乳児と幼児

スペルキ博士らは、一連の実験結果から乳児が様々な物理的知識を持っていると主張していますが、そのような結果は、スペルキ博士らとは異なる解釈もあるのではないか、もし仮にスペルキ博士らが言うように乳児が物理的な知識を持っているとしても、それらの能力を乳児が生得的に持っていることの証明にはならないのではないかという反論があるそうです。ほかにも、乳児と幼児で結果に食い違いが見られるということがあります。例えば、スペルキ博士らは、視線を計測することで、生後4ヶ月の乳児が物体の性質を理解していることを示しました。この実験では、乳児は馴化段階において、スクリーンの上方からボールを落とした後にスクリーンが取り払われ、ボールが地面に落ちている様子を観察します。これを見せられた後に、テスト段階では、床の上にもうひとつの水平面が用意され、馴化段階と同じようにボールがスクリーンの上方から落とされました。一致条件では、物理的法則に従って、スクリーンが取り払われた後も、ボールは水平面の上にあります。不一致条件では、ボールは水平面を通過して、床にあります。

この実験で、乳児は不一致条件に脱馴化しました。つまり、ボールが水平面を通過しないという物体の性質を理解していることになるのです。ところが、同じ性質を扱った実験を幼児の実験では、視線ではなく探索行動を指標とします。この場合、馴化段階の後に、テスト段階において水平面の上と下にドアを用意して、ボールがある位置を探索させるのです。物理法則を理解しているのであれば、水平面のドアを開けるはずです。ところが、2歳半の幼児は、水平面の下のドアを開けてしまったのです。幼児は、乳児ですら理解しているはずの物体の性質を、理解していないかのような行動を取ったのです。このような結果は、数多く報告されているそうです。

このような結果を見て、どう判断するでしょうか?私は、乳児が生得的に持っている力は、その後の経験を積み重ねる中でより確実な能力となるだけでなく、消えていくものもあるのではないかと思ってしまいます。成長するに従って、自分で色々とやれるようになるに従って、やってもらうための力が消滅することもあるのではないかと思うのです。しかし、このような考え方は、研究者としては失格のようです。研究者は、こう考えるようです。まず、幼児の研究方法に問題があると指摘します。つまり、前提に、乳児よりも幼児が劣るはずはなく、測定方法に問題があったり、課題の教示の仕方に問題があったりするために、幼児が間違えてしまうように「みえる」というものです。

もうひとつの見方として、知識の表象的レベルを区別するという考え方があるそうです。特に、カミロフスミス博士の、表象書き換え理論が有名だそうです。この理論では、表象を四つのレベルに分類しますが、大きくは暗黙的なレベルと明示的なレベルに分けます。暗黙的表象とは、最も原始的なレベルで、潜在的、無意識的なレベルの表象を指します。子どもはこの表象を利用できるものの、これを他の表象と関連づけたり、要素に分割したりすることができません。

森口は、これをピアノの演奏を例に挙げて説明しています。ある曲を何度も練習して譜面通りにピアノが弾けるようになったとします。このとき、最初から最後まで正しく演奏ができたとしても、その演奏をアレンジしたり、即興であるパートから別のパートに飛んだり組み合わせたりすることはできません。この曲の演奏は、知識として身につけてはいるものの、意識的に柔軟に利用できてはいません。これが暗黙的なレベルだと言います。

生まれながら

ゴブニック博士は、認知地図にヒントを得た因果地図という視点から説明しているそうです。私たちは脳内に地図を持っており、それは、この道を進めばどこへ着く、などの構造を持っています。この地図は、実際に道を歩くなどの経験(データ)の影響を受けて、変化します。私たちは、この脳内にある地図によって新しいプランを立てることもできるのです。これまでの経験で作成した地図から、今まで行ったことのない道であっても、こう進めばいいだろうと予想が立てられますし、その予想を実行に移すことで、自らの地図が正しいか否かを検証することもできます。

