学習の備え

ハイソンたちの研究によると、一般に、学問志向の強い就学前教育プログラムには長期的な効果はなく、逆に、マイナスの結果、例えば、強いストレスを生じさせる可能性もあることを示す証拠を示しました。こうした結果からハイソンたちは、幼児期の学習指導の推奨を弁護する理由はないと結論付けています。むしろ、中流家庭の子どもの認知発達や創造性は、子どもの能力の限界を考慮に入れた発達上適切な幼児教育プログラムで最も良く育まれることを示したのです。ハイソンたちは、「子どもの発達のためには、大人の時間割を押し付け、不安にさせるのではなく、子どもが自分のペースで世界を探索できるようにすることが賢明である。」と述べています。

以上や関連する研究結果の解釈には慎重さが求められるとビョークランドは言いながらも、乳幼児期の認知発達は、学校教育的な教師主導の環境ではない場所で最もよく進もうとする見解と一致すると言います。幼児の認知システムは未成熟であるため、学習や発達は、構造化されていない環境下で最もよく進むのかもしれないとも言っています。幼児が持つ能力は、児童期以降の子どもが持つ能力とは異なりますが、それは、人生のその時期に必要な学習に理想的な能力なのだと思われるのだと言います。これらの結果から言えることは、子ども時代にはそれ自体に目的があるのであって、子どもにこの時代を急いで通り過ぎさせてはならないということを強調しています。

ビョークランドは、「学習への備え」としてのまとめをこう結んでいます。

人の乳児の心はタブラ・ラサ(白紙)であるという哲学者ジョン・ロックの有名な思想は、心理学者に古くから否定されていました。しかし、この「白紙ではない」とする立場が何を意味するのかが認識されるようになったのは、こぐ最近のことであると言います。人の乳児が、文化から提供される経験に満たされるのを待っている空の容器ではないとすれば、子どもは何らかの「知識」を持って生まれてくるはずです。今日では、少なくとも、従来考えられていたような意味での「生得概念」を持って生まれてくると主張する心理学者はほとんどいません。

乳児が持って生まれてくるのは、処理のバイアスと制約(自然淘汰の産物)であり、これが人の心の発達の基礎となります。もちろん、物体、数量的関係性、空間や言語の理解の骨組みを、社会の成熟したメンバーと同じものに発達させるためには、経験が不可欠です。しかし、乳児はヘッドスタートを切っており、生まれてきたときには、潜在的なレベルで、生まれてくる世界について何らかの知識を持っています。このような知識の具体性のレベル、たとえば、制約の本質は表彰か、あるいは構造か?などに関する議論は多くありますが、ヒトの乳児がある特定の事柄について習得しやすいように準備されていることに関する論争はほとんどないそうです。このような準備性は、ヒトと他の動物に共通の認知領域、たとえば、物体に関する知識や空間認知、ヒトに特有の認知領域である「言語」、そしてその中間にある認知領域である「計算」について研究されてきました。それらの領域についての研究についてビョークランドは紹介してきましたが、割愛したものの中には、たとえば子どもの直感的生物学もあると言います。間接的に触れたものでは、「社会的領域」があると言いますが、これはかなりの準備性が存在すると考えられていると言います。いよいよ、これが私がもっとも最近重視している、乳幼児期に準備をしていると思っている領域の話です。

学習の備え” への11件のコメント

  1. 今回の内容は世の中のみんなに読んで欲しいと思うほどに大切なことが詰まっているのだと感じました。これを読めば、子どもに対する見方や価値観などの根底の部分が理解できるものだと思います。
    中でも〝子ども時代にはそれ自体に目的があるのであって、子どもにこの時代を急いで通り過ぎさせてはならない〟という言葉が特に印象に残りました。子どもは大人の小さいバージョンではなく、未完成な訳でもなく、子どもという一人の人間であるということなんですね。

