赤ちゃんの心の中

最近は赤ちゃん研究が進んできましたが、まだ多くのことがわからないようです。林は、それをこのように説明しています。心理学は「実証的」な学問です。実証的というのは、実験、観察、アンケート調査などを行なってテータを集めて証拠を示し、議論することであり、言葉を使ったやり取りによってデータを集めるのが一般的だと言います。しかし、赤ちゃんはまだ言葉を話せません。外から見える発達についてはいいのですが、心の発達は実証的に調べるためには、どのようにすればよいのでしょうか?

最近、赤ちゃん研究が進んだのは、視線とそのものを見つめる長さからわかるような方法を見つけたということは以前のブログで紹介しました。「目は口ほどにものを言う」ではありませんが、赤ちゃんは、早い時期から人の視線や表情を感じ取る能力があります。特に人間の場合は、白目があるおかげでどちらを見ているかもわかるのです。

現在は、言葉でのやり取りが困難な赤ちゃんでも、何かに興味を持ったとき、驚いたときに、そのものをじっと見るという「注視」に着目することで、何を理解できているか、何を区別できているかを調べることができます。その方法にはいくつかあります。

その1つの方法は、赤ちゃんに2つの刺激を並べて見せて、どちらを長く注視するかを観察するものです。たとえば、赤い丸と青い丸を並べて見せ、どちらか一方をより長い時間見たとすると、赤ちゃんは赤と青の色の区別ができているということがわかるのです。それから進んで、色の区別がわかるのかということは、さまざまな色の組み合わせで同様の実験をする必要があります。このように「好みのほうを長く見る」という人間の性質をうまく使った方法を、「選好注視法」と言うそうです。

しかし、選好注視法では、2つの刺激を見る時間に差がなかった場合の解釈の難しさが残ると言われています。「赤と青の区別ができない」からという以外にも、区別はつくものの、「好みの差がなくて、どちらも同じくらい見た」とも考えられるのです。そこで、好みではなく、「慣れ」という性質を使って調べるのは「馴化・脱馴化法」というそうです。「馴」とは、「なれる」という意味です。同じ刺激をずっと提示して、慣れによって(馴化)赤ちゃんの注意がそれた後に、別の刺激を提示し、注意が回復(脱馴化」するかどうかに着目して、2つの刺激を区別できているかを調べる方法です。

さらに、「ありうる事象」と、手品のような「あり得ない事象」を見せ、「期待に反する」あり得ない方を長く注視するかどうかによって、赤ちゃんの物事への理解を調べる方法もあるそうです。それは、「期待違反法」と呼ばれているそうです。期待違反法では、実験状況に慣れさせるため、あらかじめ馴化の手続きを踏むこともよくあるそうです。

これまで、赤ちゃんは無垢の存在で生まれ、「タブラ・ラサ(白紙)」という考え方だった時代がありました。ところが、手法を使うことで、赤ちゃんはかつて考えられていたよりはるかに有能で、世の中のことを理解している様子がわかってきたと林は言います。生後数ヶ月の時期から、基本的な数を区別したり、物体の動きがわかったりといったように、さまざまな物理的事象を把握していると言われています。

たとえば、「物体Aの下に物体Bがあり、BがAを支えているために、Aが落下しない」というありうる事象と、「物体Aの下の物体BがAとは離れた位置にあって支えていないのに、Aが落下しない」というあり得ない事象を見せると、4~5ヶ月の赤ちゃんはありえない事象を長く注視するそうです。支えるものがなければ、ものは落下することも幼い頃から理解できているのだと林は言います。

