相互作用

シュルテン博士によって、心の特性が遺伝的に決まっているのか、環境によって決まるのかという問題から、どの程度環境的要因に由来し、どの程度遺伝的要因に由来するのか、という「輻輳説」が提案されました。この輻輳説は実証的に検証することが可能で、種々の心の特性を、遺伝的寄与率何%、環境的寄与率何%として明確に表現するそうです。例えば、知能の遺伝的寄与率は50~55%程度、環境の寄与率は45~50%程度といった具合だそうです。その方法として、一卵性双生児と二卵性双生児を比較検討した行動遺伝学手法を用いるようですが、すごいですね。こんなに明確に表わすことができるのですね。しかも、個人差がこんなにも微小とは驚きです。

さらに最近では、あらたな考え方が提唱されているようです。それは、遺伝と環境の相互作用を重視する「相互作用説」です。この立場によると、輻輳説のように遺伝と環境の影響を切り分けることはできず、実際には遺伝が環境に、また、環境が遺伝に影響を与え、相互作用する中で心の発達が生じると考えるというものです。発達心理学では、ピアジェの理論がこれに該当しますし、心理学者ゴットリーブ博士の理論もこの立場に位置すると言われています。

この立場からすると、遺伝か環境かという問い自体が無意味なものになります。ただし、この立場は、直感的にはよく理解できるものの、実証的な県境は難しく、その点を批判されることもあるそうです。以上にように、遺伝と環境の問題性をめぐる議論は、時代とともに変遷してきたようです。現在では、行動遺伝学が輻輳説を、発達心理学や生物学が相互作用説を検討しているのが現状だそうです。

では、日本における乳幼児観はどうだったのでしょうか?森口は、それを紹介しています。「赤い鳥」などの児童向け雑誌の発刊に見られるような子ども観については、教育学などで考察されていますし、扱う年齢が異なるために彼は、乳幼児についての考え方の推移を紹介しています。

民俗学の創始者である柳田国男は、座敷わらしについて報告したり、小児が持って生まれたものを尊重するべきだと、彼の著書「小さき者の聲」の中で述べたり、子どもについて多くの記述を残しています。その柳田が、「神にかわりてくる」のなかで「7歳までは神のうち」という考え方を示しています。こんな文章を森口は紹介しています。

「7歳になる迄は子供は神さまだと謂って居る地方があります。(中略)亡霊に対する畏怖最も強く、あらゆる方法を以て死人の再現を防がうとするやうな未開人でも、子供の霊だけには何等の戒慎をも必要とせず、寧ろ再び速かに生まれ直して来ることを願ひました。之とよく似た考へが精神生活の他の部分にもあったと見えまして、日本でも神さまに伴なふ古来の儀式にも、童兒でなければ勧められぬ色々の任務がありました。」

ここで見られるように、柳田は7歳までの子どもに神性を見出し、特別な価値を与えていると言います。この見方は、民俗学では古くからの乳幼児観として受け入れられており、一般にも広く受け入れられているように思えると森口は言います。この辺りのことは、以前のブログでも紹介しましたが、日本は世界でも珍しいくらいに子どもを大切に思い、育児は社会で担うものだという考え方が強い国民性だったような気がしています。

わが子の観察

ダーウィンは、「一人の子どもの伝記的素描」の中で、「いくつかの能力の発達時期は、子どもによって、それぞれかなり異なるだろうと思っている」と個人差の問題から始めています。この中でダーウィンは、乳児のさまざまな側面について記述していますが、運動面では、生後数日間に見られる息子の反射行動を書き留め、瞬きが生理的ものであると断じています。感覚・知覚能力については、「彼はすでに生後9日目にはろうそくを注視した。」と述べ、視覚や聴覚は比較的早期から原初的には機能していることを示唆しているのです。それに反し、観念や推論、記憶などの認知的な能力や道徳感情は、比較的発達が遅いことも認めています。