  2. 「子どもの発達のためには、大人の時間割を押し付け、不安にさせるのではなく、子どもが自分のペースで世界を探索できるようにすることが賢明である。」とあったことがとても印象に残りました。ここからも子どもの自発性や主体性を重んじることがいかに重要であるかがわかりますし、選択制などの取り組みの意図も再確認できました。
    最後に乳幼児期の準備性についての内容がありました。ロックの「タブラ・ラサ(白紙)」が否定され、乳児が生まれながらに数多の能力を備えていたりと、乳児の有能さが注目される中で、乳児のころにある能力が成長と共に消失する、薄れるケースが以前紹介されていましたが、それは準備をしているが故であるように思えましたし、それらの様々な能力における準備も乳幼児期から多くの経験を介することで、より充実した準備が整うのではないかとも思えました。

  3. 「幼児が持つ能力は、児童期以降の子どもが持つ能力とは異なりますが、それは、人生のその時期に必要な学習に理想的な能力なのだと思われるのだと言います」とありました。藤森先生の話の中でも、幼児期の教育は経験カリキュラムであり、児童期以降は教科カリキュラムであるという話をされますが、この児童期と幼児期とでは子どもは異なるのだという理解を大人がしかっり持つことが必要ですね。「大人の時間割を押し付け」という言葉もありましたが、その時期、その時期の子どもの発達を理解していないとこそのような関わりになってしまうのだろうなと思います。そして、乳児は何も知らないという白紙の状態で産まれてくるのではないということもまた私たち大人が理解しなければいけない子どもの本当の姿ですね。

  4.  「ビョークランドは、「学習への備え」としてのまとめをこう結んでいます。」以下に続く文章に、これまでの連載の経過と、その内容の濃密さを改めて感じました。コメンテーターの方々のコメントも大変勉強になります。ドイツにおけるオープン保育、職員の方々が先ず子ども観を共有することに時間をかけたということを聞きました。この度の内容でもってして子ども観を共有できることはとても幸せなことだと思います。社会が生まれてくる子どもにこのような目で、考えで接するならば、自ずと子ども中心の社会になるでしょうね。明るい未来を感じます。

  5. ハイソン博士らの結論「子どもの発達のためには、大人の時間割を押し付け、不安にさせるのではなく、子どもが自分のペースで世界を探索できるようにすることが賢明である。」は保育現場で環境を構築する上で基本になる考え方であり、藤森先生が四半世紀にわたって主張されてきたことです。さらにビョークランド博士の「学習や発達は、構造化されていない環境下で最もよく進むのかもしれない」という示唆、これも重要ですね。幼児期と学童期との子どもの学びの準備性の違いを私たちはしっかりと認識する必要がありますね。「子ども時代にはそれ自体に目的があるのであって、子どもにこの時代を急いで通り過ぎさせてはならない」これも藤森先生が言われてきたことです。乳児による「ヘッドスタート」を私たちは理解して眼の前にいる乳幼児に接触していきたいものです。家庭でも園でも。「乳児が持って生まれてくるのは、処理のバイアスと制約(自然淘汰の産物)」は「タブラ・ラサ」という誤解の基になるものでしょう。しかしそれは「人の心の発達の基礎」である。このことを肝に銘じておきたいと思いました。

  6. 「子ども時代にはそれ自体に目的があるのであって、子どもにこの時代を急いで通り過ぎさせてはならない」とあり、「学問志向の強い就学前教育プログラムには長期的な効果はなく、逆に、マイナスの結果」を生むということを大人が理解しておく必要がありますね。そうすることで子どもに強いストレスやプレッシャーをかけていることも少なくはないでしょうね。子どもにとっての準備期間というのがいかに大切かがわかります。この準備という感覚は我が子にもしっかりとそういった目で見て様々な経験から始めていかなくてはならないと感じます。