心の理論の発達・発展

NHKの「福祉ネットワーク」という番組で放映された自閉症児は、幼いころから家を飛び出して行方がわからなくなることがたびたびあり、母親は強いショックを受けていたそうですが、あるとき、一緒に車で買い物に出かけると、彼は次々と別の方向を指示し、遠い隣町のスーパーにたどりつけたそうです。母親は、これまで彼が遠くまで飛び出していたのは、道がどこまで続いているか調べていたからではないかという可能性に気づき、息子の心の世界に触れることができたと話しています。そして、「私が持っているものさしと、子どもが持っているものさし、物の見方は全然違っているかもしれないけれど、これまでは世の中はこうなんだ、こういうときにはこうしなければいけないっていうのが自分の中にあったんです。でも、息子と接するなかで、自分のものさしですべてを計ってしまったのでは、この子の気持ちはわからないことに気づきました。」とインタビューに答えていました。

このように、人間にはそれぞれ個性があり、その違いを認識することで、自閉症児や障害者に対する見方が変わり、人間として温かい交流ができるようになるだろうと林は言います。それは、近年の特別支援教育の充実にも現われていると林は思っています。本当にそうであればいいですね。しかし、まだまだ無理解の中で苦しんでいる人も多い気がします。人間とは、障害であるか、健常であるかというような区別が出来るような単純な生き物ではありませんし、それぞれの違いが、社会を形成するためには必要な存在なのです。それは、障害者と呼ばれる人だけでなく、無力だと思われている赤ちゃんにしても、非常に有能であることがわかっています。

現在の研究では、定型発達の子どもでは、4~5歳児ころから誤信念課題に正答でき、こ心の理論を持つようになるとされているのが、多くの心理学の教科書で紹介される基本事項となっているようです。だからと言って、3歳頃までは他者の心を理解できないということではないようです。たとえば、母子関係を見ていると、母親の見た方向に赤ちゃんも視線を向けたり、母親が語りかけたりすることに赤ちゃんが反応していることがわかっています。逆に、赤ちゃんも何かを見つけると、母親の目を見ながら、それを指さしたり声を上げたりすることがわかっています。

敵を見つけたベルベットモンキーが「聞き手である仲間が何を知っているか」にはお構いなしに、自己中心的に警戒音を発し続けます。ここには心の理論は動いていません。ベルベットモンキーは、いわば反射的に警戒音を出しているだけで、仲間に真の意味で、「敵の存在」を「知らせよう」としているのではありません。それに対して、人間の赤ちゃんは絶えず指さしによって、他者に何かを「知らせよう」とします。つまり赤ちゃんは、誤信念とまではいかなくても、他者の心の状態に反応して、行動しているのだと林は言うのです。これはまちがいなく、心の理論の萌芽であり、コミュニケーションの芽生えではないかと彼は言うのです。

それでは、誤信念課題に正答できるまでに、どのような形で心の理論が見られ、発達するのでしょうか。また、幼児期に誤信念理解がはっきりするとしても、まだ大人のコミュニケーションとは隔たりがあります。大人へと向かう過程の児童期には、どのような心の理解や社会性の発達が見られ、発展していくのかを林は考察しています。

個性・個人差

林は、ここで少し注意を喚起しています。それは、「障害」という言葉です。この言葉は注意を持って使うべきだというのです。たとえば、数学に強い者もいれば、音楽に長けている人がいたり、あるいは他者への共感性が高い人がいたりというように、人にはみな個性(個人差)があると言います。それは、遺伝的な要素と、環境的な要素が複雑に相互作用することで生み出されるものです。こうした個性が、学校での学びや職場での仕事など日常生活に支障をきたすほど影響を与えるときに、障害になる可能性が生まれるというのです。

千住淳は、彼の著書「自閉症スペクトラムとは何か」のなかで、「障害は個人と社会の関係によって決まる」とされています。たとえば、人間が文字を発明するまでは、「文字を学習するのが苦手」という個性は障害ではなかったはずですが、現代では読み書きが生活に欠かせなくなったため、それが特に苦手は人たちには支援が必要になったわけだと言うのです。たしかに、文字がまだない時代、しかも、文字が発明されてから人類の進化のなかでたかだか数千年しか経っていませんので、ほとんどの時代は文字を読むことが困難であるということは障害ではなかったでしょうね。逆に、獲物を追いかける能力が劣っていたら、その時代では障害と言われていたかもしれませんね。たしかに、千住の言うとおり、障害は、絶対的な姿ではなく、その時代、社会によって決められてしまうのですね。