子どもがいないロックや5人の子どもができても、わが子を孤児院に入れていたルソーと違って、子どもにめろめろのダーウィンがわが子をよく観察すると、驚くほどいろいろなことを知っていて、いろいろなことができる姿を見ると、当然生まれつきそのような力を持っているだろうと考えたのは無理ないことでしょうね。保育園でも毎日赤ちゃんを見ていると、彼らの素晴らしい能力にびっくりすることが多くあります。しかし、ダーウィンがわが子から発見できなかったものは、子ども同士の関わりから見る能力の気がします。例えば、道徳感情は、他の子がいないと発揮できないからです。どうしても、大人を相手にする行為からしか判断できないのです。

こんな記述があります。「私が観察した限りにおいて、一種の実際的な理性作用があることを示す最初の行為は…彼が私の指に沿って手を下ろしていき、指先に至るとそれを口に入れるという行為である。これは、生後114日目のことであった。」

ダーウィンの記録は、乳幼児の心的能力のさまざまな側面に及んでいますが、断片的であり、「乳幼児観」と言えるほど系統的な記述ではありません。ただ、全体的には、ダーウィンも乳幼児の知的能力は低いものだと考えていたようだと森口は見ています。ロックやルソーとは異なり、ダーウィンの乳幼児についての記述は具体的なものですし、単純に印象だけで乳児を無能だと断じているわけではないのです。その意味ではダーウィンの乳幼児観とそれ以前の学者たちの考え方を同一視するのは適切ではないという指摘もあるようです。ですが、森口は、ダーウィンの記述は、乳幼児の本格的な研究とは大きく区別されると考えているようです。

遺伝と環境の問題は、20世紀初頭の心理学者シュルテン博士などにより、新しい段階に入ります。シュルテン博士によって、心の特性が遺伝的に決まっているのか、環境によって決まるのかという問題から、どの程度環境的要因に由来し、どの程度遺伝的要因に由来するのか、という問題に変わっていきました。これが、「輻輳説」と呼ばれているものです。この言葉は、保育士試験に出てくるようですが、今までのことを整理すると、三つの説になります。「生得説は、ゲゼルらが唱えた説で、遺伝説ともいう。発達の諸要因に関して、個体の発達は個体内の遺伝的素質によって規定されるという考え方。」「経験説は、ロックやワトソンらが唱え、環境論ともいい、発達の諸要因に関して、環境の影響が子どもの発達にとって、決定的な力を持っているという考え方。」そして、「輻輳説(ふくそうせつ)とは、シュテルン、ルクセンブルガーらが唱えた説で、人間の発達の諸要因は遺伝的要因のみによるものではなく、環境的要因のみによるものでもなく、両者の相互作用によるものであるということを提唱した。」ということになります。

 

 

 

心理的連続性

次世代に形質が遺伝し、次世代の個体がまた同じような形質を持つという進化論による考え方は、遺伝的要因の重要性を示唆することになり、フロイトやピアジェ、ボールドウィンといった心理学における偉大な先人たちに大きな影響を与えています。この進化論の基本的な考え方として、人間と他の動物の形質の連続性について森口はこのような考え方を記しています。

ダーウィンは、「人間の由来」のなかで、人間と他の動物の心理学的連続性について、たとえば、感情の表出や理性、想像力、そして道徳性に至るまで、さまざまな例を出しながら議論しているそうです。進化論以前は、最もポピュラーな世界観であった神が生命を創り出したという創造論は、ヒトと他の動物との間の非連続生を強調していました。進化論によって他の動物との連続性が科学的な視点から理解されると、他の動物との連続性からヒトの個体発生について考える空気ができ上がってきたのです。

進化論が発達心理学に与えた影響は、「個体発生は系統的発生を繰り返す」という生物学者ヘッケルの発生反復説に典型的に見られるそうです。ある個体が個体発生の中で遭遇する次の段階は、その祖先が系統発生の発展過程において通過した生体の段階を反復するという考え方です。ヘッケルが示したこの魅力的な考え方は浅はかな根拠の上に成立しており、現在ではヘッケルの説自体はほとんど受け入れられていないそうです。とはいえ、個体発生と系統発生の間に関連があるという考え方自体はやはり魅力的であり、今でもこの関連を探る試みがあるそうです。

