2017年ドイツ報告4

ドイツで、空港から出ると、まず車で走るのが高速道路であるアウトバーンです。「アウト」は英語の「オート」に相当し、「バーン」は人や馬も歩くような道ではない「専用路」という意味です。路線番号は、東西方向が偶数、南北方向が奇数に割り振られています。それらは日本の高速道路と違ってすべて無料です。そこを走っていると、脇を猛スピードで追い抜いていく車に出会います。どのくらいのスピードが出ているのでしょうか?制限速度はどのくらいかというと、その表示はLEDライトで点灯されています。そこには120Kとありました。しかし、それはこの道路での制限速度ではなく、その付近のカーブや工事中、また天気のよってかわっていました。すると、ある場所は何も点灯されていませんでした。それは、その辺りは制限速度がないということです。本人が、自分で安全確保ができる速度はどのくらいかで走ればいいということです。いわゆる自己責任です。そのためか、ほとんど軽自動車は見かけません。車体が弱いからだと言います。

それは喫煙にたいしても同じような考え方が見えます。ドイツでは、アメリカやカナダ、オーストラリアなどに比べて、タバコを吸う人は多い気がします。喫煙することは、本人が非常なリスクを負ってまでも吸うのであれば、自己責任でどうぞ!というわけです。しかし、受動喫煙は危険です。ですから、受動喫煙の危険がある場所、たとえば室内、屋根がかかっている空間などはすべて禁煙です。分煙ではなく、すべて禁煙です。駅に向かうと、近くになって軒下に入るところに黄色い線が引いてあって、そこから中はすべて禁煙です。

昨年、ドイツ研修ではじめて聞いた言葉に「parizipation(パルティツィパツィオーン)」があります。その発音のおもしろさに塾生みんなが何度も言っていましたが「参画」という言葉です。昨年聞いたところによると、ミュンヘン市が、1997年、子どもの権利条約の採択を受けて、市長はじめ、子どもに関するすべての行政職員、ボランティアみんなで検討して取り組むことに決めた課題です。この参画に取り組むようになった経緯としては、子どもにとって最も効果的な学びととは、子どもに興味関心を持たせることにあり、そこには個人によっての個性があるために、参画という考え方をすることになったと言います。今年見学した園は、どの園ともこの参画が重点項目のひとつでした。

1日目の午前中に見学した園では、それと関連して、インクルヅィオーン(インクルージョン)保育です。それによって、子どもたちは、「どこで」「だれと」「なにを」「どのように」遊ぶかを自分で考えるということでした。しかし、それは個人主義とも自主自立とは少し違うと言います。一人一人を尊重し、その子が持っている個性、意志、特性、強みを模索することで、好きな遊びを保障し、次第に言葉で表現できるように引き出していきます。

二日目の午前中に訪れた園でも、「参画」を「ここで過ごす子どもたちにとって、最も大切なもの」として位置づけられています。それは、ここで過ごす子どもたちにとって、最も大切なものとし、ここの社会で、考えを深めながら過ごすため、子どもたちはいろいろな希望を持っていますが、様々な問題に直面するときに、どうすればいいのか?そんなときに道を自ら切り開いていく手伝いを保育者はしていきます。たとえば、状況を話し合ったり、子ども同士で意見交換をしたりします。トラブルにたいしても、和解だけでなく、解決策を見つけていくことが子どもにとっての民主主義なのです。

このような育ちが、自己責任を取れる大人になっていくのでしょうか。

2017年ドイツ報告3

ミュンヘン空港で荷物を受け取り、毎年通訳にお願いしている田中さんと落ち合った後まずすることは、空港内にあるスーパーで買い物をします。それは、まずミネラルウォーターを買うためです。本当は、ドイツの水道水は世界でも1,2を争うほど安全で、おいしく、ミュンヘン市のあるバイエルン州は特にアルプスの天然水なので、とてもおいしいと言われています。ですから、その水で造られるビールがおいしいのでしょう。しかし、ドイツの水道水は、ほとんどの地域で硬水です。日本の水道水は軟水です。硬水にはカルシウムとマグネシウムが多く含まれています。硬水自体が健康に良くないという医学的証拠はありませんが、軟水は胃腸にやさしく、硬度の高い硬水は、便を緩くする作用がありますので、何となく日本人には慎重になってミネラルウォーターを買うことを勧めるのです。また、クセのない日本の軟水は、日本人の身体や舌になれ親しんだ水ですので、ドイツの水道水に違和感を覚える人もいます。