また、ケンブリッジ大学の教授の中に、自閉症の診断基準と同じような行動特徴を持つ人が何人かいるそうですが、本人の努力やまわりの支援、恵まれた環境によって、自分の好きなことを究めて、社会的には活躍できているそうです。つまり、自閉症と同じような行動や脳の特徴を持っていたとしても、日常生活に支障をきたしていないため、「障害」になっていないと林は言うのです。しかし、仮にこうした人々が対人関係などで悩みを抱え、専門家に相談することがあれば、自閉症の可能性を検討し、支援を行なうことが役立つかもしれないと言います。つまり、障害かどうかを決めるのは本人であると林は言うのです。

以前のブログで、私は千住淳の『社会脳の発達』という本を紹介し、社会脳について何回かに分けて書きました。千住は、「社会脳とは何か」という本も書いているのですが、そこには、自閉症者でない人々は、「定型発達症候群」であると言う考え方があることが紹介されているそうです。それは、「他人の気持ちにこだわり、読心術ができているかのような妄想を持つ」「正直でことばの意味通りのコミュニケーションを行なうことが出来ず、ことばの意味とその会話で伝えようとする意図が矛盾してしまう」「道順やものの位置など、環境の変化に気づくことができない」といった症状を持つものとされています。このような行動は、自閉症者を基準にして、その視点から見ると、奇妙で不可思議なものに感じるはずだというのです。

NHKの「福祉ネットワーク」という番組で、自閉症児を育てるある母親を紹介する番組を見て、林はこう考えたそうです。この番組で取り上げた自閉症児は、幼いころから家を飛び出して行方がわからなくなることがたびたびあり、母親は強いショックを受けていたそうです。しかし、あるとき、一緒に車で買い物に出かけると、彼は次々と別の方向を指示し、遠い隣町のスーパーにたどりつけたそうです。

心の理論がうまく働かないと

さまざまな課題や状況によって差はあるものの、目に見えない他者の心の存在にはっきりと気づき始めるのは、幼児期であることは確かなようです。しかし、心の理論が一般に知られるようになったのは、実は自閉症研究から始まったのです。自閉症というのは、脳の機能障害で、知的障害を伴う場合もあれば伴わない場合もありますが、診断基準は、「対人コミュニケーションや対人行動の困難さ」と「限局的、反復的な行動や興味のパターン(こだわり)」のふたつがあり、「自閉的スペクトラム症」というひとつのカテゴリーにまとめられています。対人コミュニケーションの困難さとしては、言葉を字義通りに解釈してしまう傾向が強く、比喩や皮肉などの理解や、嘘と冗談の区別などが苦手とされています。反復的な行動や興味としては、通学路の道順にこだわるなどの行動が見られるとされています。

自閉症は対人関係に問題があるということは、当然心の理論が弱く、それが柔軟なコミュニケーションを生み出さない一因と考えられています。実際、自閉症児の言語年齢を定型発達児と同じくらいの約5歳に近づけても、定型型発達児より誤信念課題の正答率が低いそうです。心の理論がうまく働かないと、世の中はどのように見えるのでしょうか?バロン・コーエンは、まわりの世界の物理的な事情に気づくことはできますが、心に関する事柄の存在に気づきにくい様子を、次のシーンを例に、紹介しています。

「Aさんは寝室に入って、うろうろ動き回り、そして出てきた。」なにやら挙動不審な様子ですが、このようなシーンを目撃しても、心の理論が働く人は、「Aさんはおそらく、見つけたい物を探していて、それが寝室にあると思ったのだろう。」とか「Aさんはおそらく、寝室で何か物音がしたので、それが何であるか、泥棒でもいるのかどうかを知りたかったのだろう。」というように、Aさんの行動を心の状態、「見つけたい」「思った」「知りたかった」などを想定して解釈するので、このような奇妙な行動を見ても大きな不安はありません。

