乳児と幼児

スペルキ博士らは、一連の実験結果から乳児が様々な物理的知識を持っていると主張していますが、そのような結果は、スペルキ博士らとは異なる解釈もあるのではないか、もし仮にスペルキ博士らが言うように乳児が物理的な知識を持っているとしても、それらの能力を乳児が生得的に持っていることの証明にはならないのではないかという反論があるそうです。ほかにも、乳児と幼児で結果に食い違いが見られるということがあります。例えば、スペルキ博士らは、視線を計測することで、生後4ヶ月の乳児が物体の性質を理解していることを示しました。この実験では、乳児は馴化段階において、スクリーンの上方からボールを落とした後にスクリーンが取り払われ、ボールが地面に落ちている様子を観察します。これを見せられた後に、テスト段階では、床の上にもうひとつの水平面が用意され、馴化段階と同じようにボールがスクリーンの上方から落とされました。一致条件では、物理的法則に従って、スクリーンが取り払われた後も、ボールは水平面の上にあります。不一致条件では、ボールは水平面を通過して、床にあります。

この実験で、乳児は不一致条件に脱馴化しました。つまり、ボールが水平面を通過しないという物体の性質を理解していることになるのです。ところが、同じ性質を扱った実験を幼児の実験では、視線ではなく探索行動を指標とします。この場合、馴化段階の後に、テスト段階において水平面の上と下にドアを用意して、ボールがある位置を探索させるのです。物理法則を理解しているのであれば、水平面のドアを開けるはずです。ところが、2歳半の幼児は、水平面の下のドアを開けてしまったのです。幼児は、乳児ですら理解しているはずの物体の性質を、理解していないかのような行動を取ったのです。このような結果は、数多く報告されているそうです。

このような結果を見て、どう判断するでしょうか?私は、乳児が生得的に持っている力は、その後の経験を積み重ねる中でより確実な能力となるだけでなく、消えていくものもあるのではないかと思ってしまいます。成長するに従って、自分で色々とやれるようになるに従って、やってもらうための力が消滅することもあるのではないかと思うのです。しかし、このような考え方は、研究者としては失格のようです。研究者は、こう考えるようです。まず、幼児の研究方法に問題があると指摘します。つまり、前提に、乳児よりも幼児が劣るはずはなく、測定方法に問題があったり、課題の教示の仕方に問題があったりするために、幼児が間違えてしまうように「みえる」というものです。

もうひとつの見方として、知識の表象的レベルを区別するという考え方があるそうです。特に、カミロフスミス博士の、表象書き換え理論が有名だそうです。この理論では、表象を四つのレベルに分類しますが、大きくは暗黙的なレベルと明示的なレベルに分けます。暗黙的表象とは、最も原始的なレベルで、潜在的、無意識的なレベルの表象を指します。子どもはこの表象を利用できるものの、これを他の表象と関連づけたり、要素に分割したりすることができません。

森口は、これをピアノの演奏を例に挙げて説明しています。ある曲を何度も練習して譜面通りにピアノが弾けるようになったとします。このとき、最初から最後まで正しく演奏ができたとしても、その演奏をアレンジしたり、即興であるパートから別のパートに飛んだり組み合わせたりすることはできません。この曲の演奏は、知識として身につけてはいるものの、意識的に柔軟に利用できてはいません。これが暗黙的なレベルだと言います。

乳児と幼児” への12件のコメント

  1. 乳児と幼児の実験結果の違いを藤森先生は「乳児が生得的に持っている力は、その後の経験を積み重ねる中でより確実な能力となるだけでなく、消えていくものもあるのではないか」と考えられ、研究者は幼児の研究方法に問題があると指摘し、幼児が間違えてしまうようにみえたのではないかと考えるのですね。研究の結果によって子どもたちの能力を判定するというのはとても難しいことなのですね。少なくとも、研究の結果としてないから、分かっていないからその能力はないという考え方は正しいものではありませんね。乳児と幼児だけをみても数年くらいの違いしかありませんが、この数年というのは大人の数年とは全く違う月日であるように感じます。やはりここでも同じ子どもであっても乳児期と幼児期とでは別の存在にすら感じてしまいます。本来持っている能力が消えていくということもなんだかそんな気がしてきます。

