宗教の意味

ダンバーは人類の歴史の中で、なぜ宗教が生まれ、発達していったかという説明をしています。しかし、彼は、それはあくまで彼の立場からの考察であって、宗教側の言い分とは一致しないことをことわっています。宗教の起源については、神は歴史の中でその瞬間を選んで、人間の前に姿を現したという主張あるだろうということはわかっていると言います。そのなかにも多少の真実が含まれているかもしれないとは言いつつ、説得力があるとは思えないと言います。なぜもっと早く、あるいはもっと遅くではないのか?という疑問が湧いてくるというのです。そして、なぜほかの動物ではなく、人間だったのか?と彼は言います。

もし宗教に人智を超越した特別な何かがあるのなら、人間の認知能力がそれを支えられるぐらい発達したことや、集団規模が限界を突き抜けるには、宗教も認知能力も必要だったことは、偶然と呼ぶにはあまりにできすぎていると言うのです。宗教は個人レベルはもちろん、親密なグループでも何らかの意味がありそうだと言います。しかし、宗教が本当に威力を発揮するのは、きめ細かなコミュニティづくりにおいてではないかと考えているようです。おかしくなるのは、宗教の役割を国家が引き受けたり、宗教組織が巨大化しすぎたときだと言います。宗教の心理的な影響力はとても強く、どんなに合理的な思考の人も、宗教がからむと頑迷な暴徒に変貌すると言います。昔から切れ者の政治家たちは、コミュニティを征服するために宗教のそんな心理メカニズムをうまく利用してきたと言うのです。

そういう意味では、マルクスはやはり正しかったと言います。宗教は人民のアヘンという有名な言葉は、エンドルフィンの働きを考えるとまさに文字通りの意味になると言います。本人はそこまで考えていなかったでしょうが、そして同時に、宗教は小さな社会の接着剤と看破したデュルケームも正しかったと言います。宗教はコミュニティの共通ルールにみんなを従わせるために発達し、脳内アヘンを分泌させる儀式という手段を活用してきたと言います。歌ったり祈ったりして脳がエンドルフィンで満たさせると、息が詰まる人間関係のうっぷんが晴れますし、自分も伝統的な小さなコミュニティの一員だと実感できるのだというのです。

しかし、宗教のいちばんの効果は、認知面にあるのではないか、儀式の中身に疑問を抱かずにすむのはそのためではないか、と彼は考えています。化学物質の単純なトリックに過ぎないことなのに、深遠で謎に満ちた真理に到達したと思い込めることで、人間関係もまた簡単には割り切れない奥深いものになると言います。もともと単純だったプロセスも、進化がせっせと活用して磨きをかけることで、人間ならではの精緻を極めた認知や行動へと発展していったのです。宗教もその一例と言えるかもしれないと言います。となると、進化はやはり驚異そのものですし、進化にまつわるさまざまなプロセスを見出したダーウィンは天才だったのだとダンバーは再確認しています。

宗教とは、何を指しているかということは、ダンバーの考察を読んでいると、私たちが第一印象としてイメージするものとは違い、もっと大きく捉えたものであることに気がつきます。それは、集団をまとめるために、その集団における共通理念ということもできますし、単なる集団を社会として機能するための手段ともいえるかも知れません。そう考えると、その発生には、最初は意図性がなく、必然であるかもしれないと思えてきます。