個性・個人差

林は、ここで少し注意を喚起しています。それは、「障害」という言葉です。この言葉は注意を持って使うべきだというのです。たとえば、数学に強い者もいれば、音楽に長けている人がいたり、あるいは他者への共感性が高い人がいたりというように、人にはみな個性(個人差)があると言います。それは、遺伝的な要素と、環境的な要素が複雑に相互作用することで生み出されるものです。こうした個性が、学校での学びや職場での仕事など日常生活に支障をきたすほど影響を与えるときに、障害になる可能性が生まれるというのです。

千住淳は、彼の著書「自閉症スペクトラムとは何か」のなかで、「障害は個人と社会の関係によって決まる」とされています。たとえば、人間が文字を発明するまでは、「文字を学習するのが苦手」という個性は障害ではなかったはずですが、現代では読み書きが生活に欠かせなくなったため、それが特に苦手は人たちには支援が必要になったわけだと言うのです。たしかに、文字がまだない時代、しかも、文字が発明されてから人類の進化のなかでたかだか数千年しか経っていませんので、ほとんどの時代は文字を読むことが困難であるということは障害ではなかったでしょうね。逆に、獲物を追いかける能力が劣っていたら、その時代では障害と言われていたかもしれませんね。たしかに、千住の言うとおり、障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまうのですね。

また、ケンブリッジ大学の教授の中に、自閉症の診断基準と同じような行動特徴を持つ人が何人かいるそうですが、本人の努力やまわりの支援、恵まれた環境によって、自分の好きなことを究めて、社会的には活躍できているそうです。つまり、自閉症と同じような行動や脳の特徴を持っていたとしても、日常生活に支障をきたしていないため、「障害」になっていないと林は言うのです。しかし、仮にこうした人々が対人関係などで悩みを抱え、専門家に相談することがあれば、自閉症の可能性を検討し、支援を行なうことが役立つかもしれないと言います。つまり、障害かどうかを決めるのは本人であると林は言うのです。

以前のブログで、私は千住淳の『社会脳の発達』という本を紹介し、社会脳について何回かに分けて書きました。千住は、「社会脳とは何か」という本も書いているのですが、そこには、自閉症者でない人々は、「定型発達症候群」であると言う考え方があることが紹介されているそうです。それは、「他人の気持ちにこだわり、読心術ができているかのような妄想を持つ」「正直でことばの意味通りのコミュニケーションを行なうことが出来ず、ことばの意味とその会話で伝えようとする意図が矛盾してしまう」「道順やものの位置など、環境の変化に気づくことができない」といった症状を持つものとされています。このような行動は、自閉症者を基準にして、その視点から見ると、奇妙で不可思議なものに感じるはずだというのです。

NHKの「福祉ネットワーク」という番組で、自閉症児を育てるある母親を紹介する番組を見て、林はこう考えたそうです。この番組で取り上げた自閉症児は、幼いころから家を飛び出して行方がわからなくなることがたびたびあり、母親は強いショックを受けていたそうです。しかし、あるとき、一緒に車で買い物に出かけると、彼は次々と別の方向を指示し、遠い隣町のスーパーにたどりつけたそうです。

個性・個人差” への12件のコメント

  1. 「障害とは個人と社会の関係によって決まる」とあります。なるほどなあとすごく思います。先日、先生から聞いたお話ですが、改めて「確かになあ」と感じました。文字がなかった時代に文字の読めない、または書けないヒトは障害ではないですね。しかし現在では障害として支援を必要とするヒトです。これを本人の努力、または環境次第では社会的に活躍できるようになれるわけですね。社会の今を見つめ、今の時代に必要な能力を見出すだけではなく、これから先、必要になっていく能力の見定めていく力も大切だなと思いました。例えば、脳波でキーボードを打つ技術が開発されていますが、考えただけで、文字を入力できれば、文字を書けない、覚えていないヒトでも文字が入力できるようになり、これは障害ではなくなるのでしょう。そういう意味でもこれから先の将来を読む力も大切だと思いました。

  2. 障害の捉え方が書かれてあり、考えさせられました。「障害は個人と社会の関係によって決まる」という言葉が印象的でした。確かに、文字がない時代では読み書きを困難とする人たちは障害ということにはならなかったでしょうね。その時代、社会によって障害が決まってしまうということは、障害というものが「障害」というよりも、やはり「個性」であるという捉え方の方が自然ですね。同時にその個性を障害としない社会を私たちは作っていかなければいけないなと思いました。ある枠を作ってしまうとその枠に入っていない人が異質であるかのような印象を持ってしまうことがあります。それは障害だけではなく、趣向や興味も含まれるのかもしれませんね。目には見えにくい無意識のそんな枠を作ってしまわないような意識を持っていたいなと思いました。