  2. 乳児の時に見られた行動や理解が、幼児になると消えたり理解できなくなるというのは不思議なことですね。生き抜く上ではその方が都合がいいのか、はたまた、乳児の能力の高さから次第に劣っていくということが摂理であるかなど、様々な憶測が浮かび上がってきます。また、研究者の『前提に、乳児よりも幼児が劣るはずはなく、測定方法に問題があったり、課題の教示の仕方に問題があったりするために、幼児が間違えてしまうように「みえる」』という見方があるということで、見え方の違いというか、一つの行為をどう捉えるのかというこちら側の認識の種類を変える必要があるということなのでしょうか。そして、「前提に、乳児よりも幼児が劣るはずはなく」というものに対しても、何が何に対しての劣っているのかということでもありますが、ある部分によっては幼児の方が劣っているというものも存在しているようにも感じました。

  3. 実験結果から乳児は「ボールが水平面を通過しないという物体の性質を理解していることになる」のに対し、幼児では理解していないような結果になったことはとても興味深いですね。藤森先生の「成長するに従って、自分で色々とやれるようになるに従って、やってもらうための力が消滅することもあるのではないか」との解釈通りに私も感じましたし、発達過程において、一度消失というか隠すようなことをすることで別の能力の獲得や育成につなげているように感じましたが、研究者の視点ではそうはならず、研究方法に視点が向くのですね。正に向上心のようなものを感じます。また前提に「乳児よりも幼児が劣るはずはなく」とありましたが、これは総合的なことでなく、1つ1つの能力においてもなのですね。大人でも感心させられる乳幼児の能力が次々とわかってきているので、能力の種類によっては発達段階によっては乳児の方が高い能力もある気がしてしまいます。

  4. 乳児でも理解しているものをなぜ幼児である2歳半の子どもが理解していないのか、という問題において、〝前提に、乳児よりも幼児が劣るはずはなく〟とあり、乳児の方が劣っていると考えるということなんですね。研究結果を仕方や測定方法に問題があると考える、矢じるしを自分たちに向けていることは次につながるものであるように感じました。研究の結果から子どもたちの能力を判定するというのはとても難しいことなんですね。
    個人的には、以前ピアノを習っていたことがあり、暗黙のレベルでの習得はできている曲がいくつかありましたが、習うことを辞めてしまってから6、7年経った今、また同じように弾けないのではないかと思います。なので、明示的なレベルにある人を見るとうらやましく思います。

  5. このような乳児と幼児に同じような実験であったような物体の性質を理解しているかのような内容では、確かに生得的にあったものだったら、どちらも同じ答えがでるのかなと思ってしまいますが、そうではなく、゛前提に、乳児よりも幼児が劣るはずはなく、測定方法に問題があったり、課題の教示の仕方に問題があったりするために、幼児が間違えてしまうように「みえる」というもの゛という考え方は私たちが保育をしているなかでももつべきスタンスであり、考え方として多様な視点を用いた研究方法により見えてくるものがあるという柔軟性をもった保育に通ずることがあるように感じました。

  6.  「ところが、2歳半の幼児は、水平面の下のドアを開けてしまったのです。幼児は、乳児ですら理解しているはずの物体の性質を、理解していないかのような行動を取ったのです。このような結果は、数多く報告されているそうです。」とても興味深い行動ですね。こちらの期待に反した行動のように感じられますが、実は内容を熟知した上での行動だとしたら、と思えてきますが解釈違いでしょうか。子どもは時にこちらの意図や思惑とは全く異なる行動を見せながらも、その理由がしっかりとあることが多々あります。因果ではありませんが、子どもがその結果を出す理由が、優劣という評価基準になってしまうことが少し疑問ではあります。

