形態の違う生物

子どもの脳の発達を考えるとき、どうしても大人を中心とした人間観があるために、大人との比較でしか乳幼児を捉えていないことが多いようです。森口が、乳幼児のある面白い現象を報告したとき、「それが大人のどのような行動に結びつくのか?」という質問を受けることがたびたびあったそうです。これは、大人を中心に据えて、幼い子どもがどのように大人になるか、という視点からの捉え方でしかないと言います。進化発達心理学者が示唆する重要な点は、乳幼児の行動の中には、乳幼児期しか意味がないものがあるということであり、乳幼児が大人とは異なった心の世界を持っているということに理論的な素地を与えていることです。もちろん、乳幼児だけではなく、児童期には児童期の、青年期には青年期の、特有の行動があるのです。

ゴブニック博士は、その著「哲学する赤ちゃん」の中で、大人と子どもは形態の違う生物であると指摘していることは以前のブログで紹介しました。そのときの例がとても的確で、面白かったので紹介したのですが、森口もここでその言葉を紹介しています。「子どもはいわば、ヒトという種の研究開発部門に配属されたアイデアマン、大人は製造販売担当」と述べ、子どもの持つ変革能力と想像力は、人間が多様な環境に適応し、また、自分の環境を変えることに重要な役割を果たしていると指摘しています。さらに私が紹介したのは、開発途中では、失敗を何度も繰り返して色々なものを発明していくのに対して、販売担当が、そんな物は売れないから、無駄だと言うことと、子どもの失敗を大人が怒るのと似ているというようなことが書いてあったと記憶しています。たしかに、大人はデジタル機器などの新しいデバイスが登場した際にうまく対応できず、旧来のコミュニケーション方法に依存しますが、子どもはすんなりと対応し、新しいコミュニケーション方法を開発することですらできるのです。

ビョークランド博士らは、乳幼児期の適応として、メタ認知能力の低さや遊びを例として挙げています。例えば、子どものメタ認知能力の低さは、自分の能力を過信することにより、広範な活動を試みることにつながります。大人はメタ認知能力があるがゆえに、無謀な挑戦や試みを避けがちです。その結果、新しい発見をする機会が減ってしまいます。また、コネクショニズムの研究から、乳児においてワーキングメモリの容量が少ないことは、言語発達を促進するという報告もあるそうです。ワーキングメモリの容量が少ないことは、一度に処理できる情報量が少ないことを意味します。そのため、発達初期では複雑な構造を持った文を処理できず、単純な構造を持った文から処理します。しかし、単純な文を先に処理することは、結局は言語獲得を容易にするそうです。発達初期からワーキングメモリの容量が大きい場合、複雑な文を処理できることになりますが、いきなり複雑な文を処理しようとしても、その構造である文法が把握できません。まず、単純な文の構造を把握して、そのあとに複雑な文を把握することによって、言語発達は容易になると森口は言います。

彼はさらに、遊びについても意義を見出しています。子ども期に見られる遊びは、後の発達にどのような意義があるのかという点で検討されがちですが、生物学や進化発達心理学では、遊びを、子ども期での機能と、後の発達への機能とに分け、それぞれの機能を議論しているそうです。

形態の違う生物” への12件のコメント

  1. とてもおもしろい内容といか、考えさせられる内容でしたし、子どもの捉え方がまた変わってくるような内容だなと感じました。大人を中心として乳幼児を捉えてしまうことというのは往々にしてあることなのかもしれません。私自身もついついそんな捉え方をしてしまうことがあるように思います。しかし、そうではなく、乳幼児期には乳幼児期の、青年期には青年期のといったそれぞれの時期に、全く異なった世界を持っている存在なのだと捉えることが重要になってくるのかもしれませんね。乳幼児には乳幼児期に必要な行動、発達があるはずなのに、それを大人との比較で幼稚なもの、意味のないものなのではないかと捉えてしまうことは本当に残念ですし、正しい子ども理解ではありませんね。藤森先生が「子どもが行なっていることには意味がある。そのことをしっかり保障するために学ぶことが大切」というようなことを言っておられたのを思い出しました。まさに、今回のブログの内容からはそのことを改めて強く感じました。見守る保育の三省でもある「子どもをまるごと信じることができただろうか」という部分にもつながってくるように感じます。