ゴブニック博士は、同様の構造が出来事の因果関係にも見られるとし、それを因果地図と呼んだのです。この地図に、ある事象と別の事象についての観察や経験から、それらの事象についての因果関係が書き込まれていきます。実際の世界では、様々な事象が複雑に絡み合っていますが、因果地図によって、これまで経験したことのない事象間の因果関係を推定することもできると言うのです。彼女は、因果地図と、認知科学や神経科学において近年注目を浴びているベイジアンネットワークを関連づけているそうです。ベイジアンネットワーク(Bayesian Network)とは、イギリスの確率論研究家トーマス・ベイズ(1710~1761)が提案したためにその名が付いています。それは、「原因」と「結果」の関係を複数組み合わせることにより、「原因」「結果」がお互いに影響を及ぼしながら発生する現象をネットワーク図と確率という形で可視化したものです。過去に発生した「原因」と「結果」の積み重ねを統計的に処理し、『望む「結果」に繋がる「原因」』や『ある「原因」から発生する「結果」』を、確率をもって予測する推論手法ともいうようです。

ブリケット探知機の研究では、ブロックAを載せるという事象と、ブロックBを載せるという事象があり、それらの事象と、機械が作動するという事象の因果関係を幼児が認知できるかを検討していることになるのです。この際に、それぞれの事象は、独立して他の事象に影響を及ぼしているかも知れませんし、相互に依存して影響を及ぼしているかも知れません。この研究で、与えられたデータから、幼児はどれが機械を作動させるブリケットであるか正しく答えることができたそうです。これらの研究から、幼児が単純な因果マップを持っており、因果関係を推定している可能性が示唆されたことになったのです。

このように、乳児は様々な知識を発達早期から持っており、論理的でもあることが示されました。しかし、これらの乳児の有能さを示す研究が増える中で、いくつかの問題が指摘されるようになったようです。一つは、研究の解釈の問題です。たとえば、スペルキ博士らは、一連の実験結果から乳児が様々な物理的知識を持っていると主張していますが、そのような結果は、スペルキ博士らとは異なる解釈もあるという問題です。二つ目は、仮にスペルキ博士らが言うように乳児が物理的な知識を持っているとしても、それらの能力を乳児が生得的に持っていることの証明にはならないことです。彼女らの研究の多くは、生後数ヶ月の乳児を対象にしたものであり、生得的とは言えないというのです。

生物心理学者ブランバーグ博士は、著書の中で、「生まれながらのものであるという生得論者の主張は、おもに生後3ヶ月を超える。つまり2000時間の生活経験を持つ幼児を使った研究に基づいているのである。」と皮肉っています。

統計する

バウアー博士によって乳幼児は論理的に仮説検証をしている可能性が示唆されたのですが、この研究は、残念ながら実証的な支持に乏しいと言われています。しかし、近年、別の形で、乳幼児はやはり論理的であるということを示している研究もあるそうです。これらの研究では、乳児は限られたサンプルから集団全体を正しく推論するなど、データから仮説を検証することのできる科学者であり、統計学者である可能性が示されているというのです。ここで、また新しい乳幼児の力が示されたのです。

8ヶ月の乳児に、箱の中に赤いボールと白いボールがある様子を見せます。箱は二つあり、ひとつの箱には赤いボールが20個、白いボールが5個入っており、もうひとつの箱は逆のパターンで、赤いボールが5個、白いボールが20個入っています。いずれの箱も乳児に中身を見せます。中身を見せたあと、一度箱をしまい、いずれかひとつの箱を乳児の前に提示します。しかし、この場合、中が見えないようになっているので、乳児はどちらの箱が提示されているかはわかりません。実験者は、箱の中から一つずつボールを取り出し、合計5個のボールを乳児の前に置きました、この際、取り出した5個のボールのうち、四つが赤く、一つが白だったとします。この後、テスト試行において、乳児は箱の中身を見せられます。

乳児は、赤いボールが多い箱と、白いボールが多い箱があることを知っています。ここでの仮説は、もし乳児が統計的な学習者であり、確率についての直感を持っているのであれば、箱が赤いボールばかりであれば、当然のことと思うはずです。逆に、箱の中身が白いボールばかりだったら、驚くはずです。この実験の結果、乳児は箱の中身が白いボールばかりだった場合に、注視時間が長くなりました。これらの結果から、素朴なレベルにおいて、乳児は統計的な推論ができる可能性が示されたのです。