ダーウィンも系統発生と個体発生の間に関連があると考えていたそうです。それは、彼の「先祖返り」に関する議論に見られるそうです。先祖返りとは、「生物が進化の過程で失った形質が子孫のある個体に偶然に出現する現象」とされています。ダーウィンは、ある形質の発達が阻害された場合に、その形質は当該の生物が別の種と枝分かれする前の共通祖先が持つ形質に類似することがあると言ったのです。その例として、ダーウィンは、ほ乳類の子宮や前頭骨を挙げているそうです。たとえば、何らかの影響で生じたヒトの子宮の奇形が、有袋類やげっ歯類等の動物における子宮と一部類似しているように見えることを指摘しています。ここで彼が挙げている先祖返りの例は、心理学的特性ではなく身体的な特性なのですが、彼が、個体発生と系統発生の間には関連が存在すると考えていたことはうかがい知ることができると森口は言っています。

こんなダーウィンですが、彼の乳幼児観はどのようであったかということを森口は考察しています。ダーウィンとその妻は、多くの子どもに恵まれたものの、長女を幼いうちに亡くし、その悲しみがその後の人生に影響を与えるなど、家族に対して深い愛情を示していたことがわかると言います。ダーウィンは、自分の子どもの行動を観察した短い論文を発表しているそうです。これは、彼の息子が生まれてから2年間にわたる観察記録に基づいたものであり、子どもの行動記録として、厳密さには欠けるものの一定の評価を受けているそうです。この論文の中で、ダーウィンは、進化論を提唱した彼らしく、「いくつかの能力の発達時期は、子どもによって、それぞれかなり異なるだろうと思っている」と個人差の問題から始めています。

進化論の影響

イギリスの経験主義者であるロックは、「白紙としての乳幼児」と捉え、知覚の始まりは観念の始まりであり、知覚経験が不足している乳幼児は、観念も不足していると考えたのです。彼の考えを乳幼児観という観点から捉えるならば、ロックは乳幼児が知識や思考、観念の不足した無能な存在だと見なしていたのです。

このロックが発達心理学の教科書に取り上げられるのに対して、フランスの哲学者であり、教育思想家であるルソーは、取り上げられないと森口は言います。教育学のあらゆる分野で近代子ども観の提唱者として取り上げられるのとは対照的だというのです。ルソーもロックと同じくらい、ヒトの発達について含蓄のある考察を行なっているのです。ただ、このルソーの位置づけは難しいところがあると言うのです。

ロックは子どもを「白紙」にたとえましたが、ルソーの子どもに対する見方は、「植物」にたとえられると言えると森口は言います。植物は、アスファルトの上にぽつんと置かれても、枯れてしまいます。成長のためには水や土などが欠かせません。とはいっても、水をやりすぎても、植物は枯れてしまうのです。ルソーの考えも同様で、子どもは、素晴らしい力を秘めた存在ではありますが、教育なしでは堕落した存在になり、教育しすぎても枯れてしまいます。

彼は、当時ヨーロッパに蔓延していた管理的な教育方法や過剰なまでの早期教育について反発を抱いていました。彼にとって、子どもは自分で生き抜く生命力を持った存在だと考えていたのです。教師や周りの大人がしなければならないのは、その成長を見守ることだと言うのです。その意味で、ルソーは生得性を強調した立場にあると見なされることもあります。

しかし彼は、生得性を協調する一方で、乳幼児に知識や観念があるとは見なしていなかったようです。ある架空の子どもの成長記録として書かれた彼の主著「エミール」の中で、乳幼児について書かれた部分を森口は紹介しています。

