と適合する環境を求めさせる、としています。子どもの性格や知性の大半を形づくるのは、こうした環境における経験ですが、そうした経験はその個体の遺伝子に駆動されているのだと言います。このような遺伝子型から環境の影響は、親からの直接的な、それは非遺伝的なものですが、その影響が減少していくのに伴い、個体発生の過程で増強されていくそうです。

スカーは、子育てのしかたが大きく違っていても、世界中の子どもたちがその社会の生産的な、そして生殖をする一員へと成長すると主張しています。生存のために高度な養育が必要であったら、その種はほどなく絶滅してしまうだろうと言います。そのため、子どもは非常に多様な育てられ方を許容でき、「正常に」成長できるよう、種は進化してきたのだと言うのです。

この主張を知って、「本当だなあ」と実感するとともに、肩の力が抜ける思いがします。ヒトは、そんなことも許容できる力があるのですね。

実親と継親

これらの結果は、民話や神話に出てくる「いじわるな」継親に信憑性を与える結果といえるかもしれないとビョークランドは言います。いじわるな継親にまつわる寓話は世界中に数多く存在します。このような寓話を広範に調べたある研究では、継父は大きく「貪欲」と「冷酷」の2つに分類され、継母は子どもを厳しく監督する人物もしくは子どもを殺す人物として描写されることが明らかにされています。このことは、同じような物語が非常に多様な文化で広く伝えられてきたことを示しているだろうと言います。アレウト族からインドネシア人まで、どの文化にもそれぞれのシンデレラの物語があるそうです。しかし、この冷酷な継親の神話は単なる神話なのでしょうか?実証的な証拠からはそうではないことが示唆されているとビョークランドは言うのです。

子どもの虐待は実親の家庭よりも継親の家庭で多いことが、研究によって示されてはいるようですが、継親の大部分は虐待を行っていないこと、そして、大多数とはいわないまでも、多くの継親が新しい「子ども」を心から愛し、世話をしていることをきちんと認識する必要があると彼は言います。しかし、実の親子間には、意識的に大きな努力をしなくとも、強い情緒的な絆が「自然に」形成されるのに対して、継親は継子を愛し、養育するために、努力を重ねなければならないことも知る必要があると言います。この点は、「他者の子どもよりも、自分と遺伝的に関連のある子どもに対し、親は高い関心をもつと予想される」とする親の投資理論とうまく合致しています。継親は継子に対する誠意をもってはいても、現実には、継子への投資量は少なく、継子が虐待やネグレクトの対象となる可能性は高いのです。

ディリーとウイルソンは、子どもの虐待や子殺しについて、継親との生活との関連で広範な研究を行っているそうです。この種の研究のなかで最も大規模なもののひとつが、 17歳未満の子どものいる841の家庭と、子どもの支援団体が把握し、かつオンタリオ州ハミルトン(カナダ)の登録機関に報告された被虐待児99名を対象に実施した面接調査です。この調査では、継親と暮らす子どもは、実父母と暮らす子どもよりも虐待を受ける可能性が40倍高い、という驚くべき結果が得られたそうです。この大きな差は、貧困、母親の年齢、家族の人数など、継家族に関連すると考えられる他の潜在的影響要因を統計的に統制しても、消えることはなかったそうです。この研究および類似の研究結果から、ディリーとウイルソンは「継親であることそれ自体が、これまでに特定された子どもの虐待の危険因子として、唯一最大の要因である。」と結論づけています。

しかしこの結果はいまだ批判の対象となっているそうです。もしかすると、虐待の疑いがある事例が報告される可能性は、実親の家庭の場合よりも継親の家庭であった場合に高いとも考えられています。そこでディリーとウイルソンは、こうしたバイアスを排除するため、報告バイアスを受ける可能性が低い、虐待が明白な事例、つまり、子殺しについて検討したのです。ディリーとウイルソンは、継親の虐待に関する報告バイアスが本当に存在するとしても、親による子殺しを検討すれば、このバイアスを排除できると考えたのです。このような虐待によって死に至る事例は、隠蔽することが難しく、また、殺人以外の解釈を考えることはさらに難しい。おそらく当然ながら、ディリーたちが示した結果は、継親と虐待(この場合は、殺人)との関連性は、消えるどころか増加したというものだったそうです。