ということで、飲み水としてミネラルウォーターを買うことになるのですが、もちろん日本の「いろはす」や「南アルプスの天然水」などがいいのですが、外国にはありませんので、買うとしたらアメリカの水である「クリスタルカイザー」か、「ボルヴィック」がいいと言われています。また外国のものは、ほとんど炭酸入りが多いので、日本のようにごくごく飲むにはガスなしを買う方がいいようです。しかし、飲み水はいいのですが、硬水でせっけんを使うと泡立ちが悪くなり、特に日本のアルカリ性せっけんは使いにくくなると言われています。

そんな買い物の目的の他、スーパーに寄るもうひとつ理由があります。多くの人は、お金をドイツの通貨であるユーロに換金してきます。しかし、換金は札になります。いちばん小さな単位でも5ユーロです。しかし、着いた次の日の朝最初に支払うのが、ホテルのベッドメイキングに払うチップを枕の上に置くことです。それは1か2ユーロ払うのですがそれはコインなのです。そのコインを取得するためにもスーパーに寄るのです。しかし、その後こちらのスーパーではたったペットボトル1本買うだけでもカード支払いにすることが多いです。また、ドイツでは、瓶やペットボトルを買うときにデポジット料金が上乗せされていて、飲み終わった容器を店に持って行くとデポジット料金が返却される仕組みがあります。このシステムで、容器の回収率を上げて、確実に容器をリサイクルしようとしています。スーパーなどに設置されているデポジット回収マシンにペットボトルを入れて、ボタンを押すと、受領証が出てきます。これをレジに持っていくと、会計時にデポジット料金を差し引いてくれます。

いよいよ外に出てまず多くの人がびっくりするのがたくさん並んだタクシー乗り場です。そのタクシーのほとんどはベンツだからです。ドイツは、日本と並ぶ車メーカー王国です。フォルクスワーゲン、アウディ、BMW、メルセデス・ベンツなどで、高速道路を走る車はほとんどこれらの車で、こちらでは日本での高級車は国産車です。とくにBMWはバイエルン州の略ですので、ミュンヘンに本社があります。

そしてバスに乗り込み高速を走ってホテルに向かうことになるのですが、その走りを見ると、ドイツでの保育のある部分が納得いくことがあります。それをドイツ研修の初日の園見学で確認することになりました。

2017年ドイツ報告2

私が主催するドイツ研修は、観光がほとんどなく、毎日勉強ばかりしているという印象があります。私としては、せっかくですから、十分と保育について学んできたほうがいいと思っています。観光であれば、今はいくらでも安いツアーが企画されていますので、そんなときには仕事のことなど忘れて、存分に楽しめばいいと思っています。しかし、私は、学ぶ楽しさもあると思っています。新しいことを知る喜び、同じところを見つけた喜び、心に何となく描いていたことにヒントを得られた喜び、そんな楽しさをあります。

しかし、保育という仕事は、ただ机に向かって、本を読んで学ぶことではなく、子どもについて、保育についてだけから学ぶものではありません。さまざまな体験、人との触れ合い、違う国の文化、歴史、風土を知ること、それも大切です。ということで、毎年のドイツ報告とは少し違った、今年は、一見保育に関係のないように見えることも報告してみようと思っています。

現在は、ミュンヘンまでは羽田空港から直行便が出ています。航空会社はルフトハンザが主ですが、ANAとの共同便もあります。最初に行き始めた頃は、成田発で、フランクフルト乗り換えでしたが、今は便利になりました。羽田空港に集合したあとは、参加者みんなで結団式を行ないます。そこでは、再度自己紹介と、事務連絡が中心ですが、まだまだお互いがぎこちなく、緊張しています。私も、何度もドイツに行っているのもかかわらず、今でも緊張します。あと、あまり大きな声では言えませんが、どうも私は人の顔と名前を覚えるのが苦手で、いつ会っても初対面ですし、名前も1週間も一緒にいながら帰りまで名前も定かではなく、申し訳なく思っています。