翌日に再びAさんが寝室の前を通りかかって、今度は寝室に入らずに通り過ぎたとしても、「Aさんは、昨日探していた物を見つけることができたんだな」といったように解釈するはずです。これに対して、心の理論が働きにくい人では、心の状態に関することばの使用が困難となるので、たとえば、「Aさんはおそらく、この行動を毎日この時間にやっているので、ただ寝室に入って動き回り、出てきただけだろう。といったように、行動が起こりそうなこの場合は、時間的な「規則性」などで解釈せざるをえないと言われています。ですから、Aさんがこの特定の時刻に毎日このように振る舞うのではないことを知ると、たとえば翌日、Aさんが今度は寝室に入らずに通り過ぎてしまうと、Aさんの行動を解釈できず、大きな不安を感じるのです。自閉症者が同じ事にこだわり、それが安心を感じるひとつの要因は、このような例からも説明できるかもしれないと言うのです。

ただし、自閉症者が、他者の心の理解をまったくできないわけではなく、多くの場合、条件を整えると定型型発達者と同じような心の働きを見せることがあると言われています。つまり、他者理解が「できる」ことと、そうした理解に基づいた行動を「自発的に行なう」ことのあいだに違いがあり、定型型発達者の特徴は、後者にあり、自閉症者は前者にあると考えられると林は言うのです。

何歳から?

心の理論は、進化論的にチンパンジーの研究から始まりました。はじめは、チンパンジーが競争的な状況で相手に勝つための戦略として心の理論を発達・進化させてきたと言われています。なぜかというと、相手を欺いて打ち負かし生き延びることが心の理論の発達・進化の根底にある、とされてきているからです。ところが人類は、そのように敵を打ち負かすことで進化してきたわけではありません。その前に、他と共感し、家族、社会を形成し、その中で協力をして生き延びてきたのです。しかも、人類だけが他と共感するために、言語を所有して進化してきたのです。それを考えると、生存競争に勝つための欺きだけではなく、相手に自分のことを理解してもらいたい、協力してもらいたい、そしてより高い次元の物事を達成したいという欲求を実現する方向で心の理論が進化したと考えることほうが納得がいきます。

以前のブログで紹介した、1歳を過ぎたころでも、荷物を両手に抱えた大人がドアの前で立ち往生していると手を貸してドアを開けてくれると言われています。それは、「ドアを開けたいけれど、両手にものを持っているために開けることが困難で困っている」というような他者の意図を理解して、手を貸すのです。この実例を見ると、ずいぶんと早い時期に、しかも乳児のころから可能になることがわかりますが、以前は考えられなかったようです。そこで、最近では協力的なコミュニケーションの取り方を重視して、心の理論の発達を考えようという動きがあるそうです。

しかも、早い時期から心の理論が行なわれるというよりも、2 ~ 3 歳の子どもは向社会的な傾向が見られるので、社会的な対人関係でよいとされている物事に関して他者の心を推測することが得意なのかも知れないとも考えられ始めています。これは、私が考えていることと同じです。特に、日本人は、欧米に比べて社会的な対人関係を大切にする気質があるので、早い時期から「困っている人を助けたい」と思っている子どもが育っている可能性があるのではないかと思っています。しかし、この「助っ人課題」について研究した松井智子らが、先の「助けたい」状況を入れた誤信念課題の調査結果をイギリスやカナダの学会で発表したら、「現地の子どもではこうはならない」といわれたそうです。そこで、彼女らは、「もしかしたらこれは日本の子ども特有の傾向かも知れません。」と言っています。

そうであっても、私は心の理論の発達には、子ども社会が大きく影響していると思っています。しかも、それはすでに乳児のころから始まっており、人類が、乳児のころから共同保育をされてきたなかでそれを獲得してきたということは容易に推測できます。ですから、4~5歳のころから誤信念課題で正答できるという研究に対して、このような標準的な誤信念課題に正答できない3歳児でも、助っ人課題では正答できる傾向があるのです。自分の知識を伝達することによって他者を助けるという社会的な状況が与えられると、3歳児でも「知識がなければ間違ってしまう人(誤信念を抱いている人)」を選ぶことができるのです。