「わたしたちは学ぶ能力があるものとして生まれる。しかし、生まれたばかりの時は、なにひとつ知らない。なにひとつ認識しない。不完全な、半ば形作られた器官のうちに閉じ込められている魂は、自己が存在するという意識さえもたない。生まれたばかりの子どもの運動や叫び声は純粋に機械的なもので、認識と意思を欠いている。」

同様に、彼は子ども期を、理性が活動しない時期だと認識していたようで、乳児の知的能力については、全くと言っていいほどロマンを抱いていないようです。ルソーにとっても、乳幼児は無能な存在だったと森口は言うのです。彼の最も偉大な功績は、子どもの持つ価値や生命力を見出したことであり、子どもを研究対象として捉えるためのきっかけを作ったことではないかと森口は考えています。

このような、遺伝か環境かという議論、白紙論か生得的なものかという議論、そんな乳幼児観や発達心理学に大きく影響を与えたのが「進化論」です。その考え方とは、「生物にはさまざまな個体差があり、環境に適応できる個体は生存すること、生存した個体はその形質を遺伝によって子孫に残すこと」という考え方です。

経験主義

遺伝か環境かという議論において、アメリカの心理学者であるピンカー博士は、著書「人間の本性を考える」のなかで、現代人の多くは、研究者に限らず、基本的に環境的要因を強調する傾向にあり、遺伝的要因の重要性を述べたとたんに激しい反発を招くと嘆いているそうです。彼が心理学者であるということもあると思いますが、何をすべきかという議論をする上では、どうしても環境論を論じることが多くなると思います。しかし、日本でベストセラーになった橘 玲(著)の「言ってはいけない 残酷すぎる真実」では、ずいぶんと遺伝の影響が大きいことが書かれているような気がします。

ギリシア哲学の時代から、知識はどこから来るのかということが問題になっています。プラトンの「想起説」では、「以前から持っているその概念、そして生まれるときに忘れてしまうその概念を想起することにほかならない」と説いています。

近代では、「生まれながらにしてある観念や知識を備えている」と考える生得主義者の代表はフランスの哲学者デカルトだと言われています。彼は、「省察」の中で、神の概念について触れているそうです。彼は、「私自身の観念が私に生具するのと同じように、神の観念は私に生具する」と論じているそうです。ここで言う「生具する」とは生得的とほぼ同義だそうです。ただ、乳児が神という概念を持っているとは考えにくく、哲学者宮崎は、「生具することは、私たちが顕在的、意識的にその観念を持っていることを意味するわけではない」と言います。単純に言うと、意識的なレベルではなく、伏在的なレベルで神の観念を保有しているということなのです。つまり、どのような人間であれ、気づいていないだけで、神の概念は伏在的なレベルで保有しているのです。そして、乳幼児ですらこの観念を持っており、しかしながら、乳幼児はまだそれらの観念を伏在的な形でしか持っていないというのです。こんな古い時代の考え方ですが、現在でも発達心理学における知識や概念の暗黙的、明示的の区別と類似していると森口は言っています。

それに対応して、経験主義の代表は、ロックだと言われています。彼は、フランシス・ベーコンに端を発するイギリス経験主義の継承者と言われています。医学を学び、哲学や思想への道を歩みます。そして、ヒトの意識や自己、発達に強い関心を持っていたそうです。彼自身は結婚はせず、子どももいませんでしたが、子どもの教育には強い関心を持っており、「教育論」には具体的な教育方法まで書かれてあります。さらに彼は、「人間知性論」において、知識の起源を求め、生得的な心のあり方を強く否定し、乳幼児を「白紙」だと見なしていたのです。彼によれば、感覚に基づいた経験によって、知識は形成されていくとしました。赤色の物を見ることで、赤さという概念を獲得し、堅いものややわらかいものに触れることによって堅さという概念を獲得していくと考えました。

ちなみに、ロックの「タブラ・ラサ」という言葉が有名ですが、最初このことばを「白板」と訳していましたが、どうも彼は、「白紙」を意味したと最近は考えられています。彼は、「子どもがこの世に生まれたばかりの状態を注意深く考察する者は、子どもが将来の知識の材料になるような観念を多量に蓄えていると思う理由をまったく持たないだろう。子どもはそうした観念をだんだんに備えるようになるのである。」と述べています。

遺伝?環境?