それからチェックインですが、国内線同様、荷物を置いて金属探知のゲートをくぐるのですが、今年は、ゲートの中で横を向いて、その前に書かれたある絵の通りに両手を挙げて、写します。その映像がゲートから出るとあり、不審なところに印がついていて、そこを触って確かめます。私としては、そんな検査ははじめてでしたが、へんに疑われるよりは、よほどその方がいいと思いました。その後、出国手続きで、パスポートの判を押してもらいます。そして、搭乗口へ。

ドイツまでは12時間あまりのフライトですが、映画だけでも133番組、その他にも音楽、テレビ番組、スポーツなどが見放題ですので、以前よりは過ごしやすくなりました。

ドイツについて一番緊張するのが、入国審査です。パスポートを見せて判を押してもらうのですが、たまに英語で、何しに来たのかとか、どこに泊まるのかとか、どのくらい滞在するのかを聞かれると、英語がよくわからなかったり、よく聞き取れなかったりと、変な答えをしてしまうことがあります。しかも、仏頂面をして聞くので、なんだか怒られているようで、余計緊張します。

外へ出てほっと一息。ミュンヘン空港は、床以外はすべてガラスで造られていると言われていますが、日照時間が短いということで、日照へのあこがれだそうです。そして、空港もそうですが、全体的に部屋は薄暗く、最初ドイツの人に「ことばのやり取りには光はいらない」と言われてかっこいいと思ったのですが、青い目は、暗闇には強いようです。その分、光には弱いようですが。ただ、この季節、緯度が高いこともあって、夜9時頃まで外は明るいです。

2017年ドイツ報告1

ドイツ研修もずいぶんと長くなりました。今年で16回目です。最初のきっかけは、ある保育雑誌に掲載されていた「ドイツ報告」でした。その記事を読んだときに、私は衝撃を受けました。それは、目からうろこの保育ではなく、私が目指していた保育とほとんど同じだったからです。私が保育の世界に入ってから10数年経っていた頃でした。その保育は、「子どもの主体性」と「子どもの自発性」を中心に置いたものでした。それは、常に子どもの視点に戻って、子ども側からの保育を考え始めていた頃でした。

子どもたちは、園に何を求めてくるのでしょうか?親が働いて、育児ができないから、他の人に育児してもらうためでしょうか?世話をしてもらうためでしょうか?そこには、どうしても子どもたちからすると、受け身的な、やってもらうという感覚が強くなります。

では、小学校のように何かを教わるためでしょうか?その何かとは何なのでしょうか?もちろん、小学校のような教科ではありませんが、それに代わるものが幼児期では何なのでしょうか?また、それをどのように学ぶのでしょうか?小学校の授業のように、椅子に座って、机に向かって、教科書を開いて、先生の話を聞いて学ぶのでしょうか?

私は、この世界に入るまでは、まったく保育の世界は知りませんでした。と同時に、勉強もしませんでした。ただ、建築を専攻していた大学の時に、学校建築を卒論に選び、その後小学校の資格を取り、実際に小学校に勤め、1年生を担任する中でどのような力を持って小学校に入学すると、そのあと学力が伸びていくのか、また、自分らしい生き方をしていけるのかを実感しつつあったのです。また、当時、第一期の校内暴力と言われていたような中学生が荒れていた時期に、彼らの面倒を見ていた中から、幼児期の大切さを感じていたのです。そこで、前述のような疑問を持ったのです。

大学時代、卒論のために1年生から6年生までの小学生に算数を教える塾のアルバイトをしていました。そこに通ってくる子どもたちは義務ではありませんから、単純ですが、「楽しく」なければきません。だからといって、成果があがらなければ保護者はよこしません。また、子どもたちを静かに、授業に集中させようと思ったときに、子どもたちを叱ったたり、注意したりしてはやはり来なくなってしまいます。ただでさえ、勉強などは楽しくないものですから。