標準的な誤信念課題は、登場人物の人間関係や、ストーリーが進むなかでの登場人物の感情の生起や変化といった情報を省き、誤信念そのものに焦点を当てた課題です。しかし、ふだんの私たちは、誤信念のみにクローズアップするということはあまりなく、そこには同時に何らかの社会性が伴います。そのような意味で、助っ人課題は、「相手の知らない情報を伝える」という日常の社会的場面に近づけた状況で誤信念の理解を調べられており、私たちの心の理論の発達の解明により近づいているように林は感じていると言います。

助っ人

「助っ人課題」とは、どのような実験なのでしょうか?Aが赤い箱に玩具を入れて退場します。その後、Bが青い箱に玩具を移して退場した後、AとBが2 人同時に戻ってきます。そして実験者が子どもにこう言います。「いま玩具は青い箱に入ってるよね? 2人はどちらの箱に玩具を取りに行くかな? 間違いそうな人を選んで、玩具は青い箱に入ってるよ、って教えてあげよう」

もし、誤信念を持っているのはAだということが分かれば、子どもはAを選ぶはずです。日本人の3~5歳児を対象に「助ける」状況のない場合と比較してみると、いずれも「助ける」状況にある場合の方が有意30 に正答率が高いことが分かったそうです。この結果は、「助けてあげる」というような、実生活につながる社会的な対人関係の状況になると、何もないニュートラルな状況に比べて、他者の心の理解が進むことを示唆しています。

では逆に、「玩具をちゃんと見つけてしまいそうな人に、嘘をついて見つけられないようにしちゃおう」という状況ではどうかと試してみたところ、ニュートラルな状況よりは正答率が高かったのですが、「助けてあげる」状況に比べると出来が悪かったそうです。したがって、3~5歳児では、「助ける」といった社会的な対人関係にプラスになる行為に関しては心の理解の反応が良いけれど、「騙す」といったマイナスになる行為に関しては反応が悪い、ということがわかったそうです。この実験のように、社会的な対人関係のなかで私たちは生活しています。特に圓においては、まさに子どもの社会が存在します。ですから、当然ここに見えるようなかかわりは行なわれるはずです。

また、ブログで紹介したように、何もないニュートラルな状況で、日本人は5 歳児の子どもでも半数ほどしか誤信念課題をパスできないことが分かています。その結果は、欧米の子どもに比べて、日本の子どもは誤信念課題にパスする時期が6 か月から1 年ほど遅いことがこれまでの研究でも明らかになっています。これはなぜでしょうか?

上越教育大学の内藤美加先生は、こういう場面ではこうしなさい、こうしてはいけない、といったように状況と行動が結びついた日本の親のしつけに関係しているのではないか、と指摘しています。つまり、特定の状況における対人ルールや社会的決まりごとが優先しているので、ニュートラルに自己や他者がいま何を考えているか、に思いが至る時期が遅くなる、というわけです。

心の理論の発達には、幼児の周りにいる大人の言葉がけや、対応が影響しているようです。その行動には、このような違いがあると言われています。母親が絵本を読み聞かせるとき、欧米は「自己主張型」で、母親や保育者は子どもに登場人物の思考や感情に対する考えを話すように仕向けていくことが多いと言われています。それに対して、日本では「状況依存型」という特徴があり、「ある状況下では、このように振る舞うべき」というように、場面に応じた登場人物の行動に話題の焦点を合わせます。

心の理論の研究でも、このような違いがあることがわかっています。親子の会話の中で「と思う(think)」「と信じている(believe)」「を知っている(know)」といった単語が何回出るかという調査をしました。すると、欧米では3 歳くらいから頻出するのに対して、日本では「好き」「嫌い」といった感情に関する言葉は出てくるものの、こうした思考に関する言葉はほとんど出てこない、という結果が出ているそうです。