赤ちゃんや子どもについてどのような存在であるかという言葉が、その時期をどのように考えていたかがわかります。例えば、「かわいい」「無邪気」「純粋無垢」、それらを少しネガティブな表現として、「なにもできない」「大人の手が必要」「無能」などがありますが、それを根底にして、育児、教育、指導、という言葉の意味、行為が議論されてきました。赤ちゃん、子どもに大人が「どうすればいいのか」、「何をすればいいのか」ということを考えるのです。

森口佑介は、「おさなごころを科学する」という本の中で、「進化する乳幼児観」を述べています。そのなかで、まず、第1章「無能は乳幼児」として、かつて乳幼児期をどのように捉えてきたかを紹介しています。

よく、教育は小学校に行くようになってから始まり、それまでの子どもは基本的に遊び、寝て、食べるというだけであるというように考える人を見かけます。実際に、乳幼児研究が本格化したのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、心理学や教育学の熱が高まってからのことです。それまでは、有能な学者たちが根拠もなく、主観的に乳幼児を議論していたそうです。そして、そこに見られるのが「乳幼児が無力であり、無能な存在である」という考え方だったのです。

ここで、一つの疑問がまず浮かびます。それは、教育の有効性です。どういうことかというと、何か事件を起こした人に対して、「仕方がないよ。生まれつきそうだから。」「遺伝的に備わっているから」ということがありますが、人の行動や行為がそれだけであれば、教育は無力でしょう。では、教育をすれば、すべての人がそうなるかというと、そうでもありません。また、直接的な関わりである教育からだけでなく、環境も影響してきます。

最近、興味深い海外の研修の動画を紹介されました。それは、男女の刷り込みについてです。よく私たちは、男の子は車とか電車が好きだけど、女の子は人形とかドレスとかが好きだと思っています。その動画は、女の子の赤ちゃんに男のような格好をさせ、男の子の赤ちゃんに女の子に見えるような格好をさせ、ベビーシッターに子どもの遊び相手をしてもらいます。すると、女の子でありながら男の子の格好をさせた子に対してベビーシッターは、無意識に男の子用のおもちゃを提供するのです。いろいろなおもちゃを手にする中、車とか電車が多いのです。しだいに、その子は自然にそれらのおもちゃで遊ぶことが多くなるのです。それは、逆でも同じようなことが見られました。もちろん、生まれつき車が好き、お人形が好きということもあるでしょうが、環境、大人の刷り込みがそのようにしたということもあるというような研究です。それは、たとえば、兄弟における上の子か下の子かによって性格が違うというのも、生まれつきがあるかも知れませんが、そのように育てられたからということもあるでしょう。

遺伝か環境か、またはそれを是正する教育の力はどのくらいの効力を持つのかはたぶん、永遠の課題かも知れません。もちろん、それぞれがそれぞれ影響をしていることは確かでしょうし、すべてが絡み合って影響していることは確かです。しかし、これらの問題は、さまざまな人の発達を考える上で、とても重要な事なのです。

情緒

今回の保育所保育指針の改訂作業中に、委員の皆さんに示された資料の一つに脳の機能拡大のグラフがあります。そのグラフにより、多くの機能は、3歳頃までの環境がその拡大に大きな影響があるとしているため、保育指針の中で今回、乳児保育、3歳未満児保育の充実が謳われることになったのです。このグラフは、先日の日経新聞にも掲載されていました。その中で、最も早い時期に拡大を始め、3歳頃になるとその拡大は止めてしまうものとして「Emotional Control」のグラフが示されています。これを、日経新聞では、「情緒」と訳されていました。それをその通りにとると、「赤ちゃんは1歳から3歳までは情緒に関する脳が育つ時期なので、やはり情緒を安定させることが必要だ。そのために、大人は、赤ちゃんにはゆったりと、丁寧に関わってあげる必要があるのだ」と思うでしょう。