  2. 私自身振り返ってみると、「それが大人のどのような行動に結びつくのか?」のように大人を中心に据えた考え方があるのは否めないところがあったので、私も注意していかなければなと思えました。そして、「乳幼児だけではなく、児童期には児童期の、青年期には青年期の、特有の行動がある」とあったことが印象的で、教育者には柔軟性が求められるように感じました。また「大人はデジタル機器などの新しいデバイスが登場した際にうまく対応できず、旧来のコミュニケーション方法に依存しますが、子どもはすんなりと対応し、新しいコミュニケーション方法を開発することですらできる」とありました。子どもと大人という比較に限らず、このような柔軟性は年配者より若者など、若いほど柔軟性があるように私の中では刷り込まれてしまっているのですが、どうなのでしょうか。一概には言えない個人差があるようにも思えてきました。

  3.  「進化発達心理学者が示唆する重要な点は、乳幼児の行動の中には、乳幼児期しか意味がないものがあるということであり、乳幼児が大人とは異なった心の世界を持っているということに理論的な素地を与えていることです。」子どもの頃にもっていた感覚を大人がどれだけ思い出そうと思っても、既に大人になってしまった今、その感覚でしか想像できないものであるとすれば、子どもの世界を大人が想像するということはとても難しいものであるということになるのかもわかりません。だからこそ子どもの世界を少しでも理解しようと大人は子どもに歩みよるのだと思いますし、その学びや視野を広げていかなくては見えるものは限られてしまうかもわかりませんね。

  4. 改めて振り返ると、自分にも〝大人を中心とした人間観〟で子どもを捉えている時もあったのではないかと思い、自分の中の振り返りの良い機会となった今回の内容です。
    大人には大人の、児童期には児童期の、青年期には青年期のまた違った世界があるんですよね。それぞれに良さがあり、足りない部分もあり…というような多様性の中で生きていくことを選んだのが人間であり、適応できるだけの能力も授かっているはずですよね。
    さらに、子どものメタ認知の能力の低さが優位に働くということで、能力の低さがメリットだということに子どもの素晴らしさを感じました。

  5. ゛子どもの持つ変革能力と想像力は、人間が多様な環境に適応し、また、自分の環境を変えることに重要な役割を果たしている゛とあることからも、私たちが大人であることは、子どもがもつ役割を考えてあげるのではなく、子どもがもっている思考を認め、自発的に環境へ向かうときの人的な役割として存在しなければならないと思いました。
    何かあるとなんで?と思ったり、生きていきたなかで、刷り込まれた概念というものは、そうそうに抜けるものではない、しかし、それをトップダウンのように子どもに伝えることは、かえって子どもの成長へ悪影響である、と考えられ、ワーキングメモリーの内容についても、大人になると大きいが子どもの頃は小さい、その大小には、しっかりとした意図がある、゛単純な文の構造を把握して、そのあとに複雑な文を把握することによって、言語発達は容易になる゛゛とあることも進化の過程として乳児からの発達を見ていくことが必要であるて思いました。

  6. 最近子どもたちと接していて思うのは、子どもは子どであると同時に大人であるように思いますし、大人は大人であると同時に子どもであるように感じるのです。それは、はっきりと区別できるようなものではないということと、言い換えるなら両者がどこか共存しているようにさえ感じています。「乳幼児だけではなく、児童期には児童期の、青年期には青年期の、特有の行動がある」という言葉には、「大人には大人の行動」があるということも含まれているように、それらの行動を選択している主体は変わっていないわけで、つまりは、変わらないからこそ変わった価値観や発達、意識などを携えて目の前のことに向き合っていっている印象を受けました。進化発達心理学者の「乳幼児の行動の中には、乳幼児期しか意味がないものがある」「乳幼児が大人とは異なった心の世界を持っているということに理論的な素地を与えている」という言葉を聞いて、大人だから一生理解できないということでもないと思うのは、自分の中にどこか「子ども」がいる気がするのです。

