道徳と宗教

今回の小学校学習指導要領、幼稚園教育要領、保育所保育指針の改定にあたり、道徳が強化されています。しかし、道徳というものが大切であるということはわかるのですが、何が道徳かということになると難しい気がします。それは、時代によって、立場によって違ってくるからです。古くは、儒教における論語などは道徳的な心構えが書かれてありますが、その多くは為政者としての心構えです。ダンバーは、この道徳についてこう考えています。

道徳心が、共感、もしくは同情、もしくはその両方の反映というだけならば、必要なのはせいぜい二次的な志向意識水準までで、それ以上のものを得ようとがんばることはないと言うのです。つまり、「君が何かを感じていること、または、君が正しいと信じている」ことさえわかっていれば十分だと言います。しかし、それをよりどころとする道徳心は常に不安定だと言います。

そうではなくて、もっと確固たる道徳感がほしいのであれば、もっと高い次元での正当化が必要であるというのです。民事法は集団の総意を遂行する優れたメカニズムですが、絶対不変な哲学的真理とか、神などの至高の宗教的権威を信仰することも同じような役割を持っていると言います。とくに信仰に関しては、その認知構造を分析していくと、私たちの志向意識水準が様々な角度から試されていることがわかると言います。信仰システムが何らかの力を持つためには、一段高いところであなたや私の望みを理解し、くみ上げてくれる存在がいると信じなくてはならないと言うのです。

このシステムが機能するには、最低でも四次志向意識水準まで設定することが不可欠だとダンバーは考えています。そのうえで、あちこち枝分かれしたところも含めてすべてを見渡し、まとめあげる五次志向意識水準の能力を持つものが求められるというのです。つまり、宗教、及び道徳体系は、人間が生まれながらに対応できる社会的な認知能力のギリギリの限界のところで勝負しているのだというのです。

このことは、サルや類人猿と人間の社会的認知の違いに立ち返るとよくわかると言います。人間は五次志向意識水準まで到達することが可能ですが、類人猿は二次志向意識水準までが限界で、サルはどうあがいても一次志向意識水準から抜け出すことができないのです。それは、自分がいま経験している以外の世界があることなど想像も付かないのです。神々や精霊など、目には見えないけれど私たちの心を見透かし、この世を考えられる存在があるとは思いもしないのだというのです。

たしかに、道徳心というものは、人との関係で必要なものであることが多いために、他者が自分とはちがう考えを持っていることを理解できなければなりませんし、その能力でも3歳児くらいに身につくであろう二次志向意識水準なのです。このような志向意識水準のレベルを上げていくことが必要になるのですが、それは、どういうことなのでしょうか?

それを、ダンバーは、脳の構造に関して考察しています。脳の新皮質と一次視覚野と呼ばれる線条皮質の大きさを霊長類で比較してみたそうです。すると、両者は正比例の関係にないことがわかったそうです。大型類人猿やヒトでは、新皮質の大きさのわりに線条皮質が小さくなっているのです。おそらく、視覚処理の第一段階は、もっぱらパターン認識を行うのですが、一定のところまで発達したら、それ以上充実させる必要がなかったのだろうとダンバーは推測しています。