こんな経験から、子どもたちの「遊び」を通して、「自発的」にものごとに取組み、「主体的」に学ぶことの大切さを知っていったのです。これらは、幼児教育の原理原則ですが、多くの日本の保育ではそれが感じられなかったところ、ドイツ報告にはそれが中心の保育が報告されていたのです。もしかしたら、私が進めようとして取り組んでいる保育と似たものがドイツの保育の中にあるのではないだろうかと思ったら、実際に行きたくなったのです。それまでも、私は、アメリカを始め、イギリス、フランス、オランダ、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、イタリア、中国、香港(当時はまだイギリス領)の保育は見ていたにもかかわらず、何となく他人事でした。すごいとは思いましたが、それは部分的な環境が中心で、その基本となる理念にはあまり気がつきませんでした。しかし、ドイツ報告を読んだときには、自分でもそのような保育を進めていたために、多分心にぴーんときたのでしょう。

私の思考

ピアジェは子どもの道徳的な考え方は年齢とともに変化すると考えました。また、この考えを「ハインツのジレンマ」という葛藤状況を含む話を使って、より客観的に調べる方法を生み出したのがコールバーグです。それによって、3水準(6段階)からなる道徳性の発達段階を考案しました。はじめは、罰を避けるような「前慣習的水準」で、次に社会的ルールを意識した「慣習的水準」、その後に、自らが定義した道徳的価値によって判断する「脱慣習的水準」へと発達するとされます。この研究により、理性を働かせた道徳性の発達の様子がわかりました。このように幼児期から児童期にかけて、言葉や論理的思考が大きく発達するとともに、子どもの道徳的判断も変化を遂げることが長い間知られていたのです。

しかし、最近の研究では、道徳的判断において直感が最初にあることが示唆され、発達心理学でもこの傾向は同様だそうです。最近の説として、非常に興味深いものだあります。直感となると、幼児期から大人と同じような形で存在している可能性もありますし、もしかしたら、乳幼児の方が、大人より直感力に優れている可能性もあるからです。また、最近の教育の中で、道徳が強化され、その教育の重要性が叫ばれていることに対して、少し違和感を感じます。これらのことについては、来週にしようと思っています。

私の思考は、年間どうも周期があるようです。不思議なことですが、よくブログのテーマも、数年前の同じ日のあたりに、同じ事を考えていることが多い気がします。過去のブログにコメントを入れている人は気づかれると思いますが、不思議ですね。2015年10月24日のブログに、こんなことが書かれてあります。

「明日から、毎年恒例のドイツ研修が始まります。そこで、その間はドイツ報告をしますので、しばらく、道徳の起源についてはお休みをします。私が、現在ブログで取り上げているのは、ポール・ブルーム著の「ジャスト・ベイビー ―赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源―」という本を読み進めて行きながら、間に現場から見た感想を少し入れたり、解説をしたりしています。」

実は、今年も明日から、ドイツ研修が始まるのです。ですから、今年のブログにも、こんなことを書かなくてはなりません。「ドイツ研修の間はドイツ報告をしますので、しばらく、道徳の起源についてはお休みをします。」ということです。2年前のドイツ研修は10月ですから、別に季節に関係はありません。また、数日と違わずに、まったく同じ日であることにびっくりします。

今年のドイツ研修は、とても面白い、興味深いことが待っているようです。それは、ここ数年、エキサイティングなことが起きています。一昨年は、ミュンヘン市が、毎年訪れるということで、外国の人ははじめて訪れたという、郊外にある子どもの宿泊施設へ連れて行ってもらったのです。そして、そこで、明るい寮母さん自ら調理したおいしい昼食を頂きました。昨年は、やはり郊外にある、今度は市の職員さんたちセミナーハウスへ招待されました。そこでは、バーベキュー大会、近くの湖が見下ろせる山へのハイキング、さまざまな体験をさせてもらいました。

今年はどんなハプニングが用意されているでしょうか?