継父の投資

さまざまな文化において、継親の継子への投資が実子への投資よりも少ないという説を支持する実証的な証拠が得られているそうです。アンダーソンたちによるアメリカ合衆国での研究では、継子が家族から大学教育のために実際に受けている金銭的支援が、実父母がいる子どもよりも大幅に少なことが報告されています。また、南アフリカのコサ族の高校生を対象とした関連研究でも同様の結果が得られており、父親が実子にかける金額は、継子にかける金額よりも有意に多かったそうです。

1988年の全米教育縦断調査のデータを用いた別の研究では、全米の中学2年生の母集団から抽出された人々について、上記と同様の結果が見出されていると言います。継家族では、子どもの教育費としての貯蓄額が少なく、子どものために貯蓄を始めた時期が遅く、子どもの将来の教育費への予測金額も少なかったそうです。しかし、実父母の子どもへの投資量よりは大幅に少ないものの、継子も継家族からかなり多くの資源の配分を受けていました。

また、アンダーソンたちの研究における観察では、継父が継子と過ごす時間が、実子と過ごす時間よりも有意に少ないことが示されているそうです。アメリカ合衆国のデータでは、父親が継子と過ごす時間は、実子と過ごす時間よりも、1週間当たり約3時間少ないことが示されており、南アフリ力のデータでは、継父が実子と行う相互作用が、継子との相互作用よりも1年当たり約84回多く、継子との相互作用が一週間当たり約1.62回少ないことが示されたそうです。

また、南アフリカの父親は、宿題や英語を話す練習を手伝う傾向が、継子よりも実子に対して高かったそうです。同様に、アメリカ合衆国および南アフリカのデータを用いた最近の研究では、養母や継母は、実母よりも食費の支出額が少ないことを示す証拠が得られていると言います。

マーロウによるハッツァ族の観察研究では、継子が継父から受ける世話が、実子よりも大幅に少ないことが示されているそうです。マーロウは、父親は継子よりも実子について、そばで過ごす時間、コミュニケーション、抱く、食べさせる、なだめる、きれいにするなどの養育行動が多いことを見出したそうです。実子と継子とで、扱いに最も顕著な差が見られたのは、父親が子どもと遊ぶ時間だったそうです。ハッツァ族の継父が継子と遊ぶ場面は、一例も観察されなかったそうです。面接では、多くのハツツア族の人が、継父は継子と実子を同じように世話をし、同じように思っていると報告していることを考えると、こうした結果は特に興味深いとビョークランドは言います。またおもしろいことに、直接的な質問をした場合には、約半数の継父が継子に対する感情が実子に対するものよりも弱いことを認めたのだそうです。ハッツァ族の人々が考える、あるべき理想の姿と現実の姿とに落差があるのは明らかだと言います。マーロウは、このずれを欺まんの一種と解釈しており、それが「継父は良い父親であるべき」というイデオロギーの促進につながっていると考えているようです。カリプの血縁者を中心とした田舎のコミュニティに関する複数の研究でも、同様の結果が得られているそうです。文化を超えて結果の類似度は非常に高く、「継子への投資は実子より少ない」ことが示されているそうです。

継親の投資

親の投資理論に従えば、継親は、自分の生物学的な子ではないことが明らかな子どもの繁栄に、ほとんど興味を示さないはずだと言います。実子以外の子どもに資源を配分することによって、自身の繁殖適応度への直接的な利益が得られるとは考えにくいと言います。それどころか、継子に資源を与えるということは、他人の子どもの繁栄を保障する助けをすることになる。他者の子どもに資源を浪費する傾向には.淘汰は不利に働くはすである。しかし実際には、現代の多くの継家族で、継親は継子の世話に大きな役割を果たしています。しかし、継子に与える世話の量は、実子に与える量とは有意な差があることが多いのです。

継母の数と継父の数はほほ同数だそうですが、ほとんどの分析は継父と継子との関係性に焦点を当てたものです。その理由は、主に、実の両親が離婚する際には幼い子どもの養育権を母親がもつことが多いため、子どもは母親と継父と共に生活をする事例が多いこと、また、そうしたケースの方が、研究者がアプローチしやすいことによるそうです。以下に示す事例の多くは、継父子間のダイナミクスを検討したものですが、継母にも同様の過程が作用しているものと推測されるようです。