さまざまな課題

「女の子がおもちゃをカゴに入れて出かける」「男の子がおもちゃを取り出して遊んだ後、箱に入れます」「女の子が戻ってきます。」このようなお話を子どもに聞かせた後に、こんな質問をします。「女の子は、おもちゃがどこにあると思っているかな?(おもちゃを探すのはどこかな?)」この手続きによる課題は、実際は箱の中におもちゃがあるのに、他者はカゴの中にあると「誤って」思っている状況で、そのことがわかるかどうかを調べているため、「誤信念課題」と呼ばれています。これまで、この課題を使った研究がたくさん実施されてきたそうです。結果は、一貫しており、おおむね4~5歳児ころから、正答できるようになるということが明らかなっているそうです。

誤信念課題には、いくつかのヴァリエーションがあります。先の誤信念課題は、ウィマーらの研究に始まるそうです。その課題をバロンーコーランらが洗練させ、自閉症研究で適用したものが「誤信念課題」というものですが、登場人物がサリーとアンだったため、「サリーとアン課題」と呼ばれることが多いそうです。

誤信念課題としてよく用いられるもうひとつは、「スマーティ課題」と呼ばれるものです。スマーティとは、欧米の子どもによく知られたチョコレート菓子だそうです。この課題では、子どもにスマーティの箱を見せ、何が入っているかを聞きます。もちろん、子どもは「スマーティ」と答えますが、実験者が箱を開けると、中から鉛筆が出てきて子どもを驚かせます。その後、「箱の中を見ていない友だちは、この箱を見たら何が入っていると思うかな?」と尋ねます。3歳頃までは、鉛筆が入っているのを知っているのを「鉛筆」と答えますが、4~5歳頃から自分が知っていることではなく、他者の視点に立ち、中身を知らないはずだから、「スマーティ」と正答できるようになります。

このふたつの課題の違いは、サリーとアンの課題が「場所の変化」なのに対して、スマーティ課題は、「対象の変化」なのですが、両課題の基本的構造は同じで、正答できるようになる時期もほぼ同じです。そこで現在は、これらが標準的な語信念課題として定着し、多くの研究で心の理論の発達の程度を確認する課題として用いられているのです。ただし、文化差があるようで、日本の子どもでは正答できる時期がやや遅れるそうです。

また、状況をより自然にすることで、3歳でも誤信念状況を理解できることが明らかになっているそうです。ここで、林は、松井智子らの研究を紹介しています。この研究は、私にとっては、非常に興味深いものです。それは、私の常々の課題である、子ども一人だけのと気と違って、複数の子ども同士の関係が、どう影響するのかというものです。松井らは、それを「助っ人課題」と名付けました。

同じような状況での課題に対して、「助けてあげよう」という状況にしたらどうなるか、という実験を行ってみたものです。「自分が知っていることを利用して誤信念の持ち主を助けることができる――つまり他者の誤信念を強く認識するようになる。それによって、自分が知っているから他者も知っているという知識の呪縛にとらわれる可能性が低くなるのではないか、」と予測したわけです。この「助っ人」は、人類が社会をつくり生存してきた戦略のひとつになるのではないかと私は思うのです。

心の理論の発達

私たちは、心の働きについて、さまざまな知識を持っていて、意識的にも無意識的にも、それらを使って相手の行動を絶えず考えています。さらにこうした知識は、日常経験を通してある程度の一貫した体系を成していると言います。私たちは、ふだん無意識に人間の動きと物体の動きを区別しています。たとえば、たたずんでいた人が突然動き出しても、その先に店があれば、「あの店に入ろうとしているのだな」といったように意図や願望を読み取ります。しかし、止まっていた物体が突然動き出したら驚くはずです。ここからわかるように、物体は物理の理論、つまり物理の法則や体系によって動くのに対して、人間はそれとは違う心の理論、つまり意図や知識や信念といった心の状態に基づいて動くことを理解しているのだと林は言います。このように領域によって違った体系でまとまっていて、それらを区別できていることから、心についてのこうした知識のまとまりも理論と呼ぶ理由だというのです。

