なぜ、二分法?

保育という仕事は、子どもたちの感情や情緒について考えることが多いために、二分法で考えることは困難なことが多いだけでなく、二分法で考えるべきではないと私は思っています。子どものけんかにしても、子どもたちの心の問題であることが多いため、どちらが悪いとか良いとかを簡単に決めつけるべきではありませんし、何が正しくて、何が間違っているかということも決めつけることは慎重にしなければなりません。それに対して、科学の世界では、二分法が成り立ちやすい分野だと思っていました。しかし、ダンバーは、科学の世界でも二分法があまりに氾濫していることを嘆いています。それは、生物学の世界でも似たようなことがあるそうですし、なんと物事が割り切れる数学の世界でも例外ではないと言います。

1764年、イギリスの長老教会牧師で、王立協会フェローだったトマス・ベイズが生前に書いた論文が発表されました。内容は、信念や信頼に基づいた確率論で、いかなる状況にも適応できる定理が1つだけという、いたってシンプルなものだったそうです。しかし、数学者たちは、この確率論にいい顔をしなかったそうです。コインを投げて、表と裏のどちらが出るといった、客観的な事実の頻度によって確率を定義するべきだと考えたようです。こうしてベイズと彼の確率論は、一度は忘れられました。しかし、最後に笑ったのは、彼だったのです。確率の頻度理論は、ベイズの定理の特殊例にすぎなかったということがわかったのです。

「生まれか育ちか」というおなじみの論争も、一定間隔で再燃しますが、そのたびに同じところで決着してきたとダンバーは例に出しています。まるで、それ自体が自然法則のようだと彼は言います。1940年代の「生まれか育ちか」論争は、知能指数の遺伝をめぐって起きたそうです。50年代には、本能をめぐる行動生物学の議論の流れで出てきたそうです。70年代には、社会生物学の分野で起こった大論争の中で意見が衝突したそうです。90年代に入ると、進化心理学という新しい分野が登場したことにからんで、社会科学や心理学主流派の研究者たちがこの議論を蒸し返したそうです。どの場合も、生物において遺伝の影響と環境の影響は、そうはっきり線引きできるものではないという発言が、必ず最後に出てくるそうです。光は波か粒子かという話と同じで、その場に応じてどちらかだけ採用して論じるのが好都合ということのようだとダンバーは言うのです。

どうして、どの分野でも二分法で物事を処理しようと、答えを出そうとするのでしょうか?ダンバーは、そこのところをこのように説明しています。「私たちの頭脳は、連続性を扱うことが不得手なのだ。異なる次元で、いくつもの変数が相互に作用するときは、なおさら苦手になる。」ですから、私たちは単純な二分法に走りたがるのだと彼は言うのです。そうすれば、難しいことを考えなくてもすむからだというのです。

日常生活をうまく乗り切る経験則がたくさん身についたのは、ひとえに進化のおかげだということはわかります。しかし、それは上っ面だけの話だとダンバーは指摘します。科学のほんとうの中身は、きわめて複雑で、二分法的な思考では、歯が立たないと彼は言います。知識の幅が広がりを脅かすのは、他ならぬ私たちに内在する限界なのだというのです。

そんな考えを持っているダンバーは、ひそかに、ジョゼフ・プリーストリーによるフロギストン説をよみがえらせる化学者が現われないかと心待ちにしていると言っています。