指針の中に「情緒の安定」という養護面がしるされていますが、その一つに「子どもの欲求を適切に満たす」とあります。それは、とても大切なことですし、そうすることによって子どもの情緒を安定させることは保育の中で大切なことです。しかし、言葉は受け取り方によってずいぶんとその印象は変わります。その言葉の通りにとると、子どもの欲求を満たすということは、子どもが何かして欲しい、何かが欲しいと言ったらその欲求をかなえることと思います。それを、「子どもには我慢させたり、待たせたりしてはいけない」ととります。

私の園に見学に来た方の中に、昼食の時にみんな揃って「いただきます」をするために、待っている子どもたちを見て、「子どもを待たせることはよくないのではないか」という人がいます。保護者のなかでも、「待たせたらかわいそう」と言った人もいました。

「Emotional Control」とは、そういうことなのでしょうか?私は、ある意味では、全く逆の意味に捉えていました。「子どもの欲求を適切に満たす」という子どもへの対応は、しだいに自分で欲求をコントロールするようになるために行なう対応だと思っているのです。すなわち、子どもが自律するためには、大人が子どもに我慢させるのではなく、子どもが自分で我慢する力を付けていくということです。なぜなら、人間は社会を形成して生きていくためには、その力が必要だからです。

ここで、また日本語の難しいところです。「我慢」というと、堪え忍ぶというように捉える人が多くいます。「じっと我慢の子であった」というようなセリフがありましたが、それは、子どもがつらさに耐えている姿を表わしていました。そうではなく、自分で感情をコントロールすること、感情を抑制することなのです。その抑える力は、堪え忍ぶのではなく、私は、「理性」とか「人格」ではないかと思っているのです。また、それは、他者への共感であり、思いやりだと思っているのです。その力が、社会を形成する力となって、人類は生き延びてきた気がするのです。この力の芽生えが、一歳前後から起こるということなのだと思うのです。

よく、これから必要な力として、IQからEQ力ということが言われていますが、それは、Emortional Inteligenceを指します。ですから本当は、EI力と言うところを、IQに対比させてEQという言葉をつくったのです。この力がどのようなものであるかを見ても、Emotional Controlを「情緒」と訳すのは少しおかしいと思うのです。

メタ認知を高める

林にメタ認知についての話を聞いた小学校のある現職の教諭から林はこんな感想をもらったそうです。

「小学6年生の児童で、通常学級に在籍しているが、友だちとのトラブルが絶えない児童を担任したことがある。典型的なトラブルとしては、友だちからのからかいや冗談、軽口を真に受けて、怒ったり、落ち込んだりということが多かった、すなわち、この児童は友だちの行動の意図や裏側の気持ちなどをうまく想定できていない。心の理論がうまく機能していないと考えられる。この児童に対して、保護者と相談し、相手の意図やことばの裏を読み取ることが苦手なことを自覚させ、こういう場合には、こうしたほうがいい、こういう冗談にはこう返す手がある。嫌なことはすぐ相手に向けず、母親や先生に伝えるなどといった技術的なことを教えていった。うまくいった点、いかなかった点ともにあるが、今考えると、メタ認知的知識を獲得させたり、メタ認知的活動を促していたと思われる。このように学習に関する問題、生徒指導に関する問題とともに、心の理論をもとにした理解を活用した手立てが有効であると思われる。」

ここで大切なのは、「相手の意図やことばの裏を読み取ることが苦手なことを自覚させ」という点で、これは児童のメタ認知を促しています。また、「うまくいった点、いかなかった点」を考えると言うことは、この作業を通してリフレクションを行ない、この先生自身のメタ認知を促していることになります。それらにより、よりよい教育が生まれていくことにつながっていると言います。