私たちが心の理論をもち、それを働かせることは当然のことのように感じます。しかし、実はそうとばかりとは言えないと言います。それは、子どもを見ればすぐわかると林は言うのです。たとえば、幼児は、こちらの知識状態や関心にはおかまいなしに自分の経験や知っていることを絶えず話してくれます。口元にチョコレートが付いているのに、「チョコを食べてないもん」と見え透いた嘘をつくこともあります。このような様子を見ると、幼児はまだ他者の考えていることや感じていることにあまり注意が向かず、心の理論が充分に発達していないことに気づくはずだというのです。

それでは、心の理論はいつ頃、どのように発達するのでしょうか?子どもの心の理論が働いているかどうかを確認するには、様々な方法が考えられます。たとえば、女の子がおもちゃをカゴに入れて、遊びに行ったとします。その後「女の子ははカゴの中に何があると思っているかな?」と尋ねてみる方法があります。「おもちゃ」と答えられたら、他者の考えていること、つまり心の状態を理解できていることになります。たしかに、そうかもしれませんが、そうではないかも知れません。なぜなら、「おもちゃ」という正解が、「女の子の心の状態(考えていること)」を推測して答えたからではなく、「子ども自身が知っていること」を答えただけで導かれた可能性もあると林は言うのです。

そこで、尋ねる方法に工夫が必要になります。質問をこうします。「女の子がおもちゃをカゴに入れて出かける」「男の子がおもちゃを取り出して遊んだ後、箱に入れます」「女の子が戻ってきます。」このようなお話を子どもに聞かせた後に、こんな質問をします。「女の子は、おもちゃがどこにあると思っているかな?(おもちゃを探すのはどこかな?)」このような質問では、女の子が知らない間におもちゃの場所が変わることで、「子ども自身が知っていること」と「女の子の心の状態(考えていること)」が分離され、どちらかに沿うかで別の答えが導かれます。それゆえ、子ども自身が知っている今のおもちゃの場所である箱ではなく、女の子が最初に置いた場所であるカゴと答えると、他者の心の状態を理解できたことになるのです。

背後にある意図

先週の土曜日に行なわれた日本保育学会で、私は自主シンポに参加しました。テーマは、「冷ます力を育む」でしたが、その力のキーワードには、「実行機能」と「心の理論」があるということの話をしました。自分の欲望、感情を抑制するためには、これらの機能が働かなければならないのです。また、一方、抑制機能が発達することによって、ヒトは、他者に対する認知や、他者とのコミュニケーションを熟成化させていきます。つまり、抑制機能を発達させることにより、社会的知性を獲得し、ヒトが進化のなかで確立してきた社会的世界に適応することが可能になると考えられています。すなわち、社会的世界における抑制機能の発達的意義とは、子どもが社会的知性を発達させることで、より社会的世界に適応した存在になることではないでしょうか。

ということで、林創は、人間のコミュニケーションは、「心の理論」「実行機能」「メタ認知」の3つが重要な役割を担うと考えているのです。繰り返しになりますが、ここでもう一度、林による「心の理論」の説明を読んでみたいと思います。

心の理論という概念は、霊長類学者のプレマックらの研究に始まったそうです。プレマックらは、次のような理由から「理論」という言葉を用いたと言われています。それは、意図や知識を信念といった心の状態は、直接には見えないものですが、そのような心の状態を想定して理解すれば、他者の行動の予測が「ある程度」可能になるというのです。もっとわかりやすく考えると、身近な理論としては、「物体」の動きを説明する物理の理論が挙げられます。たとえば、手に持っている物体を空中で離したら落下します。このとき、私たちに見えるのは、物体の落下という「現象」であって、その背後にある重力という「物理的な力」は見えません。しかし、私たちは重力の働き、すなわち物理の理論を知っているため、物体が落下しかけたら、すぐに手に出して落下を食い止めるはずです。つまり、理論を持つことで先を予測できるわけだというのです。

