宗教上の信念

ヒト以外の種に対して、その利益に配慮するのは私たちの義務であろうとダンバーは言います。それは、同じ認知能力を備えた種を扱うときの考え方です。しかし、だからといって、彼らも人間同様に道徳的な判断ができると考えるのはどうかと言います。しかし、中世には実際にそんな例があったそうです。1頭のブタが飼い主を突き殺したとして裁判にかけられ、有罪を宣告され、死刑に処せられたことがあったそうです。いまから見ると滑稽であるとダンバーは言うのですが、私たちはそれだけ、ほかの動物に人間並みの能力を持たせたがるということではないかと言います。人間以外の種が、道徳的な感覚を持つという有力な証拠はありません。その意味では、私たち人間は唯一無二の存在かもしれないと言います。道徳的な感覚を持つ上で不可欠な二次以上の志向意識水準は、人間にしかできない芸当なのだと彼は言うのです。人間とは、切っても切れない宗教に、高次の志向意識水準が求められるのも偶然ではないだろうとも言うのです。道徳規範も宗教上の信念と強く結びついていると考えるからです。

どうしても、海外、特に欧米では宗教との関係についての考察が必要になるようです。以前のブログでも取り上げたように、チャールズ・ダーウィンの進化論は、ビクトリア朝の人々から大歓迎を受けたわけではなかったのです。進化論は、聖書の世界創造譚を覆すものであり、さらに悪いことに、ほかの生き物と違って人間は別格という主張も脅かしたからです。ダーウィンが賢明だったのは、宗教に関する意見を自分の胸にしまっておいたことだろうとダンバーは考えています。先達の態度にならったのか、その後の進化生物学者も注意深く神を避けてきたようです。そういう不穏な論争は、社会学者や人類学者に任せていたのです。

しかし数年前から、神をいうテーマがついに取り上げられ、詳しく論じられるようになってきたようです。そうなった直接のきっかけははっきりしていないそうですが、宗教も進化をめぐる謎のひとつという認識が広がったことが背景にあるだろうとダンバーは考えています。人間はときとして、不可解な行動をとることがあります。この先二度と会わない人のために力を尽くしたり、もっと不思議なのは、自分を押し殺してコミュニティの意向を優先させたりすることだと言います。信仰が絡んでいるときは、とくにそうなる傾向が強いようです。人間は自尊心があるにもかかわらず、善だけでなく悪に対しても、また醜悪なものに対しても追従することがあります。ヒヒやチンパンジーに自尊心はありませんが、彼らは決してそんなことはしないのです。

ダンバーは、信仰心は厄介なものだという印象を持っています。ふだん私たちは、自分の主張や意見がまっとうなものか多少は吟味しています。ところが宗教がらみのことになると、物理法則に矛盾する逸話も頭から信じて疑わないというのです。人類学者スコット・アトランとパスカル・ボイヤーが実験的な研究で示しているそうですが、水の上を歩く、死者を生き返らせる、壁を通り抜ける、未来を予言したり変えたりするといった超自然的行為の話は、ことのほか信用されるのだと言います。それでいて私たちは、神にも人間と同じ感情と心があると思っています。奇跡や、奇跡を起こす存在に対しては、世俗の超越と等身大の人間らしさの両方を求めてやまないのだとダンバーは言うのです。

宗教上の信念” への13件のコメント

  1. かつて中世ではブタが裁判にかけられたという話もあったとあり、驚きました。しかし、それは、ほかの動物に人間並みの能力を持たせたがるという考え方が影響していたりするのですね。日本でもそうですが、海外の映画や物語では動物が主役になったりする作品が多いのかなという印象を受ける時があるのですが、それと何か関係があるのでしょうか。そして、特に海外では道徳規範と宗教の結びつきが強いものになっていとありました。確かに、よく海外の人からは日本に「これだ!」という宗教がないことを驚かれるという話をよく耳にします。「では、日本人はどうやって道徳を学ぶのか」ということですが、やはり海外では道徳は宗教から学ぶという認識があるのですね。「ところが宗教がらみのことになると、物理法則に矛盾する逸話も頭から信じて疑わないというのです」という言葉も印象的でした。なんだか人間の性質のようなものを感じる言葉でした。ダンバーの信仰心は厄介なものであるという言葉にも納得ですね。真実が見えにくくなるということにもなるのかもしれませんね。

  2. 私たちは、その他の生物や自然に対して様々なことを思い描いてきたと思います。恵や天災、共生や絶滅などのように、周囲の環境から見るその対象は、時として人類を没頭させ進化させてきました。「ヒト以外の種に対して、その利益に配慮するのは私たちの義務」とあるように、私たちの役割としてあるのは、そのような種に対する「配慮」であって、決して地球を征服しようとする存在ではないはずです。しかし、他の種を私たちと同等の種であると認識すること、つまり「同じ認知能力を備えた種」であると思った瞬間、同じ天秤で物事を計らなくてはいけないことが出てきてしまいます。人間は「唯一無二の存在」として認識すると同時に、唯一無二であるからこその行動をしなくてはいけないのですね。そして、信仰心がその邪魔になってもいけませんし、信じる者を妨げる社会であってもいけません。どのように地球の恩恵を受け取り、それを返していくのかということを考えてしまいます。