林は、子どもにとってもおとなにとっても重要なこととして、メタ認知に焦点化し、社会的場面のみならず、多面的に検討しています。しかし、最後にもう1点補足しています。それは、「メタ認知ができても、正確に働くとは限らない」という点だと言います。社会的場面で言えば、「私は人の気持ちを読み取ることが得意だ」というメタ認知があっても、それは勘違いということもあるというのです。そのような人は、日常生活でも、誤った他者理解やおせっかいをするなどトラブルが絶えないのではないかと林は危惧します。単にメタ認知ができるだけでなく、正確に働かせることが大事なのだというのです、

メタ認知を高めることは、日常生活でも実践できると言います。林自身も、たとえ、メタ認知力が決して高くなくても、認知バイアスを学び。メタ認知を意識するようになって、同じミスを繰り返すことが減ったそうです。世の中の見え方も変わってきたように感じるそうです。

こうした日常生活でのメタ認知に関する意識の積み重ねが、子どもの社会性やコミュニケーション力を高め、大人自身もより良い指導を生み出すことにつながると言います。心の理論と実行機能の発達に加えて、メタ認知を育むことで、人間らしい社会性がめばえ、その場に応じた柔軟なコミュニケーション力も身についていくのだと林はまとめています。

心の理論、実行機能、メタ認知に関することの理解は、多くは小学生における課題に必要です。しかし、乳幼児期にも当てはまること、参考になることが多いと思います。そして、それは保護者対応にも、参考になります。

ことばでまとめる

社会的場面のみならず、教育場面では、大人が子どものメタ認知力を伸ばすには何ができるのでしょうか?第1は、「復習の機会を設ける」ことだと言います。そして、第2は、「まとめのことばを入れていく」ことだと言います。第3は、「新たに気づいてことや学んだことを思い出し、自分のことばでまとめてもらう」ことだと言います。これも、リフレクションの機会になり、学んだ内容が定着しやすくなると言われています。残念ながら、意図的に問われないと、人間はわざわざ深く考えようとはしない傾向があると言われているそうです。リフレクションの機会は、こうした受け身の姿勢からの脱却につながり、学んだ内容の定着に有益だと言います。他者の気持ちについても、子ども自身に振り返ってもらうことで、あらたな気づきが定着に向かうのだと言うのです。

第4に、小学校の中学年ぐらいからはグループディスカッションの機会を設けることも有益と考えられています。他者からの指摘で初めて自分の認知傾向に気づけることが多々ありますし、グループ内のほかのメンバーにもわかるように自分の意見を言わねばならないという制約が、他者の心の状態へ注意が向くきっかけとなり、心の理論の発達や適切な働かせ方を促すことになるのだと林は言います。

このように、子どものメタ認知を促す教育の工夫はいくつもあると言います。このような機会を設けていくことで、たとえば、「自分は他者の気持ちに敏感でない」「私は、他の人の考えまではわかるが、その人がまた別の人の気持ちを考えている場面を推測するのが苦手だ」それはすなわち「私は、二次の心の理論を働かせるのが苦手だ」ということになるのですが、その他にも「人間は、忙しいときは他者の視点に立ちにくいものだ」といったメタ認知的知識をたくさん蓄積していくことが必要です。

また、どのような場面で人は傷ついたり、喜んだりするのか、そしてそれを隠そうとするのか、さらには、「どのようなときに人は『さらに別の人が考えている』ことを考えながら行動を変えているのか」ということもしだいにわかるようになり、コミュニケーションが円滑になっていくと言うのです。

大切なことは、大人の側も「メタ認知を働かせることを意識する」ことだと言います。自分の頭の中の情報処理過程を言語化することも効果的ですし、大人自身の経験などもふまえながら、心の理論がうまく働いていなかった場合は、その場に応じた柔軟なコミュニケーションの効果的な方法、誤解しやすい傾向といったことを教示していくことも効果的だと考えられています。