「心」についても同様だと言います。人の行動は目に見えます。しかし、その背後にある意図という「心の状態」は見えません。しかし、この意図を読み取ることで、私たちは次の行動を予測することができます。このような類似性から、心の状態を想定して推論する体系に「理論」ということばが使われていると考えると、心の理論ということばの意味がわかりやすくなると林は考えています。

日常を考えれば、私たちは常に「もし自分がこのようなことをしたら、相手はこう感じてくれるはず」とか、「相手がそのように言うということは、こうしたいのだろう」といったことを考えながら、他者と関わっています。私たちは、心の働きについて、さまざまな知識を持っていて、意識的にも無意識的にも、それらを使って相手の行動を絶えず考えているのだと林は言います。

私たちは、それを対人知性として、子どもはそのような行動を取るのだろうかということを課題にしてきました。では、研究では、幼児は他者の行動からその意図を想定して、行動すると考えているのでしょうか?心の理論は、どのように発達していくのでしょうか?

他者の心の理解

ロビン・ダンバーは、ヒトの心や行動を、進化という背景から解き明かそうとしました。それは、「つながりの心理学」とも言えるもので、ヒト特有なコミュニケーションを考察しているのです。人類は、他には見られない社会を形成していく力があります。以前、このブログで、コミュニケーションの起源ということで、マイケル・トマセロの考え方を見てきました。彼は、人間の子どもと大型類人猿の比較から進化的起源を明らかにしてきました。

人類の特性は何かというさまざまな研究は、進化から見ても社会を形成する力とか、社会の中で他者とつながりをもつ力、それらの力をどのように獲得してきたかということ、また、それらの力にはどのような要素が必要になってくるのか、ということが大切になってきます。

辞書には、「コミュニケーション」とは、「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと」とあり、単なる言葉の往復ではないことが判ります。東京の杉並区立和田中学で義務教育初の民間人校長を務めた藤原和博さんは、コミュニケーションという言葉は、何気なく日常的に用いている言葉ですが、「この語源を知っているとコミュニケーションに対する意識も変わる」と言います。

では、この語源は、何かと言うと、ラテン語の「Communus(コミュナス)」から来ていると言われています。この“Commu(コミュ)”という言葉が頭につく単語は多く、「コミュニティー」「コミューン」「コミュニズム」、そして「コモン」といった単語があります。実は、この“コミュ”という接頭語がつく単語は、すべて“共有する”という意味を含んでいるのです。藤原さんは、こう言います。「つまり、コミュニケーションとは、こちらの脳にあるイメージを相手の脳に伝達すればいいということ(いわゆる「説明(Explanation)」)ではなくて、自分の脳にあるイメージと相手の脳にあるイメージを“共有する”ということなのである。自分が思うことを一方的に相手に伝えるだけではコミュニケーションとは言えない。自分と相手との間に共有点を見つけ出し、共有したことをアイデアとして浮かび上がらせることによって、コミュニケーションは相乗的に深まっていくのだ。」

すなわち、コミュニケーションとは、単なる情報の伝達ではなく、「他者の心の理解」なのです。そこに、人間らしさが存在する所以なのです。単に情報の伝達であるコミュニケーションであれば、人間以外の動物にも高度な「情報のやり取り」が見られます。しかし、そこには限界があり、他の動物の多くの動作は、生得的に組み込まれており、可塑性が小さく定型的な点で、人間と異なります。

では、人間のコミュニケーションは、どのような心の働きによって生み出されるのでしょうか?昨年出版された林 創は、著書「子どもの社会的な心の発達」の中で、人間のコミュニケーションは、「心の理論」「実行機能」「メタ認知」の3つが重要な役割を担うと考えているということが書かれてあります。このふたつについては、以前私がブログでも取り上げ、ダンバーも触れています。繰り返しになりますが、その概念は難しく、ヒトによってその説明が若干違っています。それは、この「心の理論」と「実行機能」はヒトとして大切な機能であるにもかかわらず、あまり研究されてこなかったということもあるようです。