継親の投資に関する進化的な説明の多くは、継子に与える世話の量を継親の配偶努力と関連付けています。その議論では、女性にとっては、自身の子どもに関心が全くない男性と関係性を持つよりも、今いる子どもの援助に関心を示す男性と関係性を持つ方が有利と考えるのです。そのため、新しい配偶者を探している男性にとって最もよい方略は、配偶者となる可能性のある女性の子どもに対する気遣いを見せることです。そうすることで、男性は自分には価値があるということ、つまり、その女性および今いる子ども、さらには、これからふたりの間に生まれる子どもに対する投資を行う意志および能力があるということを、女性に納得させることができるのです。

継親が行う養育努力の裏には別の思惑があると疑うのは、少し残酷なように思えるかもしれませんが、このダイナミクスは、生物学的な父子関係の中で起こっていることとあまり変わりがないとも考えられると言います。実の父親の養育努力についても、その行動の背後にある本当の動機が何であるのかが問われてきたと言います。実の父親は、養育努力と配偶努力のかたちで子どもの適応度に貢献していると主張する研究者もいれば、父親による子どもへの投資は、配偶努力のかたちでのみ行われると主張する研究者もいるそうです。この論争は、いまだ決着がついていないそうですが、ひとつだけ直接的な通応度の観点から比較的はっきりといえることは、「継親に期待される子どもの適応度に対する投資量は、実親に期待される投資量よりも低い」ということだそうです。そのため、継親が行う投資は、実際の養育努力よりも配偶努力を日的とするものである可能性が高いと考えられるのだと言います。

しかしこれは、継親子間に、固い情緒的な絆が成をしないということではないと言います。多くの継親が継子を深く愛しているのです。しかし、多くの場合、継子との間に実子と同じような情緒的愛着を形成することは難しいとも、継親は感じているようです。アメリカ合衆国の中流階級の継家庭を対象としたある研究では、継子に対する何かの「親の感情」があると答えたのは、継父で53 % 、継母で25 %のみだったそうです。それでも、多くの継親子が親密な継続的な結びつきを形成していることについては、そうした結びつきに対する継親の動機が関連しているものと考えられます。

母方の祖父母

他にも成人の回想による報告でもこの結果と一貫性がある結果が得られており、父方の祖父母よりも母方の祖父母の方が身近に感じた、あるいは、実際に父方の祖父母よりも母方の祖父母と多く接触したことが示されているそうです。同様の傾向が、母方のおじ・おばと、父方のおじ・おばによる、姪・甥への技資でも観察されているそうです。大学生を対象とした研究では、父方のおじ・おばよりも母方はのおじ・おばの方が自分に関心を示していると受けとめられていたそうです。

母方の祖父母の方が父方の祖父母よりも、孫の世話を多くし、より身近であるという一般的傾向に反する報告をしているのは、私たちが知る限り、出版されたものとしてはパショスの研究のみだそうです。パショスの研究では、ドイツとギリシアの成人を対象に、それぞれの祖父母が自身の世話をどの程度してくれたかを評価するよう求めたものです。都市部の参加者に関する結果は、オイラーとヴァイツェルなどの報告と同様であり、母方の祖父母が父方の祖父母よりも多くの世話を提供していました。

しかし、ギリシアの田舎の参加者では正反対の傾向が観察され、父方の祖父母の方が母方の祖父母よりも多くの世話を提供していたのだそうです。この結果をもたらした要因のひとつとしてパショスは、ギリシアの田舎の伝統的家庭では、孫は通常父方の祖父母の近くに住むか、同じ家に住むことも多い慣習があることをあげています。

また、父方の祖父母には、孫、特に後継ぎとなる孫息子の世話をする社会的義務があります。父方の家族と物理的な距離が非常に近いことにより、都会の場合よりも父性の確実性が高くなるとも考えられます。夫の家族は、息子の妻の動きをある程度把握し、また制限しているため、父性の不確実性がほとんどなくなります。その結果、父系の伝統がある社会では、父方の家族の孫に対する投資が高まると予測されるのです。