また、ゴブニック博士の研究では、幼児が仮説を生成し、データに基づき要因間の因果関係を推定する科学者であることが示されているそうです。この研究は、ブリケット探知機という機械を使うそうです。ブリケットという言葉は発達心理学でよく用いられる無意味語だそうですが、この研究では、ある機械を作動させる物体を指しています。ある条件では、幼児は2種類のブロックを与えられ、ブロックAを載せると機械は作動し、ブロックBを載せると作動せず、ブロックAとB両方を載せると機械が作動するところを示しました。

また、別の条件では、ブロックAを載せると必ず機械は作動し、ブロックBを載せると最初機械は作動しませんが、2,3回目は作動しました。その後、幼児はどのブロックがブリケットであるかを問われます。この実験で、前者の条件では4歳児は目の前に起きた事象からブロックAがブリケットであり、後者の条件ではブロックAもBもブリケットだと反応したそうです。

この結果について、ゴブニック博士は、認知地図にヒントを得た因果地図という視点から説明しているそうです。この因果地図は、ウェルマン博士らの理論説と関連しており、なぜ子どもが理論を持てるようになるのかを説明しています。私たちは脳内に地図を持っており、それは、この道を進めばどこへ着く、などの構造を持っています。この地図は、実際に道を歩くなどの経験(データ)の影響を受けて、変化します。私たちは、この脳内にある地図によって新しいプランを立てることもできるのです。

論理的

乳幼児が論理的であるというバウアー博士の研究は、ピアジェ以降の時代に新しい研究の流れを作りました。ピアジェは、論理的な思考が個体発生の中でどのように形成されるかに関心を持っていたそうです。成人同様の抽象的な論理的思考が形成されるのは、ピアジェ理論においては青年期であると考えました。乳幼児は論理的な思考ができないということになります。ピアジェは特に、アリストテレス的な伝統論理学における基本的な法則がどのように獲得されるかに興味を持っていたようです。そこでの法則とは、同一律、無矛盾律、排中律の三つだそうですが、これは、古典的な思考の三原則のひとつに数えられるので、たぶん大学で論理学の単位を取ったときに習ったのでしょうが、全く覚えていません・このような言葉は初めて聞いた気がします。

森口は、こう説明しています。「同一律」とは、「AはAである」とか「BはBである」というように議論の一貫性を保証するものだと言います。「無矛盾律」とは、ある命題には矛盾が存在しないという法則であり、ある命題が同時に真かつ偽であり得ないというものです。「排中律」とは、ある命題は真か偽かどちらかのいずれであるかというものです。つまり、命題が真でも偽でもないという可能性を排除するものです。

ピアジェは、乳幼児は無矛盾律や排中律のような論理学的な法則を持たないと考えていました。乳幼児は、ある命題が「真か偽のいずれかである」という法則と、ある命題が「真かつ偽である」ことを受け入れると考えたのです。ピアジェは、大人では、ある命題は真か偽のいずれかである二値論理体系であるのに対して、乳幼児では、ある命題が真、偽、真か偽のいずれでもない、真かつ偽である、の四値論理体系であるという考えを持っていたのです。このようなピアジェの考えを推し進めて、乳幼児は論理的であると主張したのがバウアー博士なのです。

具体的な研究方法は、乳児のオペラント条件付けと呼ばれるものだそうです。オペラント条件付けとは、ある個体が自発的に生成した行動に強化刺激、たとえば、報酬や罰のような刺激を随伴させ、その行動の頻度を変容させる操作のことだそうです。ここでは、乳児の足に紐をくくりつけ、その紐のもう一方の端にモービルをつけます。発達心理学においてはありふれた実験だそうですが、乳児は誕生直後には自分の足の動きとその足につながったモービルとの関連を自覚できません。足を動かすという事象に、モービルが動くという事象が付随することを繰り返し経験することによって、両者の関連を学習していきます。