  7. 子どもたちの早期教育に対して、「学問志向の強い就学前教育プログラムには長期的な効果はなく」という、ハイソン氏たちによる研究結果を社会が受け入れるためには何が必要なのでしょう。どれほど口を酸っぱく伝えたとしても人間の「不安」や「どうせやるなら早いうちから」という考えは、なかなか払拭できないようにも感じます。しかし、「子どもの発達のためには、大人の時間割を押し付け、不安にさせるのではなく、子どもが自分のペースで世界を探索できるようにすることが賢明」であることを伝えながら、保護者に安心と正しい説明を与えられる力も教育者の役割でもあるように、乳幼児期の子どもたちがどのような能力をすでに持ち合わせているかという話に加え、同時に詰め込むだけの早期教育の弊害などにも敏感になる必要があることを感じました。

  8. “ハイソンたちは、「子どもの発達のためには、大人の時間割を押し付け、不安にさせるのではなく、子どもが自分のペースで世界を探索できるようにすることが賢明である。」”という言葉は、大人主体ではなく、こども主体に考えた保育が子どもという存在へ対していかに、一人の人格を持った形成者として考えているかにつながっていると考えられます。また、”認知発達は、学校教育的な教師主導の環境ではない場所で最もよく進もうとする見解”とあることももっと社会的に重要にとらえ、自発的に行動することには、意味がある、大人が指示を与えることは道標になっているのではなく、かえって選択の幅、発達において選択することを制限させているのとて、子どもの発達に必要だと本能的に感じているものの芽を摘んでいることへ理解を深めなければならないと思いました。子どもの自発性が将来的にどのような力へ繋がっていき、どのような活かしていくのか、子どものもつ力を消さないことを大人は頭に入れておかなければならないと思いました。

  9. 「子ども時代にはそれ自体に目的があるのであって、子どもにこの時代を急いで通り過ぎさせてはならない」この文章はとても重要な内容だと思います。保育に限らず、家庭でも子どもに対して高望みをし、発達を無視した能力を何でも求めてしまい、子どもに負担をかけてしまっていることを分からないまま過ごしている家庭も少なくないと思います。だからこそ、乳児は白紙で生まれてくるから、乳幼児期は教えないといけないという見解になってしまうのかもしれません。しかし「乳児が持って生まれてくるのは、処理のバイアスと制約(自然淘汰の産物)であり、これが人の心の発達の基礎」とブログに書いてあるように、生まれた時から「学習の備え」があり、その時期にくると自然と身につき、そのためには経験が不可欠とあります。内容をすべて理解するのは少し難しいですが、自分たちが何をすべきかは明白のような気がします。

  10. これまでの乳児研究で乳児が生まれてくるまでに何らかの知識を持って生まれてくるということがわかってきました。しかし、実際は生まれてきてからその能力を一斉に発揮することは難しいです。ブログの内容の中にも「物体、数量的関係性、空間や言語の理解の骨組みを、社会の成熟したメンバーと同じものに発達させるためには、経験が不可欠です。」とあるように「無いものができるようになる」のではなく、「経験値を積むことで使えるようになる」と考える必要がありますね。そう考えるとその時期その時期の経験を先取りすること8は非常に危険であり、あまり意味のないことであるということがわかります。また、乳幼児が自分で選ぶことや主体的に行うことの大切さも同時に感じます。この「主体性」というものが厄介で、そのとらえ方をしっかりと考えなければいけません。本来の意味での子ども環境のあり方を考えるときにこういった考えを知ることはとても大切ですね。

  11. 子ども時代にはそれ自体に目的があるのであって、子どもにこの時代を急いで通り過ぎさせてはならないとありました。ハイハイは腕の筋肉、転んだ時に手を付けるようになどその発達段階には取得すべき能力があり、急いで立って歩いたからといってそれが必ずしもいいとは限らないという話を思い出しました。大人が将来これが必要だからと大人のレールに乗せて子どもと接しては非常にもったいないことにつながりかねないですね。ただ未熟にその日を生きているわけではなく、一人の人間として、必要となる能力をその時期に確実に取得するためにいるんだということを改めて感じる内容でした。

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