  7. 乳幼児、児童期、青年期、それぞれの時期に、ぞれぞれ特有の行動があるという言葉が印象的です。まさに反抗期なんて特徴的ですし、また男の子と女の子でも違ってくる気がします。そういった捉え方をしてしまうから乳幼児を大人主観で捉えてしまっているのかもしれません。ゴブニック博士の言葉も藤森先生の講演で聞きましたが、とても納得しました。いかに自分たち、大人が子どもの無限の可能性を勝手な刷り込みによって消していたのだろうか・・・と。乳幼児期の発達を連続で見ることが大切なことですが、全部を全て連続で捉えるのでなく、「遊びを、子ども期での機能と、後の発達への機能とに分け、それぞれの機能を議論する」という事が今後は重要なのかもしれません。

  8. 「進化発達心理学者が示唆する重要な点は、乳幼児の行動の中には、乳幼児期しか意味がないものがあるということであり…」という進化発達心理学が重要だという点は保育者として頭に入れておくべき点であるようですね。またゴブニック博士、ビョークランド博士らにもる乳幼児の捉え方というのはなるほどといった感じになります。アイデアマンと製造販売担当とはまたわかりやすい例えです。メタ認知の問題もあり乳幼児がいるからこそ新しいことが生まれるという視点は変わらないですね。まさに子どもから学ぶですね。

  9. 子どもと大人を別の形態の生き物としてみるというは初めての感覚です。確かに乳幼児期の感覚と大人の感覚は違うとは思いますが、それは子どもは大人に向かうためのプロセスを踏んでいると考えてしまいます。その時期はその時期のものというように切り離して考えることはなかったです。しかし、確かに子どもたちの遊びや活動から学ぶこともとても多くあります。見習わなければいけないなと思う姿勢を考えることがあると思うとこういった大人ができないような視点で物事を見ることができるからなのでしょうね。では、大人とは違うことの意義とはなんなのでしょうか。そう言った存在としての必要性はどこにあるのでしょうか。気になります。やはりそこにも何か意味があるのでしょうね。

  10. 目が二つ、鼻が一つ、・・・赤ちゃんは外見上、私たち大人と相通じているところがたくさんあります。大人の私たちは、やがて自分みたいな大人にこの赤ちゃんもなるんだ、と思うことがあるかもしれません。それはあまり間違った思いではないでしょう。現に、赤ちゃんであった私はおじいちゃんになろうとしている私になっているわけですから。しかし、それでも大人基準で赤ちゃんを見てはいけない、と思いますね。「進化発達心理学者が示唆する重要な点は、乳幼児の行動の中には、乳幼児期しか意味がないものがあるということ」という指摘は重要です。この時期にしか培えない能力を培っているに違いないと思えてくるのです。「子どもの持つ変革能力と想像力」は「メタ認知能力の低さ」ゆえ「自分の能力を過信することにより、広範な活動を試みることにつなが」る。この時期「変革能力と想像力」をうまく身につけられた人が大人になってその力を存分に発揮するのでしょう。メタ認知能力を眠らせておきながら。子どもの行為は、大人になるため、というより、人類の生存それ自体のためにある、と思ってしまいました。

  11. 大人を中心に据えて、幼い子どもがどのように大人になるか、という視点、言葉がすごく勉強になりました。確かに、子ども達の行動を見ていて、さまざまなところで自分の目線が大人になってしまっていた気がします。乳幼児の行動の中には、乳幼児期しか意味がないものがあるということであり、乳幼児が大人とは異なった心の世界を持っている、とあり、そういう考え方、心のゆとりがないととても見守ることはできないと思いました。例えにありますが、「子どもはいわば、ヒトという種の研究開発部門に配属されたアイデアマン、大人は製造販売担当」でも子どもと大人は担当が違っているんですね。ゆとりのある保育ができるようになりたいです。

  12. 「子どもの脳の発達を考えるとき、どうしても大人を中心とした人間観があるために、大人との比較でしか乳幼児を捉えていないことが多いようです」という冒頭の言葉が印象的でした。保育士として働き始めて、こどもの発達に焦点を当てていくと、発見があったり、面白さがあったりします。現場で働く前まででは、そんなことに気づくことができず、同じように大人との比較でしか考えれないかもしれません。
    冒頭の一文は、保育士としても大切なことであり忘れてはいけないことだなと感じました。

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