真の教育

ダンバーの故国イギリスでは、大学の理科系専攻の志望者は、ここ10年ほど減るいっぽうで、数年前に化学と生物学で調べてみたら、このままのペースで減ると、2030年には志望者がゼロになるという結果が出たそうです。しかし、ダンバーがほんとうに憂えているのはそこではないと言います。科学に限らず、歴史学や政治学でも、その分野の専門的な知識を詰め込むだけが教育ではないと考えているからです。いかに考え、評価するか、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか、その訓練を積ませるのが教育だと思っているのです。それは、銀行経営者から政治家、ジャーナリスト、地方公務員まで、すべての人が仕事をする上で使う技術だというのです。教育には、興味をかきたてることが不可欠だと言います。ところがいまは、小学校から大学までのどこかで、知識を掘り下げる興奮と喜びが失われてしまっているということを憂えているというのです。それをあとから悔やんでも後の祭りなのだと警告しています。

何年か前にBBCが行なった世論調査で、イギリス人の80%は、科学が重要だと考えているという結果が出たそうです。その結果は心強いことですが、ダンバーからすると、残り20%は自分たちのやっていることに偏見を抱いていることになると言います。ほかの調査でもおおむね同様の数字になっていて、だいたい5~25%の人が科学に対して否定的な見方をしているようです。

こうした科学軽視派は、いったいどんな人たちなのでしょうか?彼らの存在は果たして問題になるのでしょうか?このような問いに対して、ダンバーは、はっきりイエスと答えています。しかも、大問題になると彼は思っているようです。全体のなかでは少数かもしれませんが、彼らの社会的な立場を考えると、その影響は未来を左右することになりかねないと危惧するのです。

科学軽視派の多くは、高学歴で専門職についている人たちだそうです。人文科学の学位を持っていて、教師や研究者もいれば、芸術家や文学者、さらに困ったことに政治家もいたりするのです。彼らが共通して抱く科学への反感は、科学者は非文化的できめ細かい感性に欠けるという評価から出発しているとダンバーは言います。芸術にくらべて科学に割く予算が多いことも、そうした印象を強める結果になっていると言います。長く受け継がれてきた文化遺産が、科学という味も素っ気もないからくりに押しやられ、影が薄くなっているというそうです。

これではヴィクトリア朝文学に登場するいかれた科学者そのものではないかとダンバーは言います。自分の人生と引き換えにして世界征服を企むフランケンシュタイン博士とか、

恐怖の二重人格者ジキル博士とかだと言うのです。音楽や詩から天文学、物理学まで幅広い教養を誇り、創意工夫にあふれる科学実験を考案したと思うと、美しいソネットを書きあげて高い評価を得たルネッサンス的教養人はどこに行ったのか?とダンバーは問うています。

ひとつ言えるのは、現代のルネッサンス的教養人はもう人文科学の世界に出現しないということだと彼は言います。その一方で、隠れた才能を持つ科学者は枚挙にいとまがないと言います。

真の教育” への12件のコメント

  1. 「いかに考え、評価するか、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか、その訓練を積ませるのが」教育であるとありました。これはまさに私たちが実践している教育・保育であるなと思いました。子ども同士の関係、社会を構築すること、子ども達が主体的に自発的に活動することが真の教育につながっているのではないでしょうか。「科学軽視派」という言葉がありました。科学に対して反感があるというのは社会のあり方や制度、仕組みを考える上で厄介なものになってしまうのかもしれませんね。科学というのは今考えられる最先端といえるのでしょうか。それを信じることで、あれこれと試していくことが大切でもあるのでしょうか。それを感情論やイメージで覆されてしまうのは違うのかなと思えてきます。日本にはもしかするとその科学軽視の人々があらゆる場に平均より多くいたりするのかもしれませんね。

  2. 科学に限らず、歴史学や政治学でも、その分野の専門的な知識を詰め込むだけが教育という言葉ありますが、本当にそうなっている気がします。指導要領の改訂とともに、センター試験の問題も、自身の考えを記述する問題に変化していくという話を聞き、よかったと素直に思いました。何かを暗記したり、計算したりするだけでは、勉強も楽しくありません。科学軽視派の話が出ていましたが、今の日本でもそうなっている傾向があるなと感じます。化学や数学なんて将来使わなく、勉強する意味がわからないというヒトが多くいる気がします。覚えさせる勉強や、やさせる勉強では科学の楽しさに気づかず、科学を軽視してしまうのもわかります。なんでも自発的に活動することが楽しさを見つける鍵ですね。まさに園でやっていることが主体性や、自主性につながり、改めて見守ることの大切さを感じました。

  3. 「そうした考えは危険です!」と学者先生たち何人かに言われたことがあります。時期尚早、そんな概念は誰も言っていない、だとか。私自身は科学者ではありませんが、思考範囲に制限を設けたいとは思っていません。それゆえ、学界的制約、集団思考の限界、徒党意識等々に捉われない、あるいは服従しない、ある意味で一匹オオカミならず一匹ネズミ的なところがあることを否定しません。「いかに考え、評価するか、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか、その訓練を積ませる」ことに教育の意義があることに私も賛成します。果たしてそれは本当だろうか、を常に考える癖のようなものを身に着けてきたように思います。一つのことに納得しては次に疑問が湧きおこる性格です。素直に与しない部分、よく人から私は「斜に構えている」と言われました。どうやら今も変わらないのかもしれません。私は科学の成果をいつも楽しみにしているので「科学軽視派」ではないと思います。かといって、知ることのためなら何でもあり、とも思っていません。科学は現実と結びつこうとした時、善悪の両方に、道徳心を超えて、そうしてしまうからです。これもまた歴史が証明するところです。