  3. 〝障害かどうかを決めるのは本人である〟とありました。分かりやすく例えがあり、「なるほど」と大きくうなずきながら読ませて頂きました。障害がその時代や社会などで決まるということは、それは「障害」ではなく「個性」と捉えるのがやはり適切であるということなんですね。
    〝自閉症者を基準にして、その視点から見ると、奇妙で不可思議なものに感じるはずだ〟という言葉が印象に残りました。何でもそうだな、と。歴史的に見てもそうだと思いますが、例えば「本能寺の変」を織田信長の視点で見るのと、明智光秀の視点で見るのとは全く異なる「本能寺の変」の見え方になるはずです。現代でいえば、領土問題など日本から見るのと、相手国側から見るのとでは全く異なる見え方になるから揉めるのではないのでしょうか。例えが下手で分かりづらくなったかもしれません。すいません。
    視点を変えてみてみるということを改めて考えていく機会となりました。

  4. 個性・個人差というものを捉える上で、「障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまう」という言葉が本当にしっくりきました。時代によって求められるものが異なるということが、時として社会で生き抜く上での障害となって人々を苦しめているとあれば、それは障害という認識ではなく「個性・個人差」として受け入れるべきであると強く感じます。運が良くてその時代では活躍した、運が悪くてあの人は異常者として見られたなどと、多様性を認めることで社会が発展していったのなら、いつの時代もそれを受け入れる器は持っておかなくてはいけないようですね。「障害」という言葉と文字だけを見ると、どうしてもこれまでの刷り込みによって否定的な意味で捉えてしまいがちですが、それを周りが決めるという構図が誤っているわけで、「障害かどうかを決めるのは本人である」ことを深く理解しなくてはいけないなと感じました。

  5. 「障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまう」や「障害は個人と社会の関係によって決まる」とあったことが印象的で、その他にも「確かに」と思うことがたくさんありました。そして、自分の中で障害とは先天的なものと一括りにしてしまっていることに気付き、個性や個人差という観点に欠けてしまっていたことにも気付けました。障害と言っても、重度や軽度などの程度の問題や身体的や知的、精神的と何種類かあるので、そんな単純な話ではないのかもしれませんが、「障害」を「個性」と捉え直すことができれば、支援の方法、アプローチの幅が少なからず良い方向に変わるのではないかとも思えました。そして、「障害かどうかを決めるのは本人である」とあったことが最も重要であると感じました。障害は他人の物差しで測られるものではなく、自分自身で決めるということを忘れてはいけませんね。

  6. 「障害は個人と社会の関係によって決まる」という言葉が印象的でした。「障害」という言葉は私にとっては学校で学ぶくらいでしたが、昔はそこまで認知度がなかったという話を聞いたことがあります。社会が変化し「障害」に対する考えも変化したということなのでしょうか。確かに、文字の読み書きが苦手な人でも、文字が生活に必要のない時代だったらまったく気にしなくていいですね。今の社会では、「障害」を持つ人たちにとって住みにくい環境が多いかもしれません。しかし、誰でも住みよい環境を作る取り組みがされていたりもします。こういった取り組みを重視するし実現していきたいですね。また、子どもにとっても自分の得意分野や不得意な分野を気にすることなく生活できるような環境を作りたいと感じました。

  7. 「障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまうのですね。」とあり、確かに昔はしゃべる事が出来ないよりも狩が出来ない方が障害扱いにされてしまうのでしょうかね。その時代に必要な能力というのがない場合それが障害になってしまうということなのですね。そしてさらに、「障害かどうかを決めるのは本人である」というのもなかなかの衝撃を受けます。日常生活に支障をきたしていなければ気づかないで過ごしている可能性もあるのですね。たまに自分が数字を見ると嫌になる時があるのですがそれは障害なのか、気持ちの問題なのか…障害という可能性もないことはないことに気づかされます。