発達研究

林は、道徳についての印象をこう語ります。「道徳という言葉を聞くと、何か深い精神性と客観的な思考の上にある崇高なもののようにも感じられますが、カルネアデスの板やタイタニックの例からもわかるように、私たちの道徳的な認識には、論理的な判断や理性によるものだけでなく、それを超えた何かもありそうです。」と語っています。

ここで林は、以前ブログでも取り上げた「トロッコ問題」を例に出しています。道徳を論じる上で、その議論は外せないようです。これらの例からも、私たちの心の中では、論理的思考や理性が道徳的判断を生むものではなく、まず直観的判断があり、その後に、それを正当化する道徳的な理由付けが生み出されると、近年の心理学では考えられているそうです。社会心理学者のハイトは、この2つのプロセスを「象」(直感的で自動的なプロセス)と「乗り手」(理性にコントロールされたプロセス)という比喩で巧妙に表現しているそうです。乗り手(論理的思考)は、役に立つ助言者ではあっても、先頭に立って引っ張り、ものごとを引き起こす力を持っているのは、あくまで象(感情をともなった直感)のほうというわけです。

最近の研究は、面白いですね。最終的に「直感」であるとすることは、やはり人間であると言うことなのかもしれません。では、このような直感は、何歳頃から見られると林は言うのでしょうか?これまで、それをテーマにさまざまな研究が成されてきました。私のブログでもポール・ブルーム著の「ジャスト・ベイビー ―赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源―」という本に沿って考察してきました。この本では、「赤ちゃんは自己中心的で、両親や環境から社会性や道徳を学んでいく」と長年信じられてきたこの通念に、発達心理学者である著者は真っ向から反対し、赤ちゃんは既に善悪を判断する能力を持っているといっています。この本は2015年5月に発売されています。そこで、今年の2月に発行された林の「子どもの社会的な心の発達」という本の中では、その後に研究が参考にされているのか、また、その後新しい知見が発表されているのか、また、違う視点(心の理論)からは、どのように道徳を捉えているのかを知りたくて、彼の本を読んでみようと思ったのです。

もちろん、林もその本からずいぶんと影響を受けているでしょうし、参考にしているでしょう。しかし、最終的に道徳とは直感であるという知見には驚きました。プラトンなど有名な哲学者が、道徳の背後に意識的な理性の働きを考えていたからです。そして私たちが、道徳という言葉を聞くと深い精神性と客観的な思考の上にある崇高なものを感じるように、心理学でも長い間、道徳性は理性によるもので、経験や学習の影響の大切さが主張されてきたのです。それは、道徳に限らず、研究とは、客観性を必要するものだということを聞かされてきたのです。

道徳的判断の発達研究もピアジェに始まると言われています。ピアジェの典型的な研究方法は、2つの似た話を子どもたちに聞かせるものです。道徳的判断では、「男の子がドアの後ろにコップがあるのを知らないままドアを開けてコップを15個割ってしまった」という話と、「男の子が、高い戸棚の中のジャムをこっそり食べようとして、無理に取ろうとした際に、コップを1個割ってしまった」という話を比較させます。すると、7歳頃までは最初の方が悪いという判断が多く、その後は後半のほうが悪いと判断し、「結果論的判断」から「動機論的判断」へと判断基準が変わったそうです。このように、子どもの道徳的な考え方は年齢とともに変化するとピアジェは考えたのです。

道徳的判断

正直さを促進させるには、ポジティブな結果となる話が有効であることが追認されているそうですが、私もそれは実験結果からではありませんが、日頃から子どもと接する中で思うところです。ずいぶん前のことになるかも知れませんが、ブログでも取り上げましたが、私の子どもが幼児だった頃、お話でもネガティブなものは好みませんでした。お話の中で名作と言われるものは、意外とネガティブな結果のものが多くあります。うそをついたことでネガティブな結果となる話で思い出すのが、私の子どもが嫌いだった「ごんぎつね」です。教科書にも取り上げられるほどの名作で、大人にとってはしみじみとした哀感のある話ですが、わが子にとっては、その結末は許せなかったようです。

