模倣から指導へ

トマセロ、クルーガーとラトナーの分類では、模倣学習の次の段階は、指導学習であるとしています。指導学習では、到達度の高い個体が到達度の低い個体に指導を行います。ただし、指導が行われる全事例が指導学習と言えるわけではないと言います。指導学習には「子どもが大人について学ぶこと。特に、大人が課題をどのように理解しているか、そしてそれが自分の理解とどう違うのかを学習する」ことが必要だと言います。指導学習と他の「指導による学び」との違いは、前者では子どもが指導された行動を適切な文脈で、自分の行動を制御するために再現する点だというのです。つまり、模倣学習と同様に、子どもは行動の目的、最初に行動の指導をした時の大人が持っていた目的を理解しなければなりません。子どもは大人の指導を内面化しなければならず、単純に要求されたら行動を繰り返すだけでは不十分だと言います。模写の時に体重計の例に出てきた2歳児男児が、あの行動を教えられたとしても、これは単に「はかりに乗るという芸」を学んだだけであり、トマセロらの定義により指導学習とはならないのです。

指導学習の基盤にある認知能力は、心の理論の基盤にある能力と同じと考えられると言います。心の理論には、典型的な定義にあるように、他者に信念や欲求があること、そしてそれが自分のものとは対立する場合もあることを理解することが必要だと言います。同様に、指導学習では、学者は教授者の視点を正しく理解する必要があります。トマセロは、以下のようなことを言ってるそうです。

「指導者から文化的に学ぶためには、指導を指導者の視点に近い視点から理解するためには、子どもは自身の視点とは異なる心の視点を理解できなければならない。そして、その視点を自分の視点と顕在的に関連付けなければならない。」

野生チンパンジーの指導学習に関する証拠が、少ないながら存在するそうです。たとえば、霊長類学者クリストファー・ベッシュは、象牙海岸のタイ森林で、メスのチンパンジーが子どもにクルミの割り方を「指導」しているのを観察しているそうです。クルミ割りをするチンパンジーはごく一部に限られており、文化的に伝播される行動と定義されることもあるそうです。この行為は、土台となる岩の土の上に置いたクルミを、別のハンマーにする岩でたたくというものです。この技能の獲得には長い年月がかかり、通常大人のメスが行っているそうです。ベッシュは、母親チンパンジーが、子どもがただクルミをたたき割って、中の実を取り出せばいいだけになるようにクルミと土台、ハンマーを設定するのを何回か観察したそうです。この行動は、子どものいないチンパンジーの成体には全く観察されなかったそうです。

また、別の時には、母親チンパンジーは、子どもが見ているときには、クルミ割りの動作を普段よりゆっくりと行っていたそうです。これらの観察ほど、印象的な観察結果は、これまでにもほとんどなく、霊長類学者がこの100年間に記録してきた数千、あるいは数百万もの相互作用の中でも、ごく一握りでしか確認されていないそうです。つまり、この観察結果を、チンパンジーが指導学習を行うという「証拠」と解釈するには注意が必要であろうとビョークランドは言っています。

模倣から指導へ” への10件のコメント

  1. 私は、力もないのに、指導されることを嫌うあまりに、結構、可愛がられない生き方をしてきたかもしれない、と最近つくづく反省しております。今回のブログには「指導学習」ということが解説されています。読んでみると「指導」という概念を私は誤解していたようです。つまり、指導を受けて学習するということは、ネガティブに指導(強制と感じるもの)されることではなく「指導された行動を適切な文脈で、自分の行動を制御するために再現する」ことであり、極めて自己主体的行為であることがわかりました。指導学習の基盤=心の理論の基盤、すなわち「他者に信念や欲求があること、そしてそれが自分のものとは対立する場合もあることを理解することが必要」だということです。「心の理論」に結びついてくるところが重要ですね。トマセロ博士が言う「子どもは自身の視点とは異なる心の視点を理解できなければならない。」というところは今一つ判然とはしませんが、他者理解こそが大切であるというふうに解釈したところです。野生チンパンジーのくるみ割り行為。チンパンジーはチンパンジーとしてある種の進化を遂げつつあるのかもしれないとの感慨を抱くことができました。やがて「猿の惑星」になるのか?

  2. 指導学習は「子どもが指導された行動を適切な文脈で、自分の行動を制御するために再現する点だというのです」とありました。スポーツなどの指導を思い出すのですが、「言われた通りにただやる」だけでは何の進歩もないということが言われますし、そう感じていましたが、その意味をやっと知ることができたように思います。指導学習というのは「自分の行動を制御する」というように、指導されたことを理解し、自らが主体とならなければ成立しないのですね。「指導学習の基盤にある認知能力は、心の理論の基盤にある能力と同じ」ともあるように、自分と他者をしっかり分け、他者を理解し、そして、もう一度自分へかえるというようなプロセスが必要なのですね。指導学習を経て文化が伝承していくためには、心の理論といった集団で身につけるべき力が必要であるということは、集団の力が弱まってしまうと、やはり文化や伝統というものは自然と衰退してしまうものなのかもしれませんね。それがまさに、現代であるのかもしれません。

