なぜ宗教が生まれたのか

ダンバーは、笑い、音楽、宗教、この三つがあったからこそ、人類社会はここまで発展することができたと考えているようです。では、宗教の起源はいつなのでしょうか?人々はいつから信仰心を持つようになったのでしょうか?宗教が存在したと彼らが断定できるのは、副葬品といった明白な証拠がある場合にかぎられるそうです。副葬品は、死後の世界が存在するという信念の現れだからです。しかし、この問題を考える別の切り口もないではないとダンバーは言います。信仰心が芽生えるためには、精神的にどんな素地が必要なのかということから考えます。「それが神の思し召しです」と言えるのは、心の理論があればこそですが、それだけでは宗教にはなりません。

3次志向意識水準まで発達すると、「神は私たちに正しくあれと望んでいる」という表現になります。これが個人レベル信仰だと彼は考えています。そこへ別の誰かを引き込もうと思ったら、相手の心理的な立場を意識して、「神は私たちに正しくあれと望んでおられるのですよ」と語りかけなくてはならないと言います。こうして4次志向意識水準に達したところで、宗教は社会的なものになるといいます。ただこの段階では、相手はこちらの主張を聞きおけばよいだけで、それ以上のことは求められないと言います。5次志向意識水準、つまり「神は私たちに正しきあれと望んでおられるのを、私たちは承知しているはずです」となると、相手がイエスと答えれば、すなわち信念を共有していることになると言います。ここでは、はじめて宗教は共有されるのだというのです。

宗教を共有するには5次志向意識水準までは不可欠なのですが、ほとんどの人にとって志向意識水準はそこまでが限界なのです。これもまた偶然ではないと言います。人間の営みは、道具づくりにしても、複雑に絡み合った社会で地雷を避けながら渡りあるくにしても、だいたい2次か3次の志向意識水準までで片がつくとダンバーは言います。さらに二段階上までの志向意識水準を編み出すのは、並大抵の知的労力ではなかっただろうと推測できます。進化は無駄を嫌うと言われています。ですから私たちに備わっているものには、必ずれっきとした存在理由があります。高度な志向意識水準を私たちが持っている理由として考えられるのは、いまのところ宗教しかないと言います。そう考えると、信仰心の芽生えについても答えが見えてくるのではないかとダンバーは言うのです。

以前のブログで、志向意識水準のレベルは前頭葉の容量に比例するということを紹介しました。とすると、絶滅した祖先たちについても、頭骨から脳全体の大きさがわかれば、どこまで志向意識水準を持てたのか推測できるはずだとダンバーは考えます。

200万年前ころに登場したホモ・エレクトスは、3次志向意識水準まで発揮していたと考えられています。自分のいる世界について、個人レベルの信念や感想を持つことができたはずだです。4次志向意識水準が可能になったのは、50万年前の古代型ホモ・サピエンスからだろうとダンバーは言います。ただ5次志向意識水準になると、20万年前の現生人類の出現まで待たなければならないと言います。これだけ早ければ、いまの人類がみんなこの特徴を持っていると判断して差し支えないと彼は言います、そしておもしろいことに、50万年前、20万年前という化石人類の二つの節目は、社会集団の規模が大きく膨らんだ時期と一致するそうです。とくに20万年前には、それまで120人程度だった集団の構成員が、現在と同じ150人へと急速に増えていったのだそうです。