うそや表情研究の第1人者であるエクマンは「ハロー効果」の影響に気をつけるべきであると示唆しているそうです。ハロー効果とは、ある特性が優れていると、ほかの特性も優れているととらえてしまう人間の一般的な認知の傾向を指すそうです。この作用はネガティブな方向にも働くそうです。つまり、ふだんの素行が悪い子どもは、うそをついていなくてもハロー効果の影響でうそつきであると誤解されることがよくあるそうです。これは、大人が子どもを育てる際に普段から心に留めておきたい重要なポイントだと林は言います。このように、大人が人間の認知的な傾向を認知する、つまりメタ認知することで、子どもの社会性を育む際に生かせる点があるようです。

うそと欺きについてのさまざまな研究を知ってくると、その発達における教育的意味を感じてきます。しかし、林は、他者にうそをつかれたり、欺かれたりしたままでは不利益をこうむりますので、他者の行為の善悪を適切に考える道徳的判断も必要になると考えています。他者を欺くことと、その行為を考える道徳的判断は「裏表の関係」にあるということで、道徳の発達について考察する必要があるというのです。

林は、「道徳」ということを考える上で、「カルネアデスの板」という、古代ギリシャの哲学者カルネアデスが提起した問題を紹介しています。

船が難破して二人の船員が波間に漂っているところへ1枚の板が流れてきたものの、その板は二人をともに支えるだけの浮力がないため、一人の船員が助かりたい一心から、もう一人を溺死させて生き残ったというものです。

ここでの問題は、「その生存者が許されるかどうか」ということです。もし感情を排して冷徹かつ「論理的」に考えれば、二人ともが死んでしまうのを避けて一人でも生き残ったことは、功利主義的に考えれば望ましいことだったといえるかもしれないと林は言います。功利主義とは、哲学者ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉で代表されるように、善悪は社会全体の効用や公益性などによって決定されるとする考え方です。刑法でも、「カルネアデスの板」のような場合、「緊急避難」の規定で、一定の要件を満たせば罰しないとされているそうです。しかし、私たちの多くは、他人を犠牲にして自分だけ助かろうとすることに、道徳的によくないものを「直感的」に感じてしまうと林は言います。豪華客船タイタニックの沈没を描いた映画「タイタニック」では、ジャックは愛するローズを救い、自分は海に沈んでいくという痛ましくも感動的なシーンがありました。私たちがローズの立場になれば、生き残ってしまった自分は本当に良かったのかと心の中で自問しながら生きることになるかもしれないと林は言います。

ポジティブな結果

簡単に「うそ」といってもさまざまなレベルがあり、その発達は、心の理論の発達や実行機能の発達など社会を形成するために必要な要素もあるようです。だからといって、子どもに「うそをつきなさい」とは言えませんし、うそをつくのを見逃していいわけではありません。林は、子どものうその発達に対して、大人の側はどう理解し、どのように教育していくことが望ましいのかという疑問について提案しています。

リーらは、古典的寓話を題材にして、子どものうそを低減させる、正直さを促進するには、何が有効かを検討しているそうです。この実験では、「誘惑に対する抵抗」で、のぞき見した3~7歳の子どもに次の四つの寓話のいずれかを聞かせてみたそうです。一つ目は「ピノキオ」で、うそをつくことで鼻が伸びてしまうというネガティブな結果となる話です。二つ目は「オオカミ少年」で、「オオカミが来た」とうそを何度もつくことで信じてもらえなくなり、本当にオオカミが来たときに襲われてしまうという、これもネガティブな結果となる話です。三つ目は、「ワシントンと桜の木」で、ジョージ・ワシントンが幼い頃、父の大事な桜の木を切ってしまったことを正直に告白したところ、その正直さを褒められたというポジティブな話です。四つ目は「ウサギとカメ」で、これはうそや正直さとは関係がない話であり、結果を比較するためのコントロール群として設定されました。その結果、のぞき見を認めた、うそをつかなかった子どもの割合は、「ワシントンと桜の木」を聞かされた群でのみ、コントロール群より高かったそうです。このことから、子どものうそを低減させる、すなわち正直さを促進するには、ポジティブな結果となるお話が有効であることが示唆されたのです。