パショスの結果は、親の投資理論の予測と対立するものではないと、ビョークランドらは提えているようです。それどころか、他の文化的伝統の関与を考慮しても、祖父母の技資が父性の確実性に影響を受けることを実証するものと考えられると言います。現代の都会の環境のように、社会的慣習が父性の確実性を低下させている場合は、父方の祖父母による投資は減少します。反対に、ギリシアの田舎のような父系社会では、社会的慣習によって女性の行動が制限され、父性の確実性は高くなります。このような場合は、父方の祖父母は比較的高い確信をもって孫に投資することができ、地域社会の要請にも快く従うことができるのだと考えています。

離婚率および再婚率が高い情報化時代の社会では、継家族が次第に増加してきているようです。しかし、継親子関係は現代の環境の新しい産物ではありません。古代では、主に病気や戦闘のために、親の死亡率がきわめて高かったのです。配偶者が死亡した場合、生き残った親は他の配偶者候補と新しい関係を形成し、子どもの父親あるいは母親の代わりになる人物を得たと考えられます。このような状況は、進化適応の環境で頻繁に生じたと考えられることから、現代人は、継親としての子育てに適応的な固有のメカニズムをもっていると考えられると言います。

シンガポール報告14

よく見守る」というと、子どもを見ているだけだと思う人がいるということを聞きます。しかし、goo国語辞書やデジタル大辞泉には、子どもを見守るというように使うときには、「無事であるように注意しながら見る。また、なりゆきを気をつけながら見る。」とあります。また、大辞林 第三版には、「目をはなさないで見る。間違いや事故がないようにと、気をつけて見る。」とあり、どこにもただ見ているだけという意味は書かれてありません。今回、シンガポールでの保護者向けのセミナーの説明には、こう書かれてあります。

「子どもを見守るには、子どもを愛し、保護して注意深く観察し、ニーズを特定することです。目標は子どもたちを直接教えるか指導することではなく、誤った行動を修正する時には、すばやく介入することです。そうすることによって子どもたちは次第に自分で考え、様々なことを学ぶようになります。これは、子どもに教えたり、子ども自身でできることをやってあげたり、なんでも与えたりせず、子どもの本来の能力を「引き出し」、育てるための育児のアプローチです。」

今回のセミナーでの私の話の前に、今回主催した「my first skool」からこんな問題提起がされました。「Mommy、 I do not have any friends in school」「Yes、 darling?Why?」「because I do not know how」「I will speak to your teacher tomorrow.」(「ねえ、お母さん、僕学校には誰も友達がいないんだ」「本当?どうして?」「よくわかんない」「わかった、お母さんが明日学校の先生に話してみるわ」)

こんな会話を聞いて、「教育者として、私たちは、この子どもへのお母さんのかかわりが心配になりませんか?」と問いかけています。また、1枚に写真を見せて、会話の時と同様に、「私たちは教育者としてこの写真を見て心配にはなりませんか?」と問うています。そして、私の言葉が紹介されます。「MIMAMORUの育児のアプローチは、子どもを教えたり、できないことを与えたりすることではなく、子どもの本来の能力を引き出し、育むためにこの保育が必要です。」という言葉です。

ここで、なぜ「見守る保育」が必要であるのか、導入の動機は、私たち日本と同様な母子の関係にあるようです。シンガポールは、世界でもトップクラスと言われる学力の高さを誇っています。その役割の一つとして、ECDA(= Early Childhood Development Agency、幼年期開発局)というエージェンシィが行う事業のひとつとして、幼児教育・保育の質の向上をめざす、「SPARK」と名付けられた認証システムがあります。しかし、この評価におけるQRS の項目で測定しきれない部分や違和感を感じた部分を、「見守る保育」の中に見つけたようです。確かに、評価だけでは、質は向上しないのです。特に、考え方、いわば保育における哲学は評価で測れるものではないのです。

先日、ある男子大学生が、卒論として「“見守る保育”の理論と実践に関する一考察」という卒論を持ってきてくれました。彼は、結果の考察として、最後にこうまとめています。

「ただ“見守る保育”という言葉を学ぶのではなく、“見守る保育”の本質、何を大切にしているのかを理解することが学ぶ上で大切だと感じた。“見守る保育”という言葉も素敵だと思うが、言葉よりもその体制と精神を記憶と心に残すことが、良い学びであり、習得のしかたなのではないかと考える。」

若干荒い理解ではありませんが、言わんとするところは、よくわかりますし、大切なことです。