情報処理

私は、森口氏が危惧しているように、「こんな早い時期にこんなすごいことができます」ということが、強いインパクトを与えるためにそのような研究が発表されているということではなく、実際に乳児観察をしている中で、ずいぶんと早い時期にこんなすごいことができるのだという感動を、日々経験をしているからです。だからといって、なんでも乳児が有能だというわけではありません。しかし、保育では、長い間乳児は無能だということを前提として、乳児に対応してきた気がしているからです。また、できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべきだと思っているからです。本当のことは、まだまだはっきり解明されてはいかないでしょう。研究には、絶対ということはありません。特に乳児においてはなおさらです。

さらに最近の研究で、乳児における情報処理能力について行なわれています。森口は、認知発達の情報処理理論家として著名なシーグラー博士の著書「子どもの思考」の中からこんな一節を紹介しています。

「ほとんどの4歳児は、20以上数えられるレベルに達しているが、このレベルの子どもは、数の系列の恣意的な部分も、規則的な部分も理解している…29、39、40、などの9で終わる数の所で数えやめる子どもの人数が、他の場所でやめる子どもに比べてずっと多い。これは、子どもが十の位の名前に一桁の数を付け加えるという規則を知っており、次の十の位の名前を知らない場合には、当然のパターンである。」

情報処理理論では、子どもが問題をいかに解決するか、その際にどのようなエラーをするか、目標にどのように到達するかという視点から、認知発達を検討するそうです。その際に、子どもの認知過程を、コンピューターと結びつけて議論するそうです。

1950年代頃から起きた認知革命は、発達研究にも情報処理の考え方を波及させたそうです。情報処理理論は、ピアジェ以降の主要な認知発達理論のひとつだそうです。コアノレッジ理論が乳幼児を主なターゲットにしているのに対して、情報処理理論は乳児期から青年期の認知発達をターゲットとしているそうです。

この理論も、ピアジェ理論の問題点が進展する契機になったそうです。ひとつは、ピアジェが用いた課題が難しく、子どもの能力を正当に評価できていない点だそうです。たとえば、三つの山問題では、子どもは自分と違う位置にいる人形の視点に立つことができません。ピアジェによれば、これは子どもが自己中心的であることに由来していると言いました。しかしながら、ドナルドソン博士によれば、ピアジェの用いた課題は子どもにとってなじみがなく、子どもの能力を正当に測定できていないというのです。三つ山問題に対する反証としてドナルドソン博士の出した例は、かくれんぼです。

ある部屋をAからDまで壁で四つに仕切りました。この中で、子どもは、自分が持っている人形を、警察官の人形から隠すように教示されます。警察官の視点からはAやBが見えない場所だとすると、そこに人形を隠さなければなりません。この課題は、自分の視点とは異なる視点をとる必要があるという意味で、三つ山問題と同じ構造をしています。ですが、この研究では、ほとんどの幼児が正解することができたそうです。

情報処理” への13件のコメント

  1.  「実際に乳児観察をしている中で、ずいぶんと早い時期にこんなすごいことができるのだという感動を、日々経験をしているからです。」冒頭の文章を心から共感できることに、今年度0歳児クラスを担当させていただいて本当に幸せだったと改めて思います。そして家にはクラスの子どもたちと同じ年齢の息子がいて、寝ても醒めてもその驚きと感動の中にいる毎日にいたことを改めて思いました。子どもたちの何気ない仕草や、関わり、想像を超える行動に、これからも最大限アンテナを高くしていきたい思います。
     ピアジェの課題、ドナルドソン博士の反証例、その研究方法によって得られる結果が異なりますね。それは即ち子どもの可能性の大きさを示していると思いますし、「研究には、絶対ということはありません。」という先生の言葉を表すものだと思います。ゴールを目指しながらもそのゴールの存在は絶対ではないとするならば、やはりその道中を楽しんでこそ、ですね。