この実験には続きがあるそうです。もしかすると、ジョージ・ワシントンという偉人の話だった影響があるのかもしれないと考えられるので、リーらは、話の最後を改変して、うそをついたことでネガティブな結果となる「ネガティブなワシントンと桜の木」の話を用意して、二つ目の実験を行なったそうです。その結果、「ネガティブなワシントンと桜の木」を聞かされた群で、のぞき見を認めた子どもの割合は、実験1のコントロール群や「ピノキオ」、「オオカミ少年」を聞かされた群と同程度に過ぎなかったそうです。したがって、子どものうそを低減させる、すなわち正直さを促進させるには、ポジティブな結果となる話が有効であることが追認されたそうです。

この結果は、教育的に重要な示唆を含んでいると考えられます。というのも、不正直さという負の面を強調するより、正直さという正の面を強調する方がよいわけですが、実際には、親や教師は逆のことをしがちで、正直さをほめるよりは、欺きを罰しがちです。しかし、幼い子どものうそとして最も典型的で、頻繁に見られるのが、「罰を避けるためのうそ」です。子どもはネガティブなことに対して敏感なので、それを強調する道徳的な話は、幼児の正直さを促進する上で十分ではないかもしれないと林は言います。親や教師は、「うそをついたことを罰する」ことをしがちですが、「正直さをほめる」ことが効果的なのです。また、「のぞき見をしていたとしても怒らないから、本当のことを言ってくれるとうれしいな」などと、罰の免除と「良い子」に戻る方法の両方を提示することも有効と言われています。このように教育の工夫は、たくさん考えられるようです。

うその発達

二次のレベルで心の状態を読み取ることで、うそと冗談の区別が出来るようです。たとえば、男の子がお母さんに「僕は大そうじをしたよ!と言ったときに、お母さんは部屋が散らかったままであることを「『知らない』と思って」発言したのであれば、「うそ」ですが、「『知っている』と思って」発言したとすれば、「(自虐的な)冗談」と言えます。実際に、この二つのお話を1年生から6年生に聞かせると、3年生頃である8~9歳頃からうそと冗談を区別することが正確になり、二次の心の理論に関わる質問や二次の誤信念課題の成績とも関連したそうです。

このように、児童期は心の理論のさらなる発達に伴って、表出ルールやホワイトライなど、他者を気遣ったうそが発達し、人は状況に応じて選択的に感情を隠したり表出したりすることの理解も進んでいくようです。こうしたことから、場の空気を読む能力が高まり、コミュニケーションも洗練されると言います。つまり、社会性が深まり、大人に近づいていくと考えられています。

このようなうそと欺きの発達について、心の理論や実行機能といった認知的な視点からの研究として、タルワーとリーの論文とリーカムの論文から、子どものうそが三つのレベルで発達していくという知見を発表しています。

まず、リーカムの用語で「レベル1」、タルワーとリーによる用語では「最初のうそ」と呼ばれるレベルがあります。それは、罰を避けようとして、事実と違う発言をするうそで、3歳頃から見られるようです。例えば、「箱の中を見たの?」と聞かれると「見ていない」と否認するようになりますが、この年齢の子どもでは、一貫させることが困難なようです。続けて「箱の中は何かな?」と聞くと、「おもちゃ」と正直に答えてしまいます。また、心の理論の発達も不十分なため、意図的なうそをつかれても、相手が欺こうとしていることに気づけず、事実と違う発話は間違いであると考えるようです。

これは、よく保育の中で見られますね。そんなときには、むきにならずに、心の理論を獲得していくための発達過程であることを理解しておく必要がありそうですね。つくづく大人の理論で子どもの発言を判断してはいけないということを感じます。