  3. 宗教と聞くと自分は少しこわいイメージを持っています。高校生の時にある宗教の話がブームになり、自分の友達が本を買ってきたのです。その本には、冬に病気がはやるのは、秋に死んだ多くの虫たちの魂が人間に憑依したから だといっていたのです。自分らがこれを笑いながら読んでいましたが、その反面、この本を救いとして読んでいる方もいるんですよね。キリスト教と進化論の話もそうですが、正しい知識を信仰という武器でねじ伏せるのはどうなのでしょう。こういった行き過ぎた信仰って怖いなと思います。きっと、自分らでは考えられない、科学では解明しきれないことに対しいての解を出しているのでしょうか。わからないとは恐ろしいです。以前話にあった呪いの手紙についてもそうですが、そこに理由がつけば安心するものです。宗教とはヒトにしかできないことともあり、それを長い歴史の中で培ってきた背景を見れば、ヒトに必要不可欠なものなのかなと考えました。そして、その信仰心を見れば、ヒトらしい気持ちのあり方を見いだせるかもと思いました。

  4.  「人間はときとして」とる「不可解な行動」として、「この先二度と会わない人のために力を尽くしたり」「自分を押し殺してコミュニティの意向を優先させたりすること」と挙げられています。一期一会や、情けは人の為ならずといった言葉を想起させるところで、こういった先人の教えに沿って行動することもある意味では信仰の一つの実践例かもわかりません。ただ、「水の上を歩く、死者を生き返らせる、壁を通り抜ける、未来を予言したり変えたりする」といった「超自然的行為」とは少し異なるかと思うのですが、一期一会や、情けは人の為ならずといった言葉は、証明できていることではないかもわかりませんが、因果応報の世の中においては実際にあることです。この考え方がダンバー氏にとっては「信仰心は厄介なものだ」と思わせることになってしまうことなのかもわかりませんね。「宗教も進化をめぐる謎のひとつ」宗教をもっているわけではありませんが、人間が目に見えない何かを信じたり、善と思われることに沿って行動したりすることについて、それを証明できる程科学が未だ追いついていない、という現状があるように思えてきました。

  5. 昔、ブタが裁判にかけられるといった出来事があったのですね。人間と動物との現在ほど明確ではなかったことが伺えます。最近のブログに「宗教」というワードがよく出てきます。また、森口さんのコメントにありますが、海外では宗教から道徳を学ぶということがあるのですね。宗教について「ところが宗教がらみのことになると、物理法則に矛盾する逸話も頭から信じて疑わないというのです」と書いてありましたが、そういった面もあるのですね。宗教について詳しい知識がないのですが、ブログを読み進めるにつれ、人間と道徳と宗教の関係について気になりました。

  6. 中世ではブタが裁判にかけられ、死刑宣告された事例には衝撃を受けましたし、その背景に「私たちはそれだけ、ほかの動物に人間並みの能力を持たせたがるということではないか」とあったことにも、私はその逆で人間並みの能力は人間にだけある唯一無二のものと考えられていたように思っていたので驚きました。他の動物に人間並みの能力が認めることはブタの例もそうですが、他の動物を迫害してしまうきっかけになってしまうように感じました。また、宗教がらみになると「水の上を歩く、死者を生き返らせる…といった超自然的行為の話がことのほか信用される」傾向があるのですね。信仰心にもメリット、デメリットがあるようですね。人間と動物の線引きのように、現実と非現実の線引きの問題でもあるのかなと感じました。信仰心となると頭がこんがらがってしまうのですが、線引きという意味でも動物とも、神とも違う「人間」という唯一無二の存在であることを意識していく必要があるようにも思えました。

  7. 各々信じるものがある故に、変に疑い、争いが起こっているように感じます。それだけ、宗教の存在が道徳心を突き動かす源にもなっている場合もありそうですね。見えないものを信じ突き動かされるのも人間だからなんでしょうね。もし、動物に人間のように感じるものがあれば、人間はおかしい、と思われても仕方ない面もあるように思います。

  8. 一頭の豚の話から゛私たちはそれだけ、ほかの動物に人間並みの能力を持たせたがるということではないか゛とあることからも、ヒトと動物に二分法でわけているにも関わらず、ひとが殺人や犯罪を起こしたときと同じように罰することをします。人は、法律や規律のなかで社会生活を送っていますが、群れで暮らす動物には掟はあると思いますが、それはあくまでその群れないのであって人に押し付けるようなことをしていません。また、宗教という面から思い出されるのは、日本では特にないのですが、宗教心がある国では、動物の肉は食べないだとかそういった動物へ対して神の使いというような形で接している国もあります。
    こういった面も゛宗教がらみのことになると、物理法則に矛盾する逸話も頭から信じて疑わない゛とあるようにどんなに疑わしいものでも主観的におかしいと感じても神からの言葉だと納得してしまうのも神にも人間と同じ感情と心があると信じることができる感覚なのかなと思います。

