シンガポール報告14

よく見守る」というと、子どもを見ているだけだと思う人がいるということを聞きます。しかし、goo国語辞書やデジタル大辞泉には、子どもを見守るというように使うときには、「無事であるように注意しながら見る。また、なりゆきを気をつけながら見る。」とあります。また、大辞林 第三版には、「目をはなさないで見る。間違いや事故がないようにと、気をつけて見る。」とあり、どこにもただ見ているだけという意味は書かれてありません。今回、シンガポールでの保護者向けのセミナーの説明には、こう書かれてあります。

「子どもを見守るには、子どもを愛し、保護して注意深く観察し、ニーズを特定することです。目標は子どもたちを直接教えるか指導することではなく、誤った行動を修正する時には、すばやく介入することです。そうすることによって子どもたちは次第に自分で考え、様々なことを学ぶようになります。これは、子どもに教えたり、子ども自身でできることをやってあげたり、なんでも与えたりせず、子どもの本来の能力を「引き出し」、育てるための育児のアプローチです。」

今回のセミナーでの私の話の前に、今回主催した「my first skool」からこんな問題提起がされました。「Mommy、 I do not have any friends in school」「Yes、 darling?Why?」「because I do not know how」「I will speak to your teacher tomorrow.」(「ねえ、お母さん、僕学校には誰も友達がいないんだ」「本当?どうして?」「よくわかんない」「わかった、お母さんが明日学校の先生に話してみるわ」)

こんな会話を聞いて、「教育者として、私たちは、この子どもへのお母さんのかかわりが心配になりませんか?」と問いかけています。また、1枚に写真を見せて、会話の時と同様に、「私たちは教育者としてこの写真を見て心配にはなりませんか?」と問うています。そして、私の言葉が紹介されます。「MIMAMORUの育児のアプローチは、子どもを教えたり、できないことを与えたりすることではなく、子どもの本来の能力を引き出し、育むためにこの保育が必要です。」という言葉です。

ここで、なぜ「見守る保育」が必要であるのか、導入の動機は、私たち日本と同様な母子の関係にあるようです。シンガポールは、世界でもトップクラスと言われる学力の高さを誇っています。その役割の一つとして、ECDA(= Early Childhood Development Agency、幼年期開発局)というエージェンシィが行う事業のひとつとして、幼児教育・保育の質の向上をめざす、「SPARK」と名付けられた認証システムがあります。しかし、この評価におけるQRS の項目で測定しきれない部分や違和感を感じた部分を、「見守る保育」の中に見つけたようです。確かに、評価だけでは、質は向上しないのです。特に、考え方、いわば保育における哲学は評価で測れるものではないのです。

先日、ある男子大学生が、卒論として「“見守る保育”の理論と実践に関する一考察」という卒論を持ってきてくれました。彼は、結果の考察として、最後にこうまとめています。

「ただ“見守る保育”という言葉を学ぶのではなく、“見守る保育”の本質、何を大切にしているのかを理解することが学ぶ上で大切だと感じた。“見守る保育”という言葉も素敵だと思うが、言葉よりもその体制と精神を記憶と心に残すことが、良い学びであり、習得のしかたなのではないかと考える。」

若干荒い理解ではありませんが、言わんとするところは、よくわかりますし、大切なことです。