次は「レベル2」とか「第2のうそ」と呼ばれるものです。4~6歳頃が該当するようです。このレベルへの移行は、一次の心の理論の発達が大きな鍵を握るそうです。相手の心の状態に注意が向き、誤信念を生み出す意図的なうそがつけるようになるそうです。「うそ泣き」という興味深い行動も示唆されているそうです。また、虚偽の発話がわざとでないかも区別できるようになるそうです。ですから、うそを勘違いと識別できるそうですが、この時期の子どものうその定義は大人と違うことがあり、勘違いの状況もうそと見なす興味深い現象も見られると言います。

その次が「レベル3」とか「第3のうそ」と言われるレベルです。7~8歳頃から見られるそうです。うそが洗練され、一貫性のあるうそもつけるようになります。このレベルへの移行は、二次の心の理論の発達が鍵を握るようです。自分の心の状態が相手にどう思われているかまで考慮できるようになり、ホワイトライのように他者を気遣う「向社会的なうそ」もつけるようになります。また、「人は状況に応じて選択的に感情を隠してうそをついたり、本心を表出したりする」ことを理解し始め、うそと冗談や皮肉の区別といった高度な理解もできるようになると言います。

隠したり表出したり

一度ついたうそがばれないためには、その後もつじつまを合わせる必要があり、ここで、二次の心の理論がとても重要になります。「『自分が知っていること』を相手は知っている」かどうかも理解できるようになり、裏の裏をかくことができるからだと言うのです。実際、タルワーらは、6~11歳の子どもを対象に、最初についたうそとその後の発話を一貫させ、つじつまを合わせられるかどうかを検討しているそうです。この研究によると、こうしたつじつまを合わせる能力は、年齢が増すとともに高まっています。さらに、この能力が高まるほど、二次の誤信念課題の成績もよいことがわかっています。つまり、二次の心の理論の発達は、「うそをつく」だけでなく、「うまくうそをつく」ためにも重要なのだと林は言います。

また、自閉症のB君ができなかったことですが、うそには他者を気遣う向社会的なものもあると言います。たとえば、好みでないプレゼントをもらったときのように、落胆や悲しみの表情を出さずに笑顔で応対すべき場合があります。このように相手の感情を傷つけないように社会的慣習に従って表情を示すことを「表象ルール」と呼ぶそうですが、これも二次の心の理論に関連するのです。

私は、この表象ルールが行なわれるのは、人工知能ではなかなか難しいことだと思っています。しかも、それは社会的慣習に従うというように、社会によって若干違う気がしています。その社会は、日本においてより重要視されてきた気がします。それが、「もてなし」という態度に表れていると思っているので、日本の文化の誇れるひとつに私は入れてあるのです。とくに、「相手の感情を傷つけないように表情を示す」というのは、いかにも日本的ですね。

それに対して、表情でなく言葉による表出は、英語で「ホワイトライ(white lie)」というように、欧米では、言葉によることが多い気がします。表情、言葉、どちらにしても、「悪意のないうそ」といったことで、ともに心の理論と関連します。

しかし、本当の感情を偽ることが常に有益というわけではないと林は言います。たとえば、他者が余計なことばかりをして、迷惑をかけられている場合もあります。このような場合、相手に相手自身の行動が無神経であることに気づいてもらうために、「あえて本当の感情を表出する」場合もあると言います。つまり、「人は状況に応じて選択的に感情を隠したり、表出したりする」のですが、このことを子どもが何歳頃から理解しているのでしょう。

林は、この問題について実験してみたようです。すると、6~7歳頃までは、人は状況に関係なく本心を示すと考えている傾向があるようだということがわかったそうです。しかし、二次の心の理論の発達とともに、8~9歳頃には、「人は状況に応じて選択的に感情を隠したり、表出したりする」ことを理解し、児童期後期の10~11歳頃までにこうした理解が明確になることが明らかになったそうです。

また、二次の心の理論に発達によって、うそと冗談、あるいはうそと皮肉のような微妙なニュアンスの区別もできるようになったそうです。しかし、どちらも勘違いではなく、意図的に事実と違うことを言っているので、一次のレベルでは両者を区別できないそうです。二次のレベルで心の状態を読み取ることで、うそと冗談の区別が出来るそうです。