ハイトが言うように道徳は学習されるものであるとすると、教育の面はますます大事なりますが、とくに幼児期から児童期の始め頃は、発達の個人差も大きいので、標準的な誤信念課題に正答できる年齢であっても、実際の対人場面ではほかの子どもがどう感じるかをあまり意識できない子どもがいても、不思議ではないということには気をつけなければなりません。
ドイツで、子どもの写真を見せて、「このときのこの子の気持ちはどうかな?」とか「この子はどんな気持ちなのかな?」と子どもに問うようなカードが用意されているのを見たことがあります。道徳における幼児期の教育では、このような方法が提案されています。Aさんに悪いことをしてしまったBさんがいた場合、Bさんに対して「Aちゃんはどんな気持ちかな?」といった「他者の気持ちに気づかせる」(意識させる)という指導を「繰り返し行なう」という地道なことが重要とわかってくると言うのです。こうした過程こそが、理性的な道徳的判断を育成するうえで鍵の一つになると言うのです。行動の前に「もし、自分が……したら、Bちゃんは悲しむはずだ」といった思考ができると、直感に左右される行動を制御できるようになるからだと言います。
さらに、知識状態による道徳的判断の発達は、意図による道徳的判断の発達より遅れることから、他者の心の状態がわかるようになる、つまり心の理論の基礎が発達したからといって、道徳的判断がすべての面で大人に近づくというわけでないことがわかります。幼児は悪いことをした人の「知識状態(悪いことにつながる情報を知っている / 知らない)」を理解しているにもかかわらず、それを道徳的判断の手がかりとして使うわけではないようです。知識状態は結果の予見可能性につながる大きなポイントにもかかわらず、7歳頃までの子どもは、道徳的判断においてこの予見可能性には注意が向きにくいと言います。
これらの知見から言えることとして、林は、幼児期(から児童期の始め頃)の子どもは、大人とは少し違った道徳的判断の基準があるそうだと言います。このことをふまえると、大人が子どもに注意する場面で、大人一般の基準を暗黙の前提とするのは不適切な場合もあるということになると言うのです。たとえば、意図と知識状態では違いがあることから、幼児に対して「わざとやったのね」と注意すれば伝わりやすいですが、「誰のか知っていてやったのね」と注意しても、なぜ悪いのかということがすぐには理解しにくいという可能性も考えられるのではないかと林は言います。これは、幼児教育の実践の場での指導にあらたなヒントになりそうだと彼は言うのです。
幼小連携が現在課題となっています。それは、道徳的判断においても言えます。児童期は、乳児から幼児期に基礎が出来ていく心の理論が、社会的な場面で状況に応じて柔軟に機能するようになっていく重要な時期だということです。また、大人の違った道徳的判断の基準に向けて、児童期の教育は、社会性に近づくうえで橋渡しとなる大切な時期だということを認識して欲しいと思います。
そのために、二つのポイントが重要だと言います。第1は、二次の心の理論の発達と、それに関連する社会性の発達だと言います。たとえば、悪意のないうそを理解したり、うそと冗談を区別できたりするようになります。これらは、周りの状況を的確に読み取って対応できていくことにもなるので、場に応じてコミュニケーションをする人間らしい能力の発達にもつながると言います。それは、よく言うような「空気を読む」という力にかかわっていくようです。