その詳しい実験方法とその結果は省きますが、バウアー博士は、乳児の論理体系は、「真でも偽でもない」という命題は、その後の経験によって真か偽か決定できますが、「真かつ偽である」という命題は、断定も否定も出来ず、その結果として他の命題とはなんら関連を持てません。その結果として、否定されることなくその影響は長期的に継続してしまうのであり、発達初期に「真かつ偽である」とされた命題は大人にあってもときおり影響を及ぼすというのです。彼が強調するのは、乳児の論理体系は大人とは異なるものの、それでいてやはり論理的であるということです。

これで、乳幼児は、論理的に仮説検証をしている可能性が示唆されたのです。

他の有力な理論

他の有力な理論の一つは、ウェルマン博士らによる「素朴理論」です。素朴理論とは、子どもの持つ知識が、断片の寄せ集めではなく、理論と呼べるほどに体制化されている様子のことを指すそうです。学校教育で教わったわけではなく、素朴に子どもが持っているという点が重要だと森口は言います。また、素朴理論は領域固有性をもち、その領域内において一貫した説明や予測ができるのだと言います。科学理論もそうですが、その領域内における現象を説明することと、新しい現象を予測することが理論の必須条件だと言います。そのため、理論で説明できない現象に出くわしたときに、理論を変更する必要が出てきます。難しくなりますが、すなわち、「学校教育で教わったわけではなく、素朴に子どもが持っているという理論」です。

現在一般的に受け入れられているのは、幼児期までには素朴心理学、素朴物理学を持ち、やや遅れて素朴生物学を持つというものだそうです。ウェルマン博士らは、生存及び日常生活における相互作用に必須である領域としてこの三つを挙げているそうです。これらの研究のルーツは、アニミズムのようなピアジェの研究にあるのです。違いは、ピアジェがこれらの知識が児童期後期になるまで獲得されないと考えていたのに対して、ウェルマン博士らは、幼児期には素朴理論を持ち合わせていると考えたということなのです。

ウェルマン博士らは、三つの子ども観を示しています。「大人のような子ども」観、「未熟な子ども」観、そして「異星人としての子ども」観です。彼らの考えでは、「大人のような子ども」観は生得説、「未熟な子ども」観は、古典的な経験説、「異星人としての子ども」観は、素朴理論に該当すると言います。この説明は、おもしろいですね。

では、生まれつき持っていると考える生得説と、この素朴理論の違いはどこにあるのでしょうか?森口は、こう説明します。「生得説の特徴は、生まれつき領域固有の認知システム(モジュール)を持つと考えます。」この考え方によれば、生後の経験はそれぞれの認識システムが発動するためのきっかけを与えるに過ぎず、経験の影響を軽視してしまうのです。

一方、素朴理論説は、経験をデータ収集の過程であると見なし、重要視します。生まれつき持ち合わせるのは、各領域における原初的な概念構造だと仮定しています。たとえば、生まれつき生物であるか無生物であるか、領域を見分けることができます。その概念構造に従ってそれぞれの領域に関する経験(データ)を集積し、データに因果関係な説明を与え、理論を構築するのです。データ量が大人とは異なるため、理論も大人とは異なります。結果として、大人の考えとは全く異なる異星人と見なされるというのです。私も現在では、その考え方に近いものがあります。

スペルキ博士の主張するような中核的な知識を乳児が早期から持ち、それを基に各領域の理論を形成していくというように、二つの理論は、必ずしも相互排他的なものではないと森口は言います。

彼は、バウアー博士が進めた乳幼児が論理的であるという研究を紹介しています。この研究は、追試が難しかったり、理論が先走りすぎて実験結果との整合性があまりとれていなかったりと、現在の評価は良いものばかりではないそうです。しかし、ピアジェ以降の時代に新しい研究の流れをつくったという点において、評価されるべきであろうと森口は考えています。