  3. 子どもは教えたがる特徴を持っているということが私の中で先行してしまい、「指導学習」を子ども集団内での子ども同士による関わりの中でのものと勘違いしていました。大人から子どもへの指導の中での学習ということだったのですね。「指導学習の基盤にある認知能力は、心の理論の基盤にある能力と同じと考えられる」とあり、さらに「学者は教授者の視点を正しく理解する必要がある」ことからも自分とは異なる可能性があることを踏まえた上での他者理解が指導者側の意図を理解していく上で重要になってくることがわかりました。また、チンパンジーが子どもにクルミの割り方を指導する観察内容も面白いですし、「子どものいないチンパンジーの成体には全く観察されなかった」ことは興味深いです。必要でない限り発揮されない能力や行動があることに野生本能の本質を感じます。人にも子どもの有無で観察できる差があるのかもしれないと考えると例えば何だろうと気になり始めました。

  4. 昔からある「指導」の考え方には、指導者が「課題をどのように理解しているか」、指導される人が「自分の理解とどう違うのかを学習する」時間や機会を与えることが少なかったようにも思います。社会に出ると多くの「あの人はなぜこんなことを言っているのだろう」があります。それらは、相手が課題をどのように理解しているかを把握するきっかけでもあって、自分がその件をどう理解しているのかという違いを学習する機会でもあるというわけですね。私とあなたは違うが、その違いはなぜ起こるのかを考え、学習するにはやはり時間が必要なのだと思いますし、何よりも自分で考えるという自発的な試みが重要なのだと再認識できました。

  5.  「指導者から文化的に学ぶためには、指導を指導者の視点に近い視点から理解するためには、子どもは自身の視点とは異なる心の視点を理解できなければならない。そして、その視点を自分の視点と顕在的に関連付けなければならない。」とても興味深い文章ですね。子どもの心の理論の高度さを改めて感じます。子どものことを学んでいるのですが、それは同時に人間関係のこと、つまり普段生活している自分たちのことであることを、上記文章で言えば、例えば「子ども」と表記されているところを自分に置き換えられるように変換することで理解することができます。生まれてから今日まで、自分の視点、というものを築き上げてきたかもわかりませんが、親や兄弟、教育者や書物など、今までに触れてきたものが自分の視点というものを構成しているのかもわかりません。だとするとその視点に固執するというのは、成長を止め兼ねない、危うい行為とも考えられます。「指導者の視点に近い視点から理解する」「自身の視点とは異なる心の視点を理解できなければならない」指導者への思いやりを深め、その結果が自己研鑽に至るということのように思われます。

  6. 指導と聞くと、書かれてあるように〝到達度の高い個体が到達度の低い個体に指導を行います〟とあり、単に上から下へというイメージを持ってしまいがちだと思っていましたが、真の意味をはそうではなく〝子どもが大人について学ぶこと。特に、大人が課題をどのように理解しているか、そしてそれが自分の理解とどう違うのかを学習する〟ということであるんですね。
    そして、そこには自らが考えるという主体性が必要であるということが改めて理解できました。

  7. “指導学習の基盤にある認知能力は、心の理論の基盤にある能力と同じと考えられる”とありました。ここから感じたものは、やはり、模倣には、他者を理解し、認知する力が必要ですし、相手を知ることで、相手の考えることを明確に感じとれることが改めて感じられました。指導学習があることは、相手の行った行為から学びとれるある種のマニュアルのようなものであり、それを読みとること、その行為から得たものをもとにしてそれに適した行動をすることが真の模倣につながっていることを感じました。チンパンジーの実験で見られた”子どもが見ているときには、クルミ割りの動作を普段よりゆっくりと行っていた”とあることからも、指導学習と模倣の関係性が感じられました。

  8. 指導学習とパッと聞いただけではあまり良い印象は持ちませんでしたが読み進めていくうちに印象が変わってきます。「子どもが指導された行動を適切な文脈で、自分の行動を制御する」「子どもは大人の指導を内面化しなければならず、単純に要求されたら行動を繰り返すだけでは不十分」というように大人の行動を理解するとともに自分の中にあるものとすり合わせどうしていくが自主的に考えていくことが必要であるということでしょうか。サッカーをしていたころはなるほどと、理解したのちに自分なりにすり合わせていく行為をしていたことを思い出します。今もそうですが、指導から自発的な行動へと変えていくことの大切さを感じます。

  9. 指導学習というか、保育中で大人が子どもに何かと伝えなければいけないこと、遊びの中でも保育者がモデルになる場合もあるかと思います。またブログの中に「子どもが大人について学ぶこと。特に、大人が課題をどのように理解しているか、そしてそれが自分の理解とどう違うのかを学習する」と書かれてありますが、大人と子ども、両者がお互いを理解しなければいけないという事かと思いますが、そうは言っても大人は子どもの発達を理解し、課題を与える必要があるかと思います。子どものためと言って発達や理解度を無視した事を指導し、やらせて果たして意味があるのかと思いますし、子どもが意図を理解して初めて自発的になるような気がします。もちろん科学遊びなどは意図というよりは子どもの興味、関心、好奇心を掻き立てるという意味で少し難しい課題を与える場合もあるかと思いますが・・・やはり子どもの発達を把握した指導が大切だと思います。

  10. 「指導者から文化的に学ぶためには、指導を指導者の視点に近い視点から理解するためには、子どもは自身の視点とは異なる心の視点を理解できなければならない」とあります。人の学びにおいて指導というものは日常的に行われる内容です。模倣学習も同様によくあることですが、指導学習というものが理解できるようになるためには他者の心の視点に立てることが必要になってくるのですね。そして、それが3歳児ごろからできるようになると考えると2歳児の子どもたちに一生懸命指導したとしてもうまくいかないのは当然ですね。その時期にしっかりと発達を遂げれていなければ3歳児であったとしても指導が難しいというのも分かります。こういったことを知るうえで保育の考え方やかかわり方のヒントも見えてきます。

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