乳幼児研究

柳田は7歳までの子どもに神性を見出し、特別な価値を与えていると言います。この見方は、民俗学では古くからの乳幼児観として受け入れられており、一般にも広く受け入れられていました。一方で、歴史学者柴田博士は、「日本幼児史」において「7歳までは神のうち」は、古くからの乳幼児観ではなく、近年一部の地域のみで見られた乳幼児観に過ぎないと論じているそうです。日本においては、中世までは乳幼児は疎外や無関心の対象であり、保護する考えが生じたのは近年以降だと述べているそうです。江戸時代でも幼児に対する見方は基本的に同じですが、儒学者である荻生徂徠の本に「7歳以下は知も力もなき」という記述があるそうです。その考え方は、「無能な乳幼児」に通じる点が興味深いと森口は言っています。荻生徂徠はロックと同じ時代の人なので、この時代では、さまざまな文化で乳幼児は無能だという考えが一般的だったのかもしれないと森口は考えているようです。

また、疎外された存在であることと一致して、古代から近世に至るまで、捨て子などは非常に多かったとされています。柴田博士によれば、江戸時代に入り、疎外される対象であった幼児が、保護すべき対象に変化していったと言っています。政治的な要因としては、徳川綱吉政権時に発令された「生類憐れみの令」と「捨子禁令」によって捨て子が禁じられたことがあり、社会的には、庶民においても継続性のある家制度が確立し、子どもを「子宝」とみて、教育する対象として捉えるようになったことを挙げています。

万葉集においても子どもをいつくしむ歌があることから、古代や中世の人間のすべてが乳幼児を疎外していたわけではないと言います。乳幼児が神聖は存在だと見なされていたのか、無関心の対象であったのかは、それほど簡単に決着が付くような問題ではないと言います。少なくとも、乳幼児が知的能力を有していない「無能な乳幼児」だと見なされていたことは確かなようだと森口は言います。この見方が、時代を経て変わっていくのです。

乳幼児の観察を数多く報告し、認知発達研究の父であるピアジェの研究が中心となりますが、森口は、この時期の乳幼児観に関連する研究も取りあげて紹介しています。

19世紀後半頃、教育熱の高まりや医学の進歩などから乳幼児研究が本格的に始まりました。そのような中で研究の方法論の開発・定着が促され、研究が飛躍的に進歩したようです。、あず、この時期の主流名研究方法であった、観察法について森口は紹介しています。

乳幼児の知的発達研究の方法論として本格的に観察が用いられたのは、18世紀末にドイツの哲学者ティーディマンの息子についての観察記録が最初だとされているそうです。しかし、方法論として定式化したのは、マンチェスターで生まれ、ヨーロッパの各地で教鞭をとった生理学者ブライヤーだそうです。彼も自分の息子を入念に観察したそうです。それまでの「観察日誌」から、「観察研究」に変わっていったのです。それには大きな違いがあると森口は言います。ブライヤーは、学問における方法論の重要性を認識し、観察を科学的方法論にしたのだと言うのです。

また彼は、観察の技術的な問題について、観察は直接観察に限る、観察はその場で記録しなければならない、等さまざまな提言を行なっているそうです。また、観察対象について、同じ子どもを1日に3回以上観察しなければならないことや、多くの子どもを観察しなければならないことを提唱しています。