社会集団

スペルキ博士によると、各領域の知識は領域固有であり、他の領域とは干渉し合わないことだと言います。彼女らによると研究初期から主張していた基本的領域は、物体、数、他者(行為者)、幾何の四つと考えました。物体については、彼女が考えている接触に加えて、連続性と凝集成が含まれているようです。連続性とは、ある物体は、ひとつの連続した軌跡を動くものであり、途中その軌跡が途切れたりしないという原理のことです。凝集成とは、独立した物体はひとまとまりで動くものであり、ひとつの物体が途中で二つになったり、その逆になったりはしないという原理のこととしました。

数についても三つの原理があると考え、数概念のところでブログで紹介したような大まかな数認識、多様な対象に対して複数の感覚を用いて数を表象すること、加算や減産を用いて数を統合したり、比較したりすることが挙げられています。他者については、他者の行為は目標志向的であること、他者は随伴的かつ相互的に関わる性質を持つこと、他者の視線は多様な情報を含むことなどが挙げられています。幾何は、距離や角度などの空間把握についての原理です。乳児が対象を定位する際に実験者が乳児の方向感覚を失うように仕向けると、壁の色などの外部手がかりは用いず、対象が右にあったか左にあったかなどの幾何的、空間的情報を用いて再定位する傾向があるという原理のことだとしました。

このあたりのコアノレッジに加えて、2000年代半ばからは、新しく社会集団についての領域も含まれようとしています。これが、私の興味を引くところです。たとえば、3ヶ月の乳児は自分と同じ人種の顔を好んで見つめたり、5カ月児は自分の母語のアクセントで話していた人の顔を、別の言語や別のアクセントで話す人の顔よりも好んだりするなどの傾向があることがわかってきました。自分が所属する集団に対するこのような好みは、大人でも普遍的に見られることですが、生後数ヵ月の乳児にも同じ傾向が見られるということは大変驚くことです。このような乳児の傾向を森口は経験や学習である程度説明可能ではないかと考えているようですが、私は、スペルキらが考えているように、コアノレッジの領域として含めた方がいいと思っています。

その他にも、最近の研究では、食物は新しい領域に含めるべきかなどという研究も実施しているそうです。しかし、まだそれらを含めるべきかは議論があるそうですが、今後は、ますます領域は増えていくと予想されています。

スペルキ博士以外の研究者も、多少の違いはあるものの同じような考え方を持っているようです。ベイラージョン博士は、生得的な知識は仮定せず、生得的に領域固有の学習メカニズムがあると考えているようで、生得的な知識を想定するよりは受け入れやすいかもしれないと森口は言います。彼女らの主張は、経験や学習の影響を否定しているわけではなく、古い生得主義とは違っています。

また、スペルキ博士は、生得的な知識が様々なエラーを引き起こすと述べており、経験や学習、教育などによって新しい知識を取り入れていくことが重要であるということも主張しているそうです。たとえば、自分が所属する集団に対して過剰な好みを示せば、他集団に対して不寛容な人間になってしまう可能性があります。進化心理学者がしばしばこのような知識は、進化の過程では重要であったものの、現在の社会とは必ずしも相容れないケースがあるのです。まだ、このような生得性に関する議論は、乳児のデータをうまく説明できる一方で、非常に安易に生得性を持ち出していると批判されることもあるそうです。

中核

ケアリー博士は、幼児がアニミズム的思考を持つこと自体は認めて、このような幼児の言動は、彼らの生物学領域の知識が不足しているせいだと考えたのでした。ケアリー博士の議論では、幼児は、物理学知識(モノ)や心理学知識(ヒト)をある程度持っていますが、生物学的知識を充分に持っていないと考えたのです。森口は、例として自分のことをこのように表現しています。たとえるならば、「自分は、発達心理学の知識は持っていますが、素粒子論やリトアニアの歴史についての知識を持ち合わせていない」ようなものだと言うのです。ケアリー博士は、当初、生物学知識を獲得するのは10歳程度になってからだと考えていました。幼児には、生物学知識が不足しているため、豊富な知識を持っている心理学知識に従って考えてしまうと考え、それがアニメズム的思考だというわけだというのです。

