志向意識水準

ダンバーは、ここでこんなことを言います。文化こそ、ヒトとそれ以外の動物を線引きするものである、そんな主張にいつまでもこだわっていると、遺伝的排他主義と言われるだろうと危惧します。もちろん、言語と同じように、人間の文化にはほかの動物には見られない側面がたくさんあると言います。ただしそれは、文化という連続体の頂点に近い部分に過ぎないと言います。おそらく問題はそこにあると言います。私たち人間は連続性でものを考えることがとにかく苦手で、すぐに単純な二分法で済ませようとするのだというのです。しかし言語の文化も単体ではありません。それを支えているプロセスの多くは、人間以外の動物、少なくとも一部と共有しているのだと言います。

これだけは人間以外にはできないと断言できるものがあるとダンバーは言います。それは、フィクションの世界を構築することだと言います。そもそも動物は、物語というものを理解できません。言葉を持たないことももちろんありますが、想像の世界だけのお話、という概念がはなから理解できないのだと言います。もし言葉を持っていても、額面どおりの意味に受け取ってしまい、存在しない世界の記述に戸惑うばかりだろうとダンバーは言うのです。

ウィリアム・シェイクスピアの「オセロ」という舞台劇があります。この話の設定を観客が素直に信じてくれなければ、舞台は台無しになります。となると、観客の心理、それは、舞台を見る人はこう感じるだろうという予想も計算に入れる必要があります。もっとも自分の意図だけなら、平均的な成人は誰でもやっていけることなので、難しくはありません。ただシェイクスピアは、観客を限界に挑戦させます。観客に五次志向意識水準まで了解させつつ、物語を進行していかなければなりません。それを見事にやってのけたからこそ、シェイクスピアは偉大な劇作家として歴史に名を残しているのだとダンバーは言うのです。

私たちの目下の問題は、それができるのは人間だけということだとダンバーは言います。チンパンジーが認知できるのは、せいぜい二次志向意識水準、つまり自分の意図を認識し、相手の意図を見透かすことまでです。ですから、チンパンジーがタイプライターをいくら叩き続けても、「オセロ」を書き上げることはできないのです。何百年もやっていればひょっこり同じものができ上がるかもしれませんが、それはあくまで統計的にはありうるという話だとダンバーは言います。「オセロ」を書き上げたチンパンジー自身は話の展開を「志向」していたはずがないし、観客がそれについてこられるかといった発想ももちろんありません。イアーゴーがオセロに何か言おうとすることまでは理解できても、イアーゴーが自分の言葉をオセロにどう解釈させたいのかまではわからないであろうと言います。三次志向意識水準を持たないかぎり、それを理解することはできないというのです。

文学作品をちょっと読みかじるとき、たき火を囲んで物語を披露するとき、私たちは空想の世界に遊んでいます。それができるのは人間だけで、現存するどんな動物もそこまでの認知能力は持っていません。大型類人猿であれば、他者の心境を想像してごく単純なお話を組み立てることはできそうだと言います。ただ、登場人物は一人が限界です。もしかすると、人間でいうと、8~11歳の認知能力に相当する三次、四次志向意識水準までは持てるかもしれないと言います。けれども、シェイクスピアやモリエールとまでは行かなくても、これぞ人間の文化と呼べるような洗練された物語を、自ら志向して紡ぎだせるのはヒトの成人だけであるとダンバーは言います。