  7. 研究者の実験結果に対する判断は、方法の違いであったり、課題の教示の仕方というように、子どもの姿には注目しないのですね。そういう点で藤森先生の判断の仕方は現場目線であり、納得できるのではないでしょうか。また知識の表象的レベルを区別するという考え方も何となく分かります。長男の例になるのですが、電車が好きで電車の名前や日本で新幹線が停車する主となる駅名覚えるのですが、知識として覚えているので、県名と関連したり、その他の情報と組み合わせるという作業ができていませんでした。最近になってようやく地図や県名などを理解できるようになってきましたが、これがおそらく暗黙的表象ということでしょうか。反対に明示的というのは・・・どういったものな具体的な内容が気になります。

  8. 乳児がボールと水平面の性質を理解する中、なぜ幼児は理解できなかったのか。その理由として挙げられる「乳児よりも幼児が劣るはずはなく、測定方法に問題があったり、課題の教示の仕方に問題があったりするために、幼児が間違えてしまうように「みえる」」というのは、保育の中にもある概念のような気がします。環境を通して、子どもたちがどう感じるか。その条件次第では、幼児になってから間違った選択をしてしまうというのもなんとなくわかる気がします。もう一つの見方の暗黙的なレベルというのも、何となく日本のあまりよくない保育のことを考えてしまいますね。

  9. 乳児と幼児の違いというのは簡単そうで実は簡単ではないのですかね。藤森先生は「乳児が生得的に持っている力は、その後の経験を積み重ねる中でより確実な能力となるだけでなく、消えていくものもあるのではないか」とあり、脳のメカニズムと同様に多くのことが脳内を占めているため、必要なものだけを残していくといったイメージになるのですかね。それが研究者としては失格というのも面白いですね。幼児の失敗には測定方法の失敗なのではという捉え方で乳児より幼児が劣るはずがないと考えるのですね。そもそもの考えが違うだけでもこんなにも大きく変わるのもすごいですね。

  10. 探索行動を指標に撮った実験結果、とても面白いですね。乳児ですら物体の背室を理解していたような行動を示すのに、幼児では理解していないような行動を取ったのですね。そして、先生の考察、なるほどと思いました。乳児が生得的に持っている力は、その後の経験を積み重ねる中でより確実な能力となるだけでなく、消えていくものもあるのではないか、成長するに従って、自分で色々とやれるようになるに従って、やってもらうための力が消滅することもあるのではとあります。守ってもらいながら行う段階を経て、一人で生きていけるようななる準備段階に入り、今まで必要であった知識や能力が変化しているということでしょうか。
    乳児にできて、幼児にできない、という研究結果が数多き報告されているとあります。他にもどんなものがあるのか、気になりました。

  11. 人の能力というのは面白いものですね。研究者の内容を見ていると「乳児よりも幼児が劣るはずがなく」という意識はとても強いように感じます。最後の森口氏の例はとてもわかりやすく感じます。また、幼児と大人でも同じことが言えるように思います。例えば「昔はピアノが弾けたけど、今は触っていないから弾けない」というのも一つあるように思います。その代わり、「思い出す」というのも同時にあると思いますし、必要でなければ消えていく。または「薄まっていく」というものもあると考えてしまいます。人の力や能力というのは非常に合理的に見えるのですが、しかし、説明できない非合理も同時にはらんでいますね。

  12. 乳児が神の子であったり、悟りの存在であったり、する非科学的な考えは当然科学者には受け入れられないでしょう。しかし何でしょうね、純粋さが失われ、四値理論から二値理論へ退化する過程、人間とは如何なる存在か、と再び哲学的命題に行き着くのです。一神教の神に近づく発達史観、最善性に向かうとする成長史観はやはり怪しい。「自分で色々とやれるようになるに従って、やってもらうための力が消滅することもあるのではないかと思うのです。」「このような考え方は、研究者としては失格」。まぁ、そうでしょうね。私などは歯牙にもかけてもらえないことを口走ってしまうのです。「危険だ」と諭されることがしばしば。学者ではなくて良かったです。危険であれ何であれ、気づいたことを表明する権利は私にもあると開き直っていますが。さて「カミロフスミス博士の表象書き換え理論」またまた新しい知見を得られそうな予感がします。「暗黙的なレベルと明示的なレベル」。暗黙と明示と区分けするところが西洋人ですね。まぁ、陰陽もそうか。字面だけで判断してはいけませんね。

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