ケアリー博士の考えは、波多野博士や稲垣博士などの研究者によって、反証されることになります。彼らによって、幼児でも生物学的知識を持っているということが示され、ケアリー博士の10歳までは生物学領域での思考が十分ではないという主張が反駁されたわけです。稲垣博士らは、幼児は生気論的因果という、活力やエネルギーを生成するために生物は食べ物を摂取するという考えを持つことを示しています。

この主張に対して、ケアリー博士が自分の主張にとって不利な証拠が提示されたことを受け、主張の一部を撤回したそうで、その行為は、ケアリー博士の偉大さを示していることであり、決してその評価を下げるものではありません。自分の主張を撤回するのは、実際に行なうことは難しく、森口は、世界の認知発達研究をリードしている方が、プライドもあったでしょうが、この行動は、研究者として学ぶべき行動であったと評価しています。

このように、乳幼児は物理学的知識、心理学的知識、生物学的知識を持っていることが明らかになっています。これらを踏まえて、いよいよ私が特に興味を持っている領域に触れたいと思います。興味を持っているということで、このブログでは、何度も登場した理論です。一つは、スペルキ博士らが提唱する「コアノレッジ理論」で、もうひとつが、ウェルマン博士らを中心として提唱されている「素朴理論」です。

「コアノレッジ」は、「中核となる知識」という意味で、乳児は、物体や数、他者との関係などのように、ヒトが生存する上で重要だと考えられる領域の中でも最も基礎的かつ中核的な部分を、,生得的もしくは必要最小限の経験で獲得できるように生まれてくるという考え方です。そして、持って生まれてきた基本的知識を基に、その後の知識の獲得や学習を進めていくと主張しています。彼女らによると、中核となる知識は、どのような経験を経ても決して変わることがありませんが、一方、その後積み上げられる知識は、概念変化を経験することもあると述べているのです。

ここで重要なのは、各領域の知識は領域固有であり、他の領域とは干渉し合わないことだと言います。たとえば、モノに関する知識は、ヒトにはあてはまりません。また、乳児が持っている中核的な知識は、他の知識に比べて最も本質的であり、その領域内における様々な事象にあてはまる確実性を持ちます。たとえば、物体について言えば、物体が別の物体に接触するとその物体の動きに影響を与えるという接触の原理は中核の知識です。しかし、重力は中核の知識ではありません。スペルキ博士によると、物体は知覚できる形で支えられていなくても、必ず下に落ちるとは限らないため、確実性が低いということなのです。

特定の領域

私はわりと早い時期から乳児が有能であり、自発的な活動をすることを色々なところから学びました。その研究が、「見守る保育」という保育のあり方を考えるの一つの根拠となっているのです。赤ちゃんは無能とまでは言わないまでも、未成熟で、大人の手を借りなければ、大人から世話をされなければ、大人が介入しなければならないということを基本とした乳児保育に疑問を持ったからです。どのようなことばで保育のあり方を表現すれば、乳児の有能さを認め、自発的な行動をすることを保障できるかと考えた結果、日本で大切にしてきた「見守っている」というスタンスを提案したのです。そして、2001年に、「やってあげる保育から見守る保育へ」という本を出版し、サブタイトルには、「子どもたちが自発的に活動できる保育環境とは」と名付けたこの本が、初めて「見守る」ということばを使った最初です。考えてみると、もう15年以上も前のことになります。

それ以後も、次々に乳児の有能さが研究されてきました。例えば、乳児の認知機能はどうなのでしょうか?この機能を理論的にはどのように説明されるのでしょうか?この点を考える上で重要なのが、哲学者フォーダー博士が提唱した「モジュール性」という概念ではないかと森口は言います。モジュールとは、特定の領域の問題のみ扱い、特定範囲の情報のみを用いた、それ自体独立した計算過程のことを指すそうです。この特定の領域の問題を領域固有性と言うそうです。

この領域固有性とは、「認知科学事典」によると、「思考あるいは認知が、様々な領域に区切られており、かつそれぞれが独自の特徴や構造を持つことを主張する」ものであり、「人は思考のための一般的なメカニズムを持つというよりも、対象の領域に応じた複数のメカニズムを持つ」ことを指します。これに対置される概念が領域一般性であり、「様々の領域を越えて適用される一般的な心的構造を想定する考え」のことを指します。