  4. 科学は、「文化」の結晶ではないのでしょうか。好奇心と疑問は対になっていると思うくらい、離すことのできないものであると思っています。身の回りの文化に疑問を持ち、好奇心の名の下に、ひたすら研究し、実験し、仮説を立証しながら、多くの新しいことが生まれた背景には、そのものを支えていた歴史ある「文化」があるようにも思います。また、真の教育としても、思慮深さと多角的な評価、刷り込みのない視点からこれまでの歴史を振り返り、対象となるものを客観的に捉えられるような目線が持てる人材を育てることであると感じました。だとするならば、これまでの歴史を押し付けるよりも、それを踏まえた自分たちの考えや行動の先に、自らで構築していく新しい未来が存在していることを、希望という言葉とともに伝えていく姿勢が大切であるとも感じました。

  5. イギリス人の80%は、科学が重要だと考えているという結果が出て、心強いと思いながらも、しっかりと残りの20%にも着目し、向き合っているあたりがダンバーらしいですね。この20%の科学軽視派の方々の意見は、科学の進歩によって医学も飛躍的に進歩したことに関してのデメリット的なことが含まれていたらするのかなと想像しましたが、「科学者は非文化的できめ細かい感性に欠けるという評価から出発している」などと、「科学者」という根本的なイメージ像だけで判断していることに驚きました。フランケンシュタイン博士やジキル博士の例がありましたが、この例に沿った単なる刷り込みであるように思えます。しかも科学軽視派の多くは、「高学歴で専門職についている人たち」とあり、学歴が高かったり、仕事ができて自信がある人たちは固定概念に囚われやすい印象を受けてしまいます。自分の意見をしっかりと持ちつつも他者の意見もしっかりと認め、その問題に対して別な視点、アプローチもあることを探れる柔軟的な思考が科学のみならず、様々なところで求められているように感じました。

  6. 〝いかに考え、評価するか、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか、その訓練を積ませるのが教育だ〟とあり、このことはどんな職業の人でも必要なことであるということでした。
    この考えのもと教育をしていくには、これまでの日本の教育の仕方を考え直していかなければならないように感じます。大学のセンター試験が暗記で答えられるものでなくなって、記述式で自分の考えなどを答えるものに変わっていくというのは、そのような流れを汲んでのものであると思います。社会全体がそのように変わりはじめているということだと思いました。

  7. 「いかに考え、評価するか、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか、その訓練を積ませるのが教育だ」とありましたが、自分たちの行う保育がそのようなことに繋がればと感じるとともに、日々の保育の中でしっかりとできているのかなと考えさせられる言葉でした。興味をかきたてることが不可欠であり、子どもたちの興味から広がるものを大切にしていきたいと思いました。
    また「科学軽視派の多くは、高学歴で専門職についている人たちだそうです」ということには驚きました。そのようなデータが出ているのですね。そのような人たちは「科学者」というだけでなにか偏った見方をしているのでしょうか。それこそ先入観にとらわれているように感じました。

  8.  芸術も科学ではないかと思う部分が多分にあるのですが、違うのでしょうか。特に音楽については、その実験、考察、そして新しい試みの中で生まれる新しい音の重なりがあり、それはきっと科学を学んでいる時と同じ脳の働きのもたらす産物だと個人的には思うところです。絵が好きなら絵画へ、造形が好きなら造形物へ、人それぞれに芸術への思いはあると思うのですが、どの芸術も突き詰めてみれば、きっと好奇心や探究心に行き着くことになるように思われます。「科学軽視派の多くは、高学歴で専門職についている人たちだそうです。」記憶力で立場を築き上げていくとこういった弊害が生まれる、ということなのでしょうか。科学についての内容のこの度のブログに、藤森先生がこの度のブログのタイトルをつけた理由が何となくですがわかるような気がしています。

  9. ゛いかに考え、評価するか、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか゛私たちがeducationと知る部分はここにあるように思います。そこが科学である理由はやはり、考えると詰め込む、覚え込むのようなものとは、ジャンル違いであると考えられます。考えることは、社会にでるといろんな場面で応用され、これが科学と繋がっていると言われれば、考えるという一つの思考的要素が大きく作用していると考えることができ、教育が゛考える゛であることの重要性を感じます。

  10. 科学軽視派、もしかしたら私もの一派に入っていた可能性があります。イギリスの調査で20%の人が科学は重要ではないと答えたそうですが、確かに20%と聞くと大した数ではないと思うので、さほど影響はないと思っていましたが、高学歴、専門職、政治家の中にも反対派がいるとなると影響は大きいですね。この話をきいて思い出したのは、数年前に行われた政府の会議で「2位じゃダメなんですか?」という言葉です。科学者は1位とか2位と言うよりも、常に進化、変化し続ける時代に追いつくように、研究を重ねているのだと思います。しかし、反対派からするとそういう風には見えていないのかもしれません。

  11. 「いかに考え、評価するか、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか、その訓練を積ませるのが教育」とあり今世間では詰め込む問題ではなく考えさせる問題がに変わってきている中でいかに私たちが自分たちで考えられるような環境、教育をしていかなければいけないことがわかります。また科学への軽視派というのがあるのですね。最近では最新の脳科学で様々なことがわかり我々を助けているようにも思います。そういった中での軽視派というのはまた厄介といいますか両立を難しくする要因であるのかなと感じてしまいますね。十人十色とはいいますがそこはまた意味が違ってくる部分なのですかね。

  12. 科学が当たり前になった世の中で、反対意見を述べる方が意外に多いなと感じました。1つの国で20%というのは、世界で調べるならかなりの人数になりますね。しかもそれが、高学歴で専門職となればかなり地位の高い人も多いはずです。それだけ影響力は強そうです。

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