小学6年生くらいになると、心の理論がかなり発達して、冗談やからかいも高度化し、ときには悪質になると林は言います。その一方で、心の理論の発達が遅れ、ついて行けない子どももいることから、トラブルも多くなります。そんなときには、子どもたちには「相手の意図やことばの裏を読み取ることが苦手なことを自覚させ」るというように、メタ認知を促すほか、大人も「うまくいった点、いかなかった点を考える」という作業をすることで、リフレクションにより、自身のメタ認知も促すことが効果的であると言います。そんな例として、林は、このような話をしたあとの、ある小学校の現職の先生からの感想を提示しています。

振り返り

メタ認知力を高めるために「ディスカッション」が必要です。もうひとつは、「リフレクション」で、振り返りの機会を設けることだと言います。2011年にNHKで「コロンビア白熱教室」という番組が放映されていました。その中で、シーナ・アイエンガー教授が「選択日記」をつけることを勧めていたそうです。私たちの日々は選択の連続です。その選択はうまくいくこともあれば、後悔することもたくさんあります。アイエンガー教授は、「よりよい選択をするため」に、選択をしたときにどんな思考プロセスを経たか、何がうまくいき、何がうまくいかなかったのかを書き出すことを勧めていたそうです。

この「日記」をつけるという方法は有益であると林は言います。何がうまくいき、何がうまくいかなかったのかを振り返ることは、まさにリフレクションにあたるからです。選択に限らず、自分の考えや気づいたこと、経験したことなどを書き出し、振り返ることで、失敗しても別の方法を試すことができ、メタ認知の鍛錬につながります。たとえば、コミュニケーションに食い違いが生じたとき、なぜうまくいかなかったのかをリフレクションすることで、たとえば、伝達意図の表し方に問題はなかったのかと振り返ることをすることによって、コミュニケーション力が伸びていくと林は考えています。

このようにメタ認知力はとても大切なことですが、では社会的場面のみならず、教育場面では、大人が子どものメタ認知力を伸ばすには何ができるのでしょうか?

第1は、「復習の機会を設ける」ことだそうです。たとえば、大学の授業は、週1回90分」が基本ですが、林は自らの授業で、毎回、最初の10分ほどを1週間前の前回の要点の復習に当てているそうです。大学といえども、学生が自発的に復習するとは限らないからだそうです。そこで、学生はこの最初の10分で、1週間前の授業で学習したことのうち、「自分が覚えていること」と「覚えていないこと」を意識することになると言うのです。これは、メタ認知的活動の活性化につながると考えています。さらに、1週間も経つと忘れていることが多いため、この復習を通して、「人間の記憶はなんと弱いものだろう」と知ってもらう絶好の機会にもなると言います。この事実に学生からは「愕然とした」という感想を頻繁に聞くそうです。

これは、「人間は忘れやすい」という認知の一般的傾向の知識を持つことになり、メタ認知的知識の育成につながると言います。このように、わずかな時間の復習であっても、リフレクションの機会となり、その効果は大きく有効であると言います。以前のブログで、子どもに「他者の気持ちに気づかせる」という指導を「繰り返し行なう」という地道な教育が重要であるということを紹介しましたが、そこでは、この復習が子どものメタ認知を促すという点からも支持できるのではないかと林は言います。

第2は、「まとめのことばを入れていく」ことだと言います。たとえば、学校の授業でも「ここまでいいかな?」「ここまでをおさらいするね」といったことばをはさむことで、子どもたちはただ聞いている状態からそれまでに学んだ内容を振り返る状態に切り替わり、リフレクションが促されると言います。それが、メタ認知的活動の活性化なのです。それにより、自分が理解していることと理解できていないことの違いに注意が向くのです。こうしたちょっとした言葉が、子どもを「認知モード」から「メタ認知モード」に切り替え、効果を生み出すというのです。このことは、社会的場面について指導する場合も同様であると言います。