この説明は少し難しいので、森口はわかりやすく具体例を挙げています。「高校の科目には、物理や生物といった科目がありますが、生物が得意で物理が苦手な人もいれば、その逆の人もいます。こういう例を見ると、私たちの脳の中には、すべての科目の問題を解くための仕組みが備わっているという領域一般性という考え方よりは、物理を専門に解く仕組みや生物を専門に解く仕組みがそれぞれ備わっていて、それが寄せ集められていると考える方がいいのではないか。そして、進化の過程の中で、人が生存するために重要だった問題を解決するための仕組みがいくつか備わっているのではないか。」と、領域固有性という考え方を簡単に説明します。

ピアジェは、領域一般性の考えの代表者としてよく取り上げられるそうです。彼によれば、ある発達段階にいる子どもは、どの問題も同じように解決します。認知発達研究に領域固有性の考えを取り入れた初期の研究者は、ケアリー博士だと言われているそうです。彼女は特に、生物学的認識についての独自の理論を発展させました。ケアリー博士は、ピアジェのアニミズム的思考について論じています。ピアジェにとって、アニミズム的思考は、前操作期の子どもの自己中心性のあらわれだと考えていました。重要なのは、自己中心性は、生物的知識の領域に限らず、三つ山課題のような課題でも見られるという点です。つまり、様々な領域一般的な傾向です。一方、ケアリー博士は、幼児がアニミズム的思考を持つこと自体は認めて、このような幼児の言動は、彼らの生物学領域の知識が不足しているせいだと考えたのでした。

数から算数

乳児が二つのものと三つのものを区別できるかを検討したこんな研究があります。この研究では、二つのドットを乳児に提示し、それに馴化させた後に三つのドットを提示してみたのです。その結果、乳児は三つのドットに対して脱馴化したのです、この結果は、乳児にも数概念を持つ可能性があるという点で注目を集めたそうです。しかし、二つと三つのドットを区別することが数概念を持つことを意味するのかは疑問です。もしかしたら数ではなく、スクリーン上に何らかの変化が起きたために乳児が驚いたという可能性はあります。実際、別の研究グループは、乳児はスクリーン上に提示されたドットの数ではなく、ドットの輪郭の長さに脱馴化していると主張しているそうです。このような反論は、証拠を伴って行なわれる場合、科学的な研究においては重要なのです。最近は、乳幼児の有能生を強調しすぎるあまりに、反証論文が少なくなっているような気がしていると森口は言っています。

正確に数を数える能力とは別に、乳児にはおおまかに数を見積もるアナログ表象の能力もあると考えられています。たとえば、8個の飴と16個の飴を提示された場合に、大人はどちらが多いかを瞬時に見積もることができます。スペルキ博士らは、6ヶ月児が8個と16個の区別がつくこと、8個と12個の区別は難しいことを示したそうです。ある群の乳児は、スクリーン上で8個のドットを、別の群の乳児は16個のドットを見せられ、それに馴化します。その後、テスト試行で8個のドットか16個のドットを提示し、脱馴化するかどうかを検討したそうです。

この研究が重要なのは、様々な物理的変数で説明されないような工夫をしたということだと言います。スクリーンの明るさやドットがスクリーン上で占める密度などを統制したそうです。このような場合においても、乳児は8個と16個を区別できたそうです。8個と12個の区別は10ヶ月頃までにできるようです。このように、違いが4個以下の場合とそれ以上の場合で区別できる年齢が異なることから、数概念には4個以下の数を表象するシステムと4個以上の数を表象するシステムの二つがあるようです。

最後に森口は乳児の「算数」についてウィン博士の研究を紹介しています。彼女らは、乳児が「1+1=2」や「2-1=1」を理解しているかを検討したのです。5ヶ月児は演劇を見せられます。舞台上に一つ目のミッキーマウスが置かれ、スクリーンに隠されます。次に、スクリーンの後ろに二つ目のミッキーマウスが置かれます。この時点で、スクリーンの後ろに二つのミッキーマウスがいます。この様子を見せられた後に、乳児にテスト試行が与えられたのです。片方のテスト試行では、スクリーンが取り払われた後ミッキーマウスが二つおり、もう片方ではミッキーマウスひとつしかいません。

