宗教と進化

ロビン・ダンバーは、オックスフォード大学の認知・進化人類学研究所所長であり、進化人類学教授です。そこで、彼は宗教を進化生物学的にどのような意味を持っているかを考察しています。しかし、彼からすると信仰心は実に厄介なもので、物理法則に矛盾する逸話も頭から信じて疑わないところがあるからです。彼は、なぜ私たちは、証明など望むべくのない話を頭から信じてしまうのか?と疑問を持ちます。偉大なる常識人である哲学者カール・ポッパーのように、これはもう科学で探求する問題ではないと割り切るのもありだろうと考えます。

しかし、彼は、それに安住するのではなく、あえて切り込む試みを進化生物学の領域で始めようとしています。それは、宗教を信じることは人間の普遍的な行為であり、しかも犠牲や損失を伴うことがけっこう多く、人間の進化を考える上で、いつまでも添え物扱いするわけに行かなくなってきたからだと言います。宗教的な行為は、ぱっと見には生物学的な見解と矛盾しまくっているように思われます。例えば、還元主義者に言わせると、私たちは利己的な遺伝子の乗りものに過ぎないわけですが、宗教に帰依する者は見知らぬ者にほどこしを与え、自分の意志よりコミュニティの利益を優先し、果ては喜んで殉教までします。

しかし、進化生物学者の前に大きな壁が立ちはだかります。それは、宗教には機能的にどんな利点があるかということでした。進化によって新たな特徴が出現したとき、研究者が知りたいのはその使い道です。その特徴を備えたことで、個体がどれほど生き残りに有利になり、自分の遺伝子を次世代に残せるのかです。宗教に関しては、そのあたりが必ずしもはっきりしません。殉教とか、フランシスコ会の清貧思想などは進化面からすると、明らかに不適応です。そのため進化心理学や認知人類学の研究者の中には、宗教は適応度を最大化するために発達した認知能力の副産物であって、それ自体に利点はないと結論づける者もいるそうです。

一般的な用途のために進化した認知メカニズムに、宗教がおぶさっているという指摘は当たっているかもしれないとダンバーは言います。しかしだからといって、宗教的な行動は生物的に何の機能も持たない、あるいは不適応だと決めつけるのはどうかと考えています。殉教のコストみたいな計算はしたくないと断わっておきながら、そもそもあれほど時間と費用が投じられてきた営みが、何かの副産物として出てきたとは考えられないと言います。それを進化面の役割なし、で済ませるのはあまりにおめでたいと言います。人間はそこまで愚かではないはずだと言います。この問題に鼻を突っ込み、宗教不適応説をしたり顔で主張するのは、進化生物学者ではなく、認知科学者や心理学者たちだと言うのです。彼らの進化論理解は、十分でないと言わざるを得ないと言います。相手を選んで交尾し、子どもをつくるという個体の直接的な利益でしかものを考えていないのだというのです。

しかし、社会性を持つ霊長類、とりわけ人間にとって、話はそれほど単純なものではないと言います。生存や生殖において私たちが直面する問題は、目的達成のために協力するなど社会とのかかわりを抜きにして解決できないものが多いのです。しかもそうした社会的な解決策を実行するには、コミュニティをしっかりまとめるといった前段階の作業が不可欠なのです。