  8. 「障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまう」本当にその通りですね。文字がない時代、文字が読めなくても障害ではなく、むしろ獲物を追いかける能力が劣っていたら障害と思われるでしょうね。有名な話で、藤森先生の講演でも言われますが、アインシュタイン、エジソンなど天才と呼ばれている人たちは、皆なにかしらの障害を持っていたと言います。大学教授でも自閉症と診断基準と同じ行動を取る人がいるとブログにも書いてあるように、何か欠けている部分がある代わりに、非常に突出した能力を持っていて、それを世の中、社会に活かすことができている人たちが、もしかしたら成功者かもしれません。まぁ、それは言いすぎかもしれませんが、子ども達も個性、個人差があるのにも関わらず、全員同じ基準で見てしまうのが、日本では強い気がします。それが一斉保育であって、一人一人に合わせていないですし、そもで追いつけなかったり、出来ない子がいたら、先生から友人、周りから責められ、トラウマやイジメにつながるようにも思います。個性、個人差、子どものみならず、社会で生活していく上で忘れてはいけませんね。

  9. “障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまう”ということは、納得できるほどのもので、その時代に合わなかったのは、どの時代にも合わなかったというわけではないことを私たちは、個性をうまく生かしながら、そして、隠しながらいきることがある種の順応性なのかなとも思いました。それぞれが自発的に取り組むことがどう取り組むかはやはり、個性であり、取り組みかたにも個人差があることを十分に理解したうえでの考え方を持たなければならないと思いました。
    なにへ対して障害ととらえ、どのように個性ととらえるのかが、考え方を変えなければならないところだと感じています。皆が個性をもつ、1人1人、色がある、ごくごく自然現象のようなものなのかなと思いました。

  10. 100人の子どもがいれば、100通りの個性がそこには存在する。我が国の識字率は現在99%だそうです。あるデータによると、識字率世界ランキングでは、それでも23位。まぁ、そういうことはよしにして、「識字率」という基準で図られ、そこに順位をつけられると、「識字率」が低い国は「発展途上国」などのレッテルを貼られてしまいます。今時は、どうやらある基準をもとにして云々ということが大流行りのようです。データとエビデンスが何といってもモノ言う世界の中で私たちは生きて暮らしています。「障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまうのですね」はまさにその通りです。保育園では今「気になる子」がとても関心を集めているような気がします。気になる子にされた当の子どもはえらい迷惑かもしれません。偏りがある大人たちの基準を超えてしまうと「気になる子」になるご時世。気にしなくて済むような方法がないのか?と考えた時、おそらくその子にあった環境設定を一生懸命に考え、実施するしかないのだろうと思います。もちろん、制約の範囲内で、ということにはなりますが。その「制約の範囲」とは如何様にもなるでしょう。その制約とは社会ということに繋がるのでしょう。話は全く飛びますが、私の父方の祖母は字が読めませんでした。私は子どもの頃祖母のために一生懸命読み聞かせをしていました。現在の私は祖母のおかげだと心から感謝しているのです。

  11.  「障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまう」何と衝撃的な言葉でしょうか。本当にそうですね。思い出すのは小学校の時で、気づけばかれこれ何十年も経つ過去のことですが、その時代が決めた障害というものに何の違和感も持たず、疑問も持たずに接していた自分がいます。いたわったり、思いやりをもって接してみたかに見えましたが、それは相手にとって、その時のその子にとってどんな思いを抱かせるものだったのでしょうか。
     思い返せば、その子はいつも両手に杖をついていました。ある日、何人かで腕相撲をしたところ、誰もその子に勝てませんでした。贔屓や、特別というものではない、本当の力と力で勝負して皆でその強さに驚いた時、その子が嬉しそうに、少し恥ずかしそうに笑ったことを覚えています。小学校6年生の時だったでしょうか、6年間もその子と一緒に過ごしたのです、もっと早くにその笑顔に触れられたのではないか、それには、「障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまう」という言葉を、幼い子どもでも理解出来るものにして伝える大人の力、理解というものが必要だったのかもわからないと思いました。

  12. 「障害は個人と社会の関係によって決まる」確かにそのとおりですね。これまであまり気にせずに障害という言葉を使っていましたが、それは絶対的な定義があるのではなく、時代や社会によって決まっていきます。結局はその時代の社会という物差しに順応していなければそれは「障害」ということになるってしまうのですね。藤森先生の講演では「障害を持っている子どもたちはほかとは違う力を持っている」「人の発展には必要な人間」ということをおっしゃられているのを思い出しました。人とは違う感性を持っている。今の時代という先入観を持っていないともとれる感覚を持っているからこそ、突飛な発想が出てきたりするのでしょうね。私たちはそういった感覚を持っている人をどう社会の中で自己発揮できるようにしていくのか、そういった社会づくりをしていくためにどういった保育をしていかなければいけないのか。「障害」ではなく「個性」として発信できる社会になるような社会になるともっと社会は発展していくでしょうね。

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