もし乳児が「1+1=2」であることを理解しているのであれば、ミッキーマウスが一つしかいない場合に驚くはずです。逆に乳児がディズニーランドについて熟知しており、ミッキーマウスが同時に二ついるはずがないことを知っていたら二つの方に驚くでしょう。結果としては、ミッキーマウスが一つしかいない場合に乳児は驚いたそうです。この結果から、乳児は「1+1=2」を理解しているようです。このように乳児が算数をできるとすれば、驚きです。この研究に対しても様々な批判がなされているのも事実だそうです。現在では、様々な研究が乳児の計数能力を示唆していることから、わずかながらも乳児には計数能力があると森口は言うのです。

物理から数

乳児は生後間もない時期から物体の連続性などの素朴物理学的な知識を持っていることが示されているそうです。また、ベイラージョン博士らのグループは、乳児の物体がものを支えること「支持」の理解についても検討を行なったそうです。乳児に、物体Aが物体Bの上に載っている状態を見せ、その後実験者が物体Aを動かします。可能事象では、物体Aを物体Bからとった後に、物体Bのところに戻します。不可能事象では、物体Aを物体Bから離れた場所に置くのですが、その場所には物体Aを支えるものはなく、空中に浮いた状態になります。可能事象と不可能事象の注視時間の差を測定し、統制条件の注視時間と比較してみたのです。統制条件では、可能事象および不可能事象と動きは同じでしたが、常に物体Aから手を離しません。何も不思議なことは起こりません。その結果、実験条件において、4・5ヶ月児の注視時間が長いことが示されたのです。

また、別の研究では、ある条件では、物体Bの上に物体Aが置かれ、物体Aを人差し指で押して動かし、物体Aの半分程度が物体Bに支えられている様子を乳児に見せたのです。もうひとつの条件では、同じように物体Aを動かすのですが、物体Aのほんの一部だけが物体Bに支えられています。重力を考慮すれば、物体Bが物体Aを支えるには、後者では不十分です。この結果、6・5ヶ月児は、後者の場面を見せられると注視時間が増加したそうです。これらの実験結果から、生後半年頃には、乳児は物体と物体の支持関係や重力などのような物理的な知識を獲得していることが示されたのです。

次に数の認識についてはどうでしょうか?ピアジェは、論理的思考ができるようにならないと、数概念は充分に獲得できないと考えていました。しかし、乳児研究の進展は、ピアジェのこの考えも覆したそうです。

まずは、乳児の数概念についてのある研究では、スクリーンと二つの物体が用いられました。まず、二つの物体は、スクリーンの後ろにあるので、乳児からは見えません。その後、物体Aがスクリーンの後ろから横に出てきて、またスクリーンの後ろに隠れます。この様子に乳児が飽きてしまったら、二つのテスト試行を行なってみたのです。一方では、スクリーンが取り払われると、二つの物体が現われました。もう一方は、スクリーンが取り払われると、物体がひとつしか現われませんでした。すると、12ヶ月児は物体がひとつしか現われない方に驚いたのです。乳児は、二つの物体が入った場所には、二つの物体があるはずだという数の同一性を保持しているということになると言うのです。

実は、このような実験結果については、私はずいぶん前から知っていました。2015年10月2日にブログに「赤ちゃんの物理学」というタイトルでこの内容を書いています。このときに、それよりも20年ほど前のディスカバリーチャンネルでいくつか見た記憶のことが書いてあります。そこには、「見つめる時間」についての研究から、まず赤ちゃんの「初歩の物理学」について、そして、次々と研究者たちはこの方法を使って、赤ちゃんの人間に関する予測、すなわち、「初歩の物理学」ならぬ「初歩の心理学」を調査し始めたことが書かれてあります。そのときのブログとダブりますが、まずは、乳児の数概念についての研究をもう一度振り返ってみます。