  9. 自分は何か宗教を信じている、信仰しているわけではありませんので〝信仰心は厄介なものだ〟というダンパー氏の意見を聞くと、思い浮かぶものはテロ行為などを行っていた宗教というか団体のようなものが思い浮かびます。
    〝人間は自尊心があるにもかかわらず、善だけでなく悪に対しても、また醜悪なものに対しても追従することがあります〟という宗教を信仰することについて「厄介なところ」と思われるものが挙げられていますが、同時に海外の国では道徳が宗教の考え方からきているということでもあるんですね。
    神について、人間らしさと人間を超越したものを同時に求めているということで、両方を求めているというところに人間の「らしさ」を感じました。

  10. 「ヒト以外の種に対して、その利益に配慮するのは私たちの義務であろうとダンバーは言います。それは、同じ認知能力を備えた種を扱うときの考え方です。」というのはなんだか納得のいく考え方だと個人的に感じました。唯一無二の存在だからこそ、しっかりと配慮していかなければいけない存在なのだと思わらされます。豚が裁判にかけれらるということもあったというのは驚きですね。道徳的規範も宗教上の信念と強く結びついているというのは神の力というのが大きく影響しているということでしょうか。神のみぞ知るといったことをよく聞きますが、そういった神も人間と同じ感情を持って世界を見ているような感覚というのはわからなくもないですが、そういったことが強く人に影響しているということなのでしょうか。

  11. 私自身、宗教に関してそこまで信仰心が強くないので、困ったときにすがったり、助けを求めたりしたことはありませんん。しかし、世の中にはどうしようもないことが起こり、精神的に辛かったり、誰も助けを求める人が身近にいなかったりと、どうしようもないことが起きると宗教に助けを求めるのかもしれません。日本では宗教の信仰は自由となっているので、否定はしませんが、やはり世間を騒がせ、た過去の信仰宗教は危険かもしれません。怖いのは、冷静に考えて道徳的ではない行為を平然と行い、それをあたかも自分たちは正しいと信じ込んでいることが怖いです。宗教の問題というのは正直、難しいです。日本にも仏教の中でも様々な宗派があり、それぞれが信じる事は若干は違うのだと思います。かと言って、どれが正しいかというのも分かりませんし、間違っているというのも分かりません。宗教の信仰に関する問題は慎重に考える必要があるように思います。

  12. 一神教の世界、あるいは一仏信仰の集団のファナティックさは過去及び現在において証明されているのです。これだけ科学が発達してきても、なお地球は平面だ、天動は真実だ、人間は神の似姿だ、と信じて疑わない人たちが存在しています。欧米社会に多い現象?です。山川草木悉有仏性とか八百万の神々をありがたがる国に生まれた自分の生に感謝しても感謝しきれません。しかも、無宗教でも普通にまかり通る日本社会に改めて感謝感激雨霰です。「ヒヒやチンパンジーに自尊心はありませんが、彼らは決してそんなことはしないのです。」そうです、同族どころか他の種を平気で殺戮してしまう能力をもった私たちホモサピエンスは一体何なんだと思ってしまいます。人間の優位性はウィルスの前では屈せざるを得ない。この1点だけからも「人間、おまえは何様よ!」つまるところは、ノラリクラリ、白黒決めずに相対世界のなか喜怒哀楽を楽しめる己が存在を享受するのみでしょう、社会規範を意識しながら。私たちは分をわきまえないといけない、と思うのです。

  13. 宗教上の信念における事件や問題は歴史上起きています。このことをとってもダンバーが信仰心は厄介なものというのも分かるように思います。人が戦争を起こす火種となるのも宗教が絡んでいることは多いです。「信じて疑わない」洗脳にも見えるような信仰心がそうさせるのでしょうね。しかし、そもそもは人がその偶像を作り出したことから宗教は始まり、その根本には志向意識水準が大きくかかわっているのですね。「道徳規範も宗教上の信念と強く結びついている」とあるように様々な生き方や考え方を宗教の中で述べられ、それを中心に自分の意識を持っていることが宗教にはあり、「宗教がらみになると、物理的法則に矛盾する逸話も頭から信じて疑わない」といった価値基準になってしまうことも往々にして起こります。確かに自分の価値基準を変えてまでも宗教に追従してしまう判断を行うというのは霊長類や動物においてはないことであり、そこから道徳的なことを学ぶこともありますが、盲目的にならず、自分自身の洞察力や判断基準というものも同時に持っておかなければいけないように思います。

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