類人猿における心の理論

保護施設で育った類人猿も、指さしの訓練をすることは可能ですが、この場合は、明らかに指さしと報酬との関連を学習しているだけであり、指さしを他の個体に情報を伝える手段とは理解していないと考えます。たとえば、コールとトマセロは、保護施設で育ったオランウータンに食べ物の隠し場所を指さすよう訓練をし、食べ物のありかを知らないヒトの飼育員がその指さしを元に食べ物を探し出してオランウータンに与えました。しかし、食べ物を取り出すために必要な道具を一番目の実験者が隠した場合は、オランウータンは道具の隠し場所を次に登場する実験者に確実に指さして示すことはなかったそうです。さらに、保護施設で育った大型類人猿は、ヒトが示す指さしの意味を理解していないと考えられるようです。たとえば、ポヴィネリたちの研究では、保護施設で育ったチンパンジーが、報酬の場所を表象するコミュニケーション装置として指さしのしぐさをするのではなく、欲しい報酬にヒトの手を近づけることが示されたのです。もちろん.身振りの参照的な性質に関する理解を示しているのは、前者のみだったそうです。

それとは対照的に、文化化したオランウータンやチンパンジーは、見ていない物体に他者の注意を向けさせる手段として、参照的指さしを理解していることが、統制された研究によって示されているそうです。たとえば、先に簡単に触れたコールとトマセロの指さし実験で、保護施設で育ったオランウータンは、隠された道具に人の注意を向けさせるのに指さしを使えませんでしたが、文化化したオランウータンのチャンテは、試験2日目にはほば満点の成績を示したそうです。文化化したオランウータンと保護施設で育ったオランウータンを対象とした2番目の研究では、実験者がいくつかある容器のうち、1つに食べ物を隠し、その後、そのターゲット容器を指さしてから部屋を去ります。そして、第2の実験者が部屋に入ってきて容器の前に立つと、文化化したオランウータンのみが、ターゲト容器をチャンスレベルよりも有意に多く指さしたそうです。これと同様の成績を文化化したチンパンジーが示すことが、関連研究で報告されているそうです。

確かに、大型類人猿が心の理論をもつかどうかという問題は、単純ではないとビョークランドは言います。ヒトと大型類人猿は系統発生の上で関係性が深いことから、私たちの共通祖先が心の理論の基礎となる能力をもっていたとしても不思議ではありませんが、すべての種は、それぞれの生態学的ニッチに適合した認知を進化させてきました。もし大型類人猿が心の理論をもたないのであれば、なぜヒトにはこうした能力が進化したのだろうか?とビョークランドは疑問を投げかけます。これは文化化した大型類人猿を対象とした研究によって明らかになるだろうと言います。脳が大きく、複雑な社会的な群れで生活をする、未成熟期が長い動物が、種に非特異的な環境におかれると、種に非特異的な認知や行動が発達すると考えられています。その新奇な環境が安定的に続けば、そして新奇性が失われれば、認知や行動のパターンも安定し、新しい表現型が生じ、進化的変化が生じる準備となると言います。おそらく、オランウータンやチンパンジーは、認知的な柔軟性が高いため、ヒトのような環境で育てられると、心の理論に関連のある重要な認知能力がヒトに近いかたちで発達するのだろうと言います。このような認知能力が存在することや、それが種に非特異的な環境で発現することは、社会的学習に対する前適応を反映していると考えられるというのです。現代の大型類人猿とヒトの共通祖先も、養育環境に応じて変化するこのような高い認知的可塑性をもっていたとすれば、ホモ・サピエンスに至った認知的進化を生じさせたメカニズムのひとつが見えてくるというのです。