  2. 「できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべきだと思っているからです」という言葉が印象的でした。何かができるということを見て、ついつい評価をしてしまいがちですが、そうではなく、本当の意味で学んでいる、成長している子どもの姿をしっかりとみていかなければならないなと感じました。ピアジェの三つ山問題に、ドナルドソン博士による人形を使ったかくれんぼの実験が紹介されていました。どちらも自分とは違う異なる視点という同じような構造があっても結果は異なるものになったのですね。子ども研究の奥の深さを感じるようでもありますし、同時に子どもを研究する難しさのようなものも感じます。だからこそ、様々なアプローチ、様々な視点で子どもを見ていくという事が大切になっていくのかなと感じさせられました。

  3. 〝できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべきだ〟とありました。子どものことだけではなく、全てのことに共通している見方だと思います。単純にできる、できないの二択ではなく、もっと広い視野や先の見通しをもって、ものごとを見つめていくことの大切さを改めて感じさせられました。
    また〝研究には、絶対ということはありません。〟とあり、自分もよく陥りがちですが「こうあるべきだ」「こうしなければいけない」などの刷り込みのようなものは、研究にとっても邪魔なものになってしまうということなんでしょうか。
    研究にもやはり、柔軟な思考が求められるということですね。

  4. 乳児が「できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべき」とあり、有能や無能と分類することより、この認識が重要だと思えました。これにおいても「できた」「できなかった」の結果よりも、過程にこそ意味があり、その過程に学びがあることを忘れずに保育していきたいと改めて思えました。
    ピアジェの「三つの山問題」とドナルドソン博士の出した「かくれんぼ」は、同じ構造をしていたのに、ドナルドソン博士の方の「かくれんぼ」では、なぜほとんどの幼児が正解することができたのかを考えてみましたが、「隠す」という過程に幼児の興味が向いたことが1番の要因なのかなと想像しました。

  5. ゛できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべきだと思っている゛とあることは、日々の保育にも必要なスタンスだと思いました。できないからやらせないのではないのではなく、子ども今、関わろうとしている人、物、空間にはどんなことを感じ、学びとろうとしているんだろう、そのために子どもが自ら考え行動するための環境が必要だと感じます。学び手であることの認識とは、私たちが学ぶための楽しさ、感じること、味わうこと、を考えることが大いなる学び手の好奇心や探求心をさらに引き出す原動力になると考えることができます。ピアジェの子どもへ対する研究課題には難しいところに対して、ドナルドソン博士は、馴染みがあるものを課題として用意したことは、互いに違った研究からという多様性を感じます。ごく自然のなかで、の姿というところから、研究では、多様な集団だからこそ見られる乳児の関わりだったり、多様な集団のなかでしか見られない行動、また、1人を研究していても見られない力など、様々な研究があるからこそ、多様な子どもという存在を知ることができるのだと改めて感じています。、

  6. 「研究には、絶対ということはありません。特に乳児においてはなおさらです」おそらく藤森先生の講演やブログを読んでいなければ、「絶対」として捉えていたように思います。おそらく机上の理論、そして子どもに対しての刷り込みが強く、「子ども=何もできない」という考え方が広く認知されていたのかもしれません。「子どもの存在を信じる」と見守る保育三省であります。能力の有無の前に子ども達を丸ごと信じる事が最も大切であり、それが自然と子どもが有能な存在として認める事に繋がると思いました。ピアジェやドナルドソンなど、多くの理論を打ち出した研究者は、その理論が正しいか間違いかである前に、子どもの能力、存在を信じ、認めていたから、研究や実践を行っていたような気がします。

  7. 子どもの発達や能力というものを、ある研究によって調べようとする際、知りたい能力の有無は、どのような実験によって把握できるのかという部分と、現時点での子どもの発達を理解してから、その発達を利用して検証するのかというのは、非常に大切であることが伝わってきました。その両者が研究には必要であり、それを現時点で最も把握しているのが、藤森先生がいつも言っている「現場の職員」であるのですね。そういった意味で、やはりそういった現場が研究を担える制度を構築することが重要でもあるのだなと感じました。

  8. 「できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべきだと思っているからです。」とあり確かに今まで乳児は無能だとも言われてきてた中で乳児は大いなる学び手というような考えを常に持っていなければならないと改めて感じます。そして「子どもの能力を正当に評価」するための実験として最後にかくれんぼがあげられていました。子どもが馴染みがなければ確かにその成果はあげられません。本当の子どもの能力を測定するための実験というのは一体どんなことなのか考えさせられますね。個人的に馴染みがなくてもできるのが本当の能力なのか、馴染みがあってできれば本当の能力なのか、どちらもなんとも言えないなぁとも勝手に思ってしまいます。

  9. 「できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべきだと思っているからです」という言葉が印象的でした。なんだか、自分の無知さはこれからたくさん学べるということだと自分の立場に置き換えても励みになるような言葉でした。今回紹介していただいた他者の視点に立つことができるかの実験は面白いですね。たまに、夕方保育の時に、子どもたちと宝探しをして遊ぶことがあります。その時に、私が目を閉じるわけでもなく、子どもたちが自分から見えないところに隠そうとする姿と重なりました。そうした、何気ない子どもとのやり取りの中に、子どもが持つつ力を知るきっかけがあることを感じました。

  10. 今回の話で研究には絶対ということはありません。という言葉が印象にのこりこました。、「こんな早い時期にこんなすごいことができます」ということが、強いインパクトがあると「へえ~、そうなんだ。」と信じ込んでしまいます。しかし、そういったことを鵜呑みにしてしまうのは危険だということでしょうか。実際に自分で見て感じたことが信じるべきことなのかなと感じました。情報が容易の手にできる時代になり、新しい発見や見方を知識として入れがちですが、それに惑わされないようにすることも必要なのだと思いました。自分は特に知識として頭に入れてしまうことが多いので気を付けていきたいです。

  11. 乳児が「できないからといって、無能だということではなく、大いなる学び手であるということを認識すべき」というのは新宿せいが保育園の保育を見てとても感じるところです。それは先生が教えるのではなく、環境を用意しておくことで乳児の子どもたちも興味を持ち、自分から模倣し挑戦しようとする姿を目の当たりにしたからです。それまでは先生が乳児に対して「してあげる」ということがほとんどところだったのが、「できることの保障」という視点を持ったことは子ども観を持つうえでとても重要な転機であったことを覚えています。そのうえで、様々な理論や研究をもとに乳児の子どもたちの有能性が見えてきたのはどこか当然のように感じました。よく藤森先生は「理論ではなく、目の前の子どもたちこそが答え」というようにいつのまにか様々な保育方法などによって先入観を持たされているのかもしれません。

  12. 乳児は何もできない、だからやってあげなければならない、という考え方で乳児を保育している園はまだまだたくさんあるのかもしれません。一方で藤森先生が提起されているように「ずいぶんと早い時期にこんなすごいことができるのだ」とか「大いなる学び手である」という認識を持つなら、乳児に対する保育の仕方も自ずと変わってくるような気がします。少なくとも、乳児は特定の大人が何でも世話をしてあげればいい、だから乳児のお部屋環境はガランドウでもいい、ということにはならなくなるでしょう。乳児研究ではまだまだ解明されていないこともあるでしょうが、それでも乳児の有能性あるいはその可能性は疑う余地はほとんどなくなってきている。このことをもっと保育現場に発信していかなければなりませんね。さて、「乳児における情報処理能力」についての研究が紹介され始めました。「コアノレッジ理論が乳幼児を主なターゲットにしているのに対して、情報処理理論は乳児期から青年期の認知発達をターゲットとしている」この視点を踏まえた上で乳幼児における情報処理能力ということについて学んでいきたいものです。

  13. 数をいくつ数えられるかということに関して、最近小学校よりある程度までは数えられるようにしてほしいという話を聞いて、自分の娘で少し試してみたのですが、「子どもが十の位の名前に一桁の数を付け加えるという規則を知っており、次の十の位の名前を知らない場合には」といった法則がまさに当てはまり、情報処理を行っている過程と、それに対してその教えていけばいいのかと思わず考えてしまいました。この次は他者の視